2018年12月11日火曜日
おっさんのための「涼宮ハルヒ」論 そして、宗教。
まあ、最近ブログを更新していないのは、プライベートでいろいろ忙しくて、この希なる頭脳をフル回転していて疲れていたからです。
ああ、コーヒーおいしい。じゅるる。
と、そんなわけで、いつもの学術的哲学的性的テイストとは違うスタイルで、今日は
涼宮ハルヒ
の話をします(笑)
どうもネットの一部で、「涼宮ハルヒの顔がいい」ことからよくわからん論議をふっかけて消えてしまった人がいるらしく、それに大勢が食いついてちょっとした話題になっていたらしいです。
しらんけど。
知らんけど、で言えば、先日朝の10チャン(関西人)の番組で、野村明大さんが、ニュースの解説の後に
「しらんけど」
と放送事故級の発言をして、度肝を抜かれ、かつ爆笑しました。
ニュース解説者やアナウンサーが時事について「知らんけど」を言ったら、おしまいやがな!
でも、それが許容される関西はすげえな、とも思ったわけで。
もはや、キャッチフレーズを「許される大地」にしたほうがいいと思う。
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話が飛びました。
元々の話はこれね。
涼宮ハルヒ美顔革命論について
https://togetter.com/li/1295732
で、はてな界隈では有名なシロクマさんがこれに受けて書いたのがこれ。
再考・涼宮ハルヒの憂鬱のどこが新しかったのか
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20181211/1544515200
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さて、武庫川さんは、アニメから涼宮ハルヒに入ったのだけれど、(それも、オタクな嫁に勧められて)、出身地がハルヒの世界とおなじ町ということもあって、そっちの意味でも楽しめた作品でした。
しかし、世間のアニメへの熱狂はさておき、実はこのお話は、
「原作がとてもよく出来ている」
と感動したことも覚えています。小説界における名作といってよいでしょう。
そもそも、「涼宮ハルヒの憂鬱」とは、いまでこそシリーズものになっていますが、本来は
「たったひとつの話で完結する物語」
です。
それが、いわゆる「第一巻」で、この単体の物語が良く出来ていたので、ライトノベルの文学賞を獲り、それが出版、拡大へと繋がっていきました。
なので、第一巻を読めば、「ああ、これは本当はこれだけで終わりの話だったのだな」ということがよくわかります。
アニメやキャラクターは知っていても、小説としての「涼宮ハルヒの憂鬱(ただし、第一巻に限る)」を読んだことがない人は、ぜひ読んでみてください。
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では、この「涼宮ハルヒの憂鬱」 の何がすごいか!というと、それはまさしくこのブログや、私の関心事である
「神について」
の話でもあるからです。
涼宮ハルヒちゃんを、黄色いリボンのただの美少女だと思ってはいけません。彼女は、「神」そのものなのです。いや、まじで。
どういうことかと言うと、
A 主人公と、それを取り巻く人たちにとっては、ハルヒは神のような存在である。まさしく、天地を動かす、神である。
B しかし、ハルヒ本人にとっては、セカイはふつうの日常だし、主人公たち以外にとってもセカイはやっぱりただの日常である。
という2つの面が、ぴったり重なってこの日常世界が進行していくという話なのですね。
そのあたりの矛盾や折り合いを、ライトノベルの枠内でとてもきれいに、すこーんと明快に、そしてわかりやすく文章にまとめたのがこの作品で、本当によくできているのです。
それはまるで、
A 宗教を信じている人にとっては、神のおぼしめしとやらも含めてセカイは回っている
B 信じない人にとっては、神などいない日常がただそこにある
ということと似ています。
そして、この2者が、とりあえずは、矛盾せず全体としてこのセカイが成立しているように(みんながそれで暮らしていけているように)、涼宮ハルヒをとりまく人たちもまた、神のセカイを過ごしてゆけている、というお話なのです。
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涼宮ハルヒをもって「セカイ系」の代表作のひとつとみなす考え方もありますが、ハルヒ以外のセカイ系の文学は
「凡庸なる一介の主人公が、特定の美少女との関連性において、世界の成立と関わりあう」
というのがセカイ系の定義であることは、もちろん、その枠内にあることは確かながら、
A「主人公を取り巻く環境、世界が特異な世界」
だったのがこれまでのセカイ系で、
B「主人公を取り巻く環境、世界はいつまでもふだんの日常」
だったのがハルヒだと言えるでしょう。
Aの例としては「ヱヴァンゲリオン」「最終兵器彼女」などが挙げられますが、主人公と美少女が世界のカギを握りながら、その世界は特殊特定の状況にあるというのが特徴です。
それに対してBは、主観的な感覚としてはいろいろ不可思議な出来事が起きているのだけれど、実際に客観視、俯瞰視すれば
「まーったく日常そのもので、何も起きていないし、何も起こらない」
ことが続きます。
それはまるで、
「ハルマゲドンは、いつまでたってもやってこないし、たぶん最後までやってこない」
ということに似ています。主観的には神を信仰しながら、客観的には、何も起こらないのです。
その意味では、なにがしかの宗教に属し、それを信じている人たちは、ライトノベルの主人公としてこのセカイで生きている、とも言えます。
ああ、ラノベみたいな生き方がしたいなあ!と思うなら、宗教に入ればいいのです(笑)
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ハルヒの主人公、キョンのベースにある諦念のようなものが、ハルヒとのドタバタによって、次第に違う方向へ、よりポジティブへ変化してゆく、というあたりも青春小説としての魅力ではありました。
巻数が進むに連れ、青春小説としては、キョンはどんどん能動的にセカイに関わってゆきますが、それはまた別のお話です。(巻数が増えたのは商業的な理由によるものなので)
それでも、そのベースにある、「セカイはなんも変わりゃしねえ」という達観は、ある意味現代的でもあり、いろいろ考えさせられます。
そう、ハルマゲドンは来ないのです。
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