みなさん、おはこんばんちは。
幸せいっぱい夢いっぱい、武庫川散歩です。
前回は西洋の宗教の代表格である「キリスト教やイスラム教」などについてお話しましたが、今回は東洋系です。
私たちにはなじみの深い「仏教」を中心にお届けしようと思っています。
個人的に仏教というのは、宗教というよりも「哲学」の要素が強いと思っているのですが、いわゆる輪廻転生などもふくめた「世界観」については、ヒンズー教の影響も色濃く残っているので、ここではヒンズー教と絡めながらまとめてみましょう。
さて、お釈迦さまは、インドのシャカ族の王子として紀元前7世紀ごろに生まれ、29歳で出家して、35歳で悟りを開いたとされています。名前は、ゴータマ・シッダールタ。ゴーリキ彩芽みたいですが、当然ながら無関係です。
私も最初の悟りは18歳で、最後の解脱が36歳の時ですから、いい勝負ですね。良きライバルです。(←バカ)
あれ?ここで不思議なことに気付きます。仏教は、お釈迦さまがはじめたのに、いったいどこに出家したのか。出家というのは、仏教の世界に入ることじゃないの?と思いませんか?
そうです。出家じゃなくて「家出(いえで)」だったのです!
というのは嘘で、これにはちょっとしたバックグラウンドがあるのです。
まず、インドは昔もいまも階級社会で、がっちり身分が固定されています。世界史の時間に「カースト制度」を習ったと思いますが、身分によって職業や結婚などが制限されているのです。
さて、もともとインドには「ヴェーダの宗教」という古代宗教があり、今もいろんな意味で続いています。その「ヴェーダの宗教」の考えは、インド土着のいろんな神様を信仰する多神教で、神に仕える司祭(バラモン)が偉いので、それ以下はいろいろ身分の階級があるというカースト制度の基本になっています。
また、ヴェーダの宗教は、現世の行いによって次の生まれ変わりの身分が変わるという「輪廻」思想をもともと持っています。なので、「おまいら、輪廻でつぎつぎ身分が変わったらしんどいやろ。だから、輪廻から開放されたいやろ。だったら解脱して自由になれるんやけど、どや?」という理屈で、「解脱」という概念も持っているのです。
ヴェーダの宗教は、あるとき偉いひとたちバラモンによって「バラモン教」というスタイルを取ります。バラモンの権力が最大になったスタイルの宗教ですから、それ以外の身分の人たちは反発します。
ちょうどその時代に生まれたのがお釈迦さんなので、彼は最初「ヴェーダの宗教を信仰する者」として家出します。というのも、バラモン(司祭)ばっかりが権力を持っていたその頃、「バラモンだけじゃなくて、神様たちともっとちゃんと向き合いたいぜ」という純粋な気持ちを持つ人たちがたくさん現れたので、神殿を出たり、自分の家を捨てて「自由に信仰を見つめなおす」ことが流行するわけです。
こういう人たちを「沙門」と呼び、これはバラモン階級ではないヴェーダ系宗教の「修行者」を意味します。つまり、お釈迦さんはバラモン階級ではなかった(次の階級。王族のクシャトリヤ)ので、勝手に飛び出して自分を見つめなおしたかったのです。
自由になれた気がした、29の夜♪
というところでしょうか。
したがって、お釈迦さんは、最初、「バラモン教」の修行をバラモンじゃないけど自分で勝手にやります。もちろん、先輩の「沙門」さんたちにいろいろ教えてもらったり、一緒に考えたりしながら修行します。
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余談ですが、バラモン教は、バラモンの権力が強すぎたので、だんだんと違う身分もやいのやいの言い出します。そこで、力関係とバランスが改まった「ヒンズー教」へと変化して今へ至ります。基本的なヴェーダ系宗教であることは同じですが、もともと多神教なため「メインの神様」の格付けがバラモン教とヒンズー教では異なります。
ヒンズー教になると、みなさんもおなじみの「シヴァ神」やら「ビシュヌ神」とかがメインになってきます。また、何度も言いますが多神教ですから、
天地を造った神 ブラフマー
天地を維持する神 ビシュヌ
天地を壊して再生する神 シヴァ
と分担が分かれています。
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話は戻って、お釈迦さまは家族を捨てて、ヴェーダの宗教の修行をいろいろするのですが、結局何をしてもあかんかったのです。
体を痛めつけても、断食しても、何してもダメで、へろへろになります。
「いやもう、マジ無理」と倒れこんで死に掛けたていたところへ、村の娘スジャータが乳粥をもってきてくれて助けてくれたので、復活してやっとこさ悟りを開いた、ということになっています。
お釈迦さんはその時「旧来の修行で頑張っても、ダメ」「私の悟りを他人に説明しても無駄」「他の人はたぶん悟ろうとしても無理」と思うのですが、そこへなんと
ブラフマンの神(梵天)が現れて
「いやいや、ぜひみんなに教えてあげなさい」というので、「じゃあ、おしえてあげよっか」と考え直したのです。
・・・・・・この時点で私は、お釈迦さんよりも直接ブラフマンさんを拝みたくなるのですが、ダメでしょうか?神として信仰したいのは、お釈迦さんより、その上のブラフマンさんなんですが・・・。
さて、お釈迦さんは、最終的に変な料理を食べておなかが痛くなり、死にます。その後は弟子たちによって仏教が広まる、というわけですね。
ところで、皆さん。ここまで読んできてもう気付くと思いますが、お釈迦さまは神様ではなく(仏様です、というボケは無しですよ)、どちらかといえば、「神々の教えを正しく理解した、ただの人」であることがわかると思います。
なので、私は仏教はどちらかといえば、個人的にお釈迦さんが悟った「哲学」に近いと思うのですが、どうでしょう。
その裏づけとして、初期の仏教では仏像もつくらないし、第一お釈迦さんを信仰の対象にはしていませんでした。その期間なんと400年!
400年間も、お釈迦様のやったことは「神のありよう、宇宙のありようを悟るための方法論」として認識されていたことになります。
その教えの本質は「すべてのものは無常で、よけいなことを考えるのは無駄」ということです。
「いろんな欲望は、ぜーんぶ無駄。すべては移り変わる。そして、霊魂とか存在しない。実体とかないし、自我もない。目標は、ぜーんぶ捨て去った何にもない状態」
「形があるものは苦しみ。だから何にもない状態を目指そう。そうしたら、すべてのものから開放されるよ」
「あらゆるものは、本当は『空』、実体はないし形もない。ほんとはね」
これが、お釈迦さんの悟りの本質です。
ただ、一点。仏教の基本原理として、ヴェーダの宗教の名残が残っており、それが「輪廻転生」であって
「悟りを開くまでは、あんたらはいろんな欲望やこだわりや自我のせいで、それが原因で輪廻を続けるよ」
と言うのです。これはなかなか大変です。
さて、私個人的には彼の言っていることはよくわかります。というか、お釈迦さんの悟りと私の悟りはとてもよく似ていますから、いやはや大先輩として尊敬します。
ただ、お釈迦さんの哲学は、そもそも「この世界がどうしてここにあるのか」とか「実体をもって感じられるこのセカイは何なのか」ということについての概念が、少し弱いように思うのです。
あなたの出会ったブラフマンとはどういう存在で、そうした神とこの世界との整合性はどうなってるんだ、というあたりがあやふやになっているのです。
そして、輪廻のしくみも、個人的には承服しかねます。何にもないんだから、輪廻もクソもないのだ、と言ってもらうほうが、よっぽど明快ではないでしょうか。
まあ、このあたりは、のちのち私の悟りでどうなっているのかは、お話するとして、おおむねお釈迦さんの言っていることは、紀元前7世紀ごろの科学力では、かなりいい線いっていると思います。
なので、私はお釈迦さんの哲学を基本的に肯定します。たぶん、彼がわかったことと、私がわかったことは本質においてかなり近い、と。
「おまえ、えらそうやな、なんぼのもんやねん」と思う仏教徒の方がいるとしたら、その人にはこう言いたいです。
「お釈迦さまが、みんなにもこの悟りを広めようと頑張っているのに、その悟りをおんなじように共感した私に向かってなんちゅうことを言うのだ。あんたら、シャカの気持ちをバカにしてんのか!」
と。みんなが悟りを開くこと、それがお釈迦さまの願いです。僕も同感。なーんて。
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