みなさま、おはこんばんちは。
今日も、おだやかに過ごしております。武庫川散歩です。もちろん偽名です。
おそらく、こんなブログはあんまり誰も読んでいないだろうし、これからも読む人が少ないと思うので、至極のんべんたらり、まったりと記事を書いているのですが、とりあえず最初の記事ですから、
「悟りを開くとはどういうことか」
について書いてみたいと思います。
さて、私がいわゆる悟りを開いたらしいのは、何段階かに分かれているのですが、ほんとうのとっかかりは10代の頃、それから20代にかなりいい感じで悟って、30代でいよいよ「まるっとズバッと」悟ることができました。
で、悟りを開いたらどうなったのか、というと。なるべく平易に書きますが、簡単に言えば
「基本的に、このセカイに対してとても穏やかな気持ちになった」
「何かに対して怒る、恨む、憎む、ということがなくなった」
「とりあえず、幸せ(はーと)」
「迷いがなくなった」
などの境地になりました。
念のために書いておきますが、悟りを開いても
超能力が使えるようになったり、
神の声が聞こえたり、
空中浮遊ができたり、
すっごい頭んなかがズギュンズギュンして、ショワーっ!!ってなったり、
なんか体がビクンビクンしたり、
そういうことは全くありません。
そういうのを期待する人は、何か(できれば合法的な)薬物を摂取するほうが早いと思います。それか脳の特定の部位に電極でも差し込んでもらって奥歯ガタガタいわしてもらうのもいいかと。
そういう意味で、これも改めて書きますが、当ブログはスピリチュアルなこととか、霊的なこととか、そういった内容とは天と地とほども離れた方向で話が進みます。
真の「悟り」は、そういうオカルトがかった話では全くなく、むしろ一般的な科学的論理に近いからです。
なぜ、そう言えるのかというと、特に私が悟りに至った本質的な内容というのが、
このセカイがどうやって成り立っているのか、理解した。
という点につきるからです。
この領域になると、どちらかといえば
「ビッグバンで宇宙はスタートしたんだぜ」とか
「スーパーカミオカンデで素粒子を探してるぜ」とか
「ヒッグス粒子が見つかったんだぜ」とか
そういう分野に近いので、きっと信仰心の篤い人にとっては、面白くないことでしょう。
しかし、たとえばもし神様がいるとして、
「神様が創ったビックバンやらヒッグス粒子を語らずして、なぜに神を語れるのか!おろかものめ!ババーン!」
ということになりはしませんか?
なので、とっても科学に満ち溢れた合理的な話と、とっても神様仏様な「このセカイのなりたち」は、本来はひとつのもののはずです。
当ブログにおいて、「悟る」ことは、とても淡々としていて、理論的です。
それでも、「悟りを得る、悟りを開く」瞬間は、ある意味ものすごく強烈なひらめきを伴います。
ベタな例で言えば、アルキメデスが叫んだ「ユーレカ!」(eureka・ユリイカ)のようでもあるし、パウロの「目から鱗が落ちた」でもいいでしょうし、「スジャータ」でもいいでしょう。(あ、これはちょっと違うか)
それはまさに「覚醒」であり、「光明」であり、ものすごい体験なのですが、その体験を得たいがために求めるものでもありません。
悟りの体験そのものは、たいしたことではありません。それよりむしろ、
「俺すっげー悟っちゃったんだぜ!」
と何度も語りたくなるようでは、たぶんその人は悟ってはいないと思います(苦笑)
逆に、「悟りを得た」瞬間こそ歓喜に満ち溢れているのですが、その喜びは「このセカイを知ることができた」という純粋な喜びであって、同時に「ものすごい畏怖と恐怖とおそれおののく気持ち」にも同時に見舞われることになるからです。
そういうものが一挙に入り混じって、ぱっとすべての視界が開ける感じ、とでも言いましょうか。
まあ、でもそんなことは瑣末なことで、どうでもいいことなのですけど(苦笑)
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