2014年1月27日月曜日

■<7> いろんな宗教を知っておこう その4 神道

 みなさん、おはこんばんちは。

 世界三大宗教を一通りざっくり理解したところで、とりあえず日本人である私たちですから、日本の宗教についても軽く見ておきたいと思います。

 日本の民族的な宗教である「神道」というのは、以前にもお話した「多神教」です。火・水・土・川・山・雷・・・など、とにかくあらゆるものに神様が宿っている、という考え方がベースになっています。

 
 ユダヤ教について説明したときに出てきたのですが、もともと「アブラハムの宗教」の神は、ユダヤ人・イスラエル人しか対象にしていなかったことを覚えているでしょうか?つまり、エホバ、ヤハウェという神様は、元来、今のイスラエル地域の土着の神様だということになります。


 日本の神道も、日本という土地と密接に関係している神様なので、あまりカンザス州のこととか、ヒマラヤの奥地のことは考えていません。神道は天地創造についての記述を持つ宗教ですが、なんと言っても世界で一番最初にできたのは「淡路島」ですから、世界的グローバルな視点で言えば、かなりローカル臭のただよう宗教だということになります。

 というよりも、神道における神というのは、自然の力・現象に対しての尊敬や畏怖の念をスタートにしていますから、たとえば木の神様がいるんだ、という発想は、アイヌの人たちの「樹木はシランバカムイという神が宿っている」という考え方などに似ています。

 こうした神様の概念は、実は世界的にたくさん見られるので、「万物に神が宿っている」という発想そのものはとてもオーソドックスなものです。



 ところで、全てのものに神が宿っていたら、それは神道か?と言われればそれは違いますよね。神道というのは、そこから日本の国のあり方・政治の歴史と密接に関わるようになってきます。

 宗教と政治は、基本的に密着します。インドの「ヴェーダの宗教」が司祭階級のバラモンによって指導され、バラモンが王族よりも高位だったこともそうですし、「アブラハムの宗教」において預言者は、すなわち民を導く指導者だったことも同じです。

 日本においては、卑弥呼が神と交流できる霊媒師として、国を治めたことからもわかるように、神々に対して祭礼を行う司祭階級と政治的支配階級はとても近いことになります。


 ただ、日本の神道の特徴は、これも自然な宗教心の現れなのですが、「先祖を大事にする」という先祖崇拝とも関係があるところがポイントです。その証拠に、我々はふだん神社に行って、火の神様を祭ったり、水の神様を祭ったりするよりも、

 昔、いたらしいオオクニヌシさん

とか

 平安時代の菅原道真さん

とか、そういう歴史的な先輩、先祖を崇拝することのほうが多いのです。これは、日本人が基本的に先人を敬う気質を持っている、ということでもあります。


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 さて、「司祭階級と支配階級」の話、それに「祖先崇拝」の話が合体して、日本の神道はみなさんが知っているスタイルで、はっきり形がわかるようになってきます。


 天皇という存在は、もともと「アマテラス」という神様の「子孫」で、そしてそうした神々に祭礼を捧げる役割をしていたので、日本の皇室がいまの形で続いていることになるわけです。

 もともと、天皇の仕事は、神々に対する祭礼を執り行うことです。ですので、天皇は司祭であると同時に、神の子孫ですから「祖先崇拝」をしていることにもなります。

 それから、だんだんと政治的権力を持つようになり、平安時代などは、実権を掌握します。ところが、鎌倉時代になると「幕府」の「将軍」などに実権を奪われますので、政治的には、形式的な位置付けに一旦戻るわけです。


  天皇が、実権を再び持つのは、「明治・大正・昭和」期だけで、現在ではまた「象徴的存在」に戻っています。


  では、天皇は今いったい何の仕事をしているのか、というと、やっぱり祭礼を執り行っているんですね。もともと、それが仕事ですから。

 よくテレビなどで「新嘗祭(にいなめさい)」をやりました、とか時折ニュースになっていますが、天皇は日本という国ができた当初から今まで、格式にのっとった祭礼をずっとやり続けているということなのです。

 そして、では神様に何をお願いしているかと言えば、すごく簡単で「食べ物が豊かに実って、災害がなくて、みんなが平和でありますように」ということを、ずっと昔から祈り続けているわけです。

 神道というのは、基本的にそういう宗教です。ですから、私たちが神社に行ってお祈りするのも、基本的に「今年一年平和でありますように」とか「不幸がありませんように」ですし、神主さんがそれぞれの神社で祈っているのも「村が平和でありますように」とか「作物が育ちますように」とか、やっぱり同じ内容なのです。



 日本人は、ほんとうに、基本的に温和であることがよくわかります。


 「異民族から土地を奪え」とか「他の神を信じるものは敵だ」とか、そういう攻撃の発想もないし、「来世がどうのこうの」とか「天国がどうのこうの」という話も皆無です。


 それは、日本が物理的に島国で、侵入や侵略に出会う機会が少なかったことと、海の幸・山の幸が豊かでおおむね食べることが容易だったからに他なりません。


 「アブラハムの宗教」は、基本的に「砂漠の民」の宗教ですから、ふだんは砂漠をさまよい歩いていて「いつかどこかにオアシスがあるんだ」と願いながら苦しむわけです。食べ物も満足ではないので、「天国へ行ったらいっぱい食べ物があるんだ」と思うわけです。

 そして、ある土地に緑が育っていて、そこに先住者がいたら「この緑と水は神様が我々に発見させてくれたんだから、異教徒のおまえらは出て行け」という発想になるわけです。


 ですので、神道が「この世界が存在する理由を示してくれる」とはなかなか思えないのですが、日本の風土や国民性とマッチして、非常に豊かな世界観を有していることは確かです。

 アマテラスやオオクニヌシを信仰するんだ!という極端な気持ちは別にして、「先祖や祖先を敬う気持ち」や「自然に向き合う気持ち」や、「今日も穏やかだったらいいなあと願う気持ち」くらいは、当然なものとして認めてよいと思います。







 

 


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