お待たせしましたこんばんは。セカイが求める最終兵器こと、武庫川散歩です。
前回は、この世界がドラクエでときメモであるというお話をしました。
そして、ブッダであるところのお母さんが一喝。
「そんなの捨ててしまいなさい!」
と怒鳴ったところで終わりましたね。
そんな「捨てる技術」(by辰巳清・宝島社新書)なブッダの悟りに対して、 ワタクシ武庫川散歩はどのように考えるのか、というお話が今日のつづきです。
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私の考え方はこれまた明解です。
「え?別にドラクエしたらええやん」
ということ。それが無常だとわかっているのならば、楽しめばいいんとちゃうん?ということです。
どうですか?この偉大な父性!
まるでお父ちゃんが帰ってきて、
「なんや?ゲームか?お母さんが捨てろってか?まあまあ、ええやないか。適度にやるんやったら、かまへんやないか」
とネクタイを外しながら言うお父さんそのものです!
武庫川散歩の悟りは、そもそもこの世は存在しない、というスタンスですからゲームに執着しないというところまではブッダとまったく同じです。
しょせん二次元の女の子ですから、どうでもいいのです。
しょせんゲームですから、現実世界には侵食しません。ていうか電源切ったらおしまい。
そういうスタンスの中にあって、それでも「セカイを捨てようとする仏陀」の感覚が、私とは異なります。
あるんだから、楽しめばいい。
まさにゲームです。
ゲームを作ってくれたことを否定はしない。むしろそれは楽しむためにあるのではないでしょうか?
これをそのまま神さまに置き換えましょう。
私たちの世界を神さま(とかなんかわからんけど)が作ってくれたことを否定はしない。むしろそれを楽しんじゃえばいいんじゃない?
これが、サイバーパンク解脱の真髄です。
このセカイに、私たちは悩まされることはありません。喜びも苦しみも、悲しみも怒りも、楽しみもすべて、インプットされたデータ的な「フラグ」みたいなもんです。
こっちのフラグが立てば、嬉しく感じる事象がおきます。あっちのフラグが立てば、悲しみモード発動です。
すべての人は、いつか死ぬ。その間、
どれだけイベントを発生させられたか
に過ぎません。
イベントは楽しむものです。一喜一憂するためのものではなく、それひとつひとつは大して意味はないのです。
あなたという物語の1エピソードに過ぎません。
ハイパーメディアクリ・・・・ブッダをほれ信じなさい!やれ信じなさい。
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