2015年12月31日木曜日

3秒でわかる仏教のお話。 ~あなたはそれでも仏教徒になりますか?~

 当ブログのファンであったり、当ブログの記事を多少なりとも読んだことがある読者諸君であれば、

「仏教というものは、究極的にはこの世がむなしいものであり、そんなむなしい世界に欲望を抱いても仕方がないので、それらを全て捨て去れば平穏が訪れる、という宗教だ」


ということくらいは、ざっくりと理解なさっていることと思います。


 それはまったくその通りで、少なくとも「現世レベル」では、そうした欲求欲望を捨て去ることで、迷うことがなくなる、というのは仏教の根本的な教義です。


 ところが、仏教にはもうひとつ、「むなしい世界を終わりにする」という同様かつ別の世界観があって、それがこれまたよく聞く


「輪廻転生を終わらせて、涅槃に至る」


というやつなのです。


 実は、輪廻転生という概念は、仏教がオリジナルなのではなく、古代インドのいわゆる「ヴェーダの宗教」「バラモン教」「ヒンドゥー教」などの共通概念で、言ってみれば、


「日本人の先祖崇拝みたいに、当たり前的に存在する概念」

ということになります。


 輪廻転生とは、「あなたが死んだら、ハエとか、人間とか、豚とかに生まれ変わって、繰り返される」というイメージです。

 それが何度も何度も永遠に繰り返されるものだから、人生というものにげんなりしてしまう。ああ!人ならまだしも、ハエ生とか豚生が繰り返されるとはなんて苦痛なんだ!というのが、インド的人生のイメージだというわけです。



  というわけで、仏教では「2つの苦しい世界」からの脱却を目指します。


 ひとつは、むなしいこの世界の欲から解放されることで、もう一つは、むなしい輪廻転生のサイクルから開放されるということですね。


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 さて、ここからが3秒でわかる仏教の真髄です。


 では、その苦しい世界を脱却するために、ブッダとその弟子はどうしたか。


「乞食をして、食べ物を恵んでもらって、集団で住んで、子孫を残さず死ぬ」

ということを実践したのです。


 まあ、言い方はなんですが、「簡易宿泊所に無欲なホームレスの方が集められて、彼らが徐々に亡くなってゆく」みたいな感じです。

「人生は無常だなあ」としんみり感じながら、童貞のまま枯れ果てて死ぬ、みたいな。


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 3秒にまとめると、仏教はこんな感じです。敬虔な日本仏教とか見れば


「全然違うわ!!!」


とお叱りを受けそうですが、 真剣な上座部仏教の研究者から見れば、


「ある意味うまいことを言うwww」


とニヤリとなさることでしょう。


 ブッダは労働を否定しましたので、基本的には托鉢という名の乞食で生活をします。サンガという集団で暮らし、生活の全てを仏教に投入しますので、生きることも無常の塊です。そして、異性と交わったり、みだらな思いを抱くことも禁じましたので、


「1人ずつ、死んでいく」


ことに相違ありません。子孫を残すなんてもってのほかなので、集団は基本的には生殖によって増えません。


(そういう意味では、基本的に絶滅するスタイルの集団なのに、現代まで何千年も仏教が続いているということは、新しくその集団に入ってくる者が常に死ぬ者よりも多かったというすごい宗教でもあります)



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 というわけで、仏教というのは基本的にそういう宗教なので、「仏教にすがって悟りを開きたい」という人は、今すぐ職を辞めて大阪の某所とかに行けばいいと思います。

 すぐに、ある種の悟りが開けることは間違いありません。保証します。



 このブログが提唱しているのは、残念ながら仏教のそれとは少々、というか全く異なります。


 そもそも、インドの思想を受け継いでいませんので「輪廻転生」を全く否定します。

 あなたは死んだら終わりです。残念無念かもしれませんが、THE ENDでどうしようもありません。


 しかし、未来に希望がないわけではない!来世はありませんが、あなたが死んでも残るものが確実にあるのです。


 それが何なのかは、ぜひ悟りを開いて体感してください。












2015年12月18日金曜日

【これからの宗教の話をしよう 4】 これからの日本人を救済する宗教とは ~あなたは必ず救われる~

 迷いや苦しみの多いこの社会で生きてゆくためには、現代はあまりに救いがない、と誰もが感じていることと思います。


 これまでの3回の連載で、世界史をひもときながら宗教史を考え、今度は日本史にも目を向けて、「日本人のための救済と宗教」について考えてきました。


 そして、前回の最後に


「日本人が心の平穏を得られるような、新時代の新しい宗教観」


というものが必要であり、かつ私、武庫川散歩には、それに対しての明確なビジョンがある、ということをお話したところです。


 というわけで、第4回では、「現代人のための、真の宗教」についてお伝えしようと考えています。


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 その前に、少しだけ、これまで世界で広く信じられてきた宗教について、ある「別の観点」で分類してみたいと思います。


 それは


「その宗教は、現世利益を追求するものですか?それとも来世利益を追求するものですか?」


という観点です。




 ユダヤ教は、本来は現世利益を追求する宗教です。もともとは砂漠の民の宗教ですから、「君たちが正しい信仰を持っていれば、神が約束する地を与えよう」というのが、ユダヤ教の本質です。

 この言葉を信じて、ユダヤ人たちは時にはエジプトに征服されて連れていかれたり、バビロニアにやられて連れていかれたり、ローマに支配されて属州になったり、あるいはナチスに迫害されて散り散りバラバラになったりしても、


「カナンの地という約束の土地に再びイスラエル王国を再建できる」


という希望を信じて数千年生きてきています。だから世界中のユダヤ資本家たちが結束して、イスラエルという国をあの場所に建国し、そして維持することに命をかけるわけです。

 アラブ諸国と紛争を繰り返しても、これだけは譲れない神との約束だからです。





 キリスト教・イスラム教、そして仏教は、そうした現世利益ではなく、究極的には「来世の利益」を追求する宗教だということになります。


 キリスト教やイスラム教は、簡単に言えば、


「神に従った生活を守っていれば、審判の時に神に認められて、あちらの世界で永遠に生きることができる」


というものです。あちらの世界、というものが具体的にどういうものなのかは、各宗派の解釈によって異なります。

 地球上に死んだ人類が皆再び蘇る、と考えるキリスト教の一派もあるし、肉体を伴わない天国のようなものと考えるキリスト教やイスラム教もあります。


 仏教は、現世に対して、いわゆる天国のような「解脱の境地に到達した何ものにも惑わされることのない来世」をイメージしています。そこに到達できない者は、何度でも現在のこの世界に戻されて人間だったり動物だったり草木だったりいろんな人生をやり直しさせられる、という考えですね。

(本来は仏教そのものよりも、ヒンズー教やバラモン教に関わりのある考え方です)




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 ということは、「人類が求める救い」とは、


まず

「この世界で幸せに生きることなのか」


それとも


「あっちの世界を信じて、そちらに希望を託すのか」


の2つの大きな分類がある、ということになりますね。



 この2つのどちらが正しくて、世界の真実か、ということは一旦保留にしておいて、


「どちらの宗教が流行するか、ウケるか」


は簡単に説明できます。


 戦争や動乱が起きている国や地域では、ぶっちゃけ「あちらの世界な宗教」が信仰されます。現世利益どころか、そもそもそこらへんで人が死んだり、財産がぶっとんだり、家族がバラバラになったりするからです。


 こんな時代や地域において「この神を信じれば、健康で健やかに過ごせますよ」と言っても、誰も信仰しません。


 当たり前の話です。



 逆に、経済が発展していて、治安が安定している国や地域では「現世利益宗教」が信仰されます。

「より満たされる生き方ができますよ」

とか

「ガンが治りますよ」

とか、そういうのがウケるのです。


 なんだかんだ言って、現代の日本はそこそこに生きていけますので、「来世は幸せに」とかではなく、「今現在幸せになりたい」人が多いのが実状です。



 そこはホレ、前にもお話したとおり「市場」(マーケティング)のオハナシなのです。



 なので、「あなたはずっと派遣社員で、最後は老後破産で死にますが、来世ではきっとよいことがありますよ」という宗教を提示しても、「派遣をなめとんのか」と思われるだけで、けして受け入れられることはありません。


 
・・・すみません。つい毒舌になるのはわたくし武庫川の悪い癖ですね。



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 というわけで、一応先進国のはしくれとしてまだ生き残っている日本人が心から救われるためには、まず「現世利益についてきちんと提案できる」宗教が大事である、ということになります。

 そして、それが「ガンが治ります。お金持ちになれますよ」的な胡散臭いもの、悪徳臭のただようものではなく、



 現代人が、そして日本人が生きる上で、きちんと納得のいく、心から腑に落ちる生き方のあり方


を提示できるものでなければならないものだ、ということになるのです。



 そして、もっと言えば、それが個人的に「Aさんは信仰があって幸せだったね。ちゃんちゃん」で終わるものでなく、


「きちんと未来にも、将来にも通じるもので、かつ個人だけでなく社会体制にもきちんとコミットするもの」


が、より真実で正しい宗教であろう、と考えられることになるわけです。



 それを「宗教」というのがおこがましければ、「哲学」でも「思想」でも「主義」でも、好きなように捉えていただければよいのですが、そういうものが、果たしてこの日本に存在するのか?


 とみなさんも思われることでしょう。



 あります!STAP細胞じゃないですが、あるのです。(←いやいや、それは無いやんけ、というツッコミはなしで)




 この考えをどのように提示すればいいのか、私もいろんなことを試している最中で、ひとつの試みとしては、


「学問・主義主張」の分野で、これからの日本人の軸足になる思想を定義する活動


を別の形で行っています。



 もし、それを一般の方にわかりやすいように「宗教」に似た形で行おうとすることも、できると考えています。



 その宗旨宗論をざっとまとめるなら以下のようなものとなるでしょう。


(例のごとく勝手に決め、勝手にはじめるのであるwww)



 これまで、”エンターテイメント解脱”と称して笑いを取りに走っていた、この解脱を総じて


「存在宗」


と立宗することにいたしました。



 まるで仏教の宗派のようですが、わざとそうしています。元々解脱の概念は、西欧宗教よりも仏教的であるので、東洋思想を基にしたという点において、仏教には一定の敬意を払って


「存在宗」


といたします。(けして、宗旨は仏教ではありませんが、教養としての仏教は尊重します)



 理念は、この世界について、ありのままを見ることができるようになり、ありのままの存在を理解することができるようになる、という意味において



「澄眼解脱」



を目的とする宗教としましょう。


 澄眼(せいがん)とは、晴眼であり、正眼でもあります。ありのままを曇りなき眼で見る、理解する
受け止めるということです。


 しかし、晴眼ということばは、目の不自由な方に対しての健常者という意味で使われるので、この字は避けます。

 また正眼は、存在宗では「何が正しいかを絶対的に定義することはできない」という無常観に立脚するため、「正」の字を避けて、”澄眼”を説くこととします。




 どんな人であっても、澄眼解脱に到達することは可能です。そこに至るには、苦しい修行などは全く必要ありませんし、そのようなものは間違っています。


 そのための方法、そのための考え方のヒントが、このブログの記事であったりするわけですが、誰もが丁寧な方法で学び、自分の頭で考えれば、かならず澄眼解脱に到達できるのです。



 その最大のヒントが、宗名である「存在」を曇りなき眼でしっかりと見ることです。


 この世界が実際にどうなっているのか。どんなものがこの世界に存在しているのか。


 あなたが存在しているということはどういうことか。なぜあなたが存在しているのか。


 あなたが死んだあとには、何が存在するのか。



 ・・・すべては、「ありのままに、存在している」ということが中心にあります。




 もし、あなたが人生に開眼したければ、



 武庫川散歩


 mukogawa_sanpo@yahoo.co.jp



まで、お話をお寄せください。


















<勝手に人生相談シリーズ> 「いつも他人を攻撃ばかりしている人がいるのはどうしてですか?」

 このブログの人気企画「勝手に人生相談シリーズ」がまたまた帰ってきました。

 「勝手に人生相談」というのは、その名の通り、


わたくし以外の誰かに寄せられた人生相談を、横から勝手に回答してしまおう!


という、相談者本人も、回答者も、そして言わば誰も知らないところで繰り広げられているヨタ話なのであります。


 え?そんな企画がどうして人気なのかって?ええ、わたくしが気に入っています。大人気です。




 しかし、手前みそではありますが、(後ろみそだと、パンツを早く交換したほうがいいので、気をつけて)


なんといっても、本来の回答者よりパンチの効いた、かっこいい回答をしなければならない


という部分を評価していただければ、よりこのシリーズを楽しめると思います。


 では、今回もいってみよう!


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 今回の本来の回答者は「為末大学」で人気のアスリート、為末大さんです。ですが、この武庫川散歩、超一流のアスリートが相手でも、けしてひるむことはありません!


 なぜか。


 為末氏にはまったく面識がないからです!向うも私を全く知りません!なので、毎回のことですが、当方、勝手に1人で(さみしく)何かをほざいているに過ぎないので、ひるむこたあないのです。



 今日の元ネタ

 【為末大の悩み相談室】 「誰の得にもならないのに人を攻撃する人が多すぎる」
 http://president.jp/articles/-/16318

 (プレジデントオンラインより)



 相談者さんの意見は

「いつも他人を攻撃している人がいるのでイライラする」

「モラハラやいじめが頻発する職場で、どうして人を攻撃する人が多いのか不思議だ」

というものです。



 みなさんの周りにもいますよね? 他人のことをああだこうだ言ったり、果てはテレビの中に向かって文句を言ったり、常に首相はアホだと言いまくっているような人。



 為末さんは、こういう人たちを


「承認欲求のかたまりで、かまってちゃんである」


と考えておられます。


 もっと言えば、無条件で要求を受け入れてくれる母親を求めるような「幼児性がある」とまで断じています。


 つまり、為末氏の回答は、


「そんなやちゅは、赤ちゃんなんだブー!」


ということです。


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 為末氏の回答が面白いのは、その後のつづきが、まるでアドラー心理学のように、



「っていうか、その他人を攻撃するやつよりも、あんたが問題なんじゃね?」


と相談者に反撃に出るところです(笑)



 どういうことか。


 そもそも

「あの人はこんなことばっかりしてる」「あっちはこんなことばかりやってる」「いーけないんだー、せーんせーに言ってやろー」

というタイプの人は、勧善懲悪タイプで、


「そういう風に思うことそのものを、いったんやめたほうが楽になれるよ」


ということをやんわりとお勧めする、ということなのです。




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 さて、ここからは孤高の哲学者にして、解脱者であり、ネットで全く誰からも相手にされなくても、勝手に何かを吼えまくっているという武庫川散歩が、簡潔にして明解な回答をお届けしましょう。







【問題その1】 なぜ他人を攻撃ばかりしている人が存在するのか。



 ・・・理由は簡単です。人は、誰かを攻撃した瞬間に「正義の執行者」になれるからです。その怒りんぼ氏にとって、「あいつが悪い、政治が悪い、おまえが悪い」と口に出したり態度に表明したりすれば、その瞬間に、


「つまり、俺は正しい。俺はすごい。俺はえらい。俺は正義だ!」


と思えるのです。


 これは、「かまってほしい」とか「おかんが好き」とか、そんなのは通りこして、麻薬のような正義なのです。

 何も実行しなくても、何も結果を出さなくても、何を生み出さなくてもその瞬間に「全面的に正しく、全面的に自己を肯定できる魔法のような言葉」それが



「ていうか、お前は間違ってるよ」


なのです。




 だから、彼らは他者を攻撃し続けます。矮小でキモくてアホでどうしようもない人間でも、他人を攻撃さえすれば正義の味方になれるのですから。


「いやあ、今の政治が悪いよね」

とか

「君のやり方は間違ってるよ」

とか、言ってりゃ幸せなのです。だって正義の執行者だから。





【問題その2】 そんな憎いあんちくしょうが気になるあなたはどうしたらいいのか。



・・・ていうか。実はあなたも似たようなものです。


「あの人は批判ばかりしている。あの人は、攻撃ばかりしている。だから間違っていて、あたしはそんなことしてないから正しいし、あたしはまちがってないし、あたしはすごい」


とあなたも本当は思っています。だから同類です。


 他者を攻撃する人間は、「自分は正しい」と思っています。それを見て「なんなのアレ」と思っている人間も、「自分は正しい」と思っています。


 そして、「あたしは他人を攻撃したりしないから、あたしの方がより正しい」と思っています。


 なんということでしょう!!!



 でも、実は、横目で見ながら、何にもしてないのは実はあなたの方だったりするのです。



 じゃあ、いったいどうすればいいのか。


 
  簡単です。あなたが本当に心から純粋に、美しい心で、攻撃や争いを望まないなら、できることはたったひとつです。



「もうやめて!争わないで!他人を攻撃するのもやめて!あたしそんな誰それさんの姿を見ると悲しいの!心が痛むの!だからもっと優しくなりましょう!みんなでフレンドリーなハッピーピーポーを目指しましょう!ね!わかって!」


と拳を振り上げて叫べばいいのです。


 どうだ。心の穢れているあんたにはできないだろう。


 ・・・つまり、人間というのは、己のちっぽけな正義にすがりながら、悶々として生きている小さな存在にすぎないのです。


 わたしなら言います。男性ですが、女性っぽくフル演技で言えますよ?辺見マリのカッコでやれと言われればやりますとも


「やめて♪ 愛してないなら」


・・・あれ?違うほうだったわ。


竹内まりあの


「けんかをやめて♪ 二人をとめて♪」


のつもりだったのよ。うふ。




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 冗談はともかく。解脱者は正義の執行は行いません。


 その正義そのものを儚く捉えるのが解脱者であり、その正義そのものを疑うのが哲学者だからです。


 わたしは他人を攻撃することはありませんし、むしろ褒めることのほうが多いです。


「今日はとっても可愛いよ」とか「素敵ですね」とか、「あれ、髪型変えた?」とか、「一緒に食事でもどう?」とか、「休んでいこうか」とか。


・・・・うそです。













2015年12月4日金曜日

【これからの宗教の話をしよう 3】 一見、宗教に見えない”空気感”と心のブーム

 前回は、これまでの歴史を振り返って、私たちの苦しみや悩みにどんな宗教が生まれることで
「手当てしてきたか」「対応してきたか」を考えてみました。


 しかし、それらは過去のことであって、現在の21世紀の国際社会や、あるいは先進国として熟成してしまった日本人の心の拠り所としてふさわしいかは、少し疑問符がつく状況になってしまっています。


 そこで、いよいよ、新時代の「心のよりどころ」「何を信じれば救われるのか」に焦点を近づけながら、お話を進めていこうと思います。



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【第3章】 新しいスタイルの「宗教」と「空気感」 ~エコとロハスとマイルドヤンキーと~


 宗教や宗教っぽいもの、というのは実は宗教そのものではなくとも、類似した存在はたくさんあって、私たちはふだんの生活の中でもそれらについて


「まるで宗教やな」

とか

「宗教みたいやな」


と感じることが多々あると思います。


 宗教、というものは明確な教祖・開祖や教義があったり、それがいのちの由来や精神的な部分に深く関わってくるのでわかりやすいのですが、もうすこし宗教観の薄い

「主義・主張」

のようなものも、時に宗教とおなじような動きや働きをすることがあるわけです。



 団塊の世代にとっては、「共産主義」という思想・主義・信条はかなり宗教的に心に響くものとなっていました。


 現実は別にして、人々が平等に暮らせる社会、というのはある種の現世利益の理想型であり、いのちとこころの奥底に触れないけれども、表面的にはかなり宗教的要素を持っています。


 それに魅了され、左翼に傾いていった人は数多く、若者は「安保闘争」に走り、もう少し大人になっていた人は「労働組合活動」などにのめりこんで行きました。


 国鉄が解体され、分割民営化された原因のひとつに、国鉄内部の労働組合が力を持ちすぎて、管理統制が行き届かなくなったから、というのがあります。


 これに似た事例としては、現在でも教員の間で日教組の組合員が一定数おり、国旗国歌問題などで国と反発しあっていることが問題視されていることを挙げてもいいでしょう。


 ともかく、戦後の日本社会では「神国日本」「天皇崇拝」が否定されたので、いわゆる右翼よりから、社会全体が「左翼寄り」に大きくブレていたことは間違いありません。


 それらは社会全体の「空気感」とも言うべき風潮、世相、雰囲気でありました。



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 ところが、中国が経済的に台頭してきたり、韓国が従軍慰安婦問題で敵対心を見せたりするうちに、日本全体がサヨク傾向から徐々に、右傾化するようになっているのが、現時点での社会の空気感です。


「中国と戦争になるのではないか」


とか


「在日韓国・朝鮮人は出て行け」


といった不安や主張が、表に出てくるようになったのは近年の特徴です。



 こうして右傾化した人たちの心のよりどころは、簡単に言えば「古い時代の保守思想」に戻るという「原点回帰」の考え方です。


 日本の国家の在り方、家族のあり方、社会のあり方を、サヨク寄りから本来の保守へ戻そう、という動きや雰囲気は、一定の広がりを見せています。



 そうした人たちの宗教観は、当然旧来の宗教をベースにしたものとなるので、ここに新しい潮流が見えてくるとはあまりいえません。



 むしろこれらの人たちのベクトルは、前にお話したような「原理主義」運動に近いものとなっています。

(原理主義の問題点は、すでにお話しましたね。なので、このブログでは、単に原理主義に戻ることを良しとしていません。)



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 さて。今お話したのは、どちらかといえば政治的スタンスの中における宗教に似た空気感の話でした。


 次に着目するのは、政治よりもふだんの生活に密着した「生活に近い」領域での空気感についてです。


 右肩上がりの高度成長が終わり、成長が止まったり、あるいは右肩下がりになるというデフレの時代を経て、日本人の生活はバブルの崩壊以降、どんどんと慎ましいものになりつつあります。


 まず、モノの値段が上がらない。給料も上がらない。資産も増えない。そして、世界中で資源を取り合っているのでこれまでのように日本だけが優位な社会が終わってしまう。


 そういう閉塞感やあきらめムードが蔓延していることも合わせて、生活レベルでは「モノに支配される時代は終わった」という空気感が生まれています。



 ブランドものが欲しいとか、かっこいいファッションを身につけたいとか、そうした単純欲望が無くなり、どちらかといえば、心の充足が求められたり、中身が重視されるようになったのはここ10年くらいの変化でしょうか?


 自動車で言えば、エコ(燃費)や、環境にやさしいことが大きなテーマになっており、住宅においても太陽光発電がブームになるなど、消費や浪費とは逆のベクトルでものごとが進むようになってきています。



 しかし、70万円でそこそこの燃費の軽自動車が売れていた80~90年代に対して、140万円で低燃費の軽自動車が売れている現在は、本質的な意味で


「ほんとうに経済的か?ほんとうにそれはエコなのか?それはほんとうに消費や浪費ではないのか?」


といった問いかけには、疑問符がつきます。


 まじめに損益分岐点をはじき出せば、おそらく「エコっぽいもの」は結局高いお金や資源を使っています。

 一般的に、プリウスのハイブリッド分の高くなっている値段は、燃費で安くなっている分を充当しても元が取れないと言われていますが、まさにそれと同じで、


「エコっぽい、は空気感であって、ほんとうにエコかどうかは別問題」


ということも、賢明な読者諸君は忘れてはいけません。



 それでもエコでロハス(健康や環境を意識すること)な暮らしは、人々のある種の理想形として、たしかに現代の先進国の、特に富裕層に蔓延しているのです。
 


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 今度は富裕層ではなく、庶民に眼を向けてみましょう。


 2014~2015年頃には、「マイルドヤンキー」ということばが、社会学系のメディアでブームになりました。


 この語は、本来の不良少年を意味する「ヤンキー」とは少しずれていて、言葉の作り方に違和感を感じる部分もありますが、現在ではある程度定義が定着しているので、ここでもこの語を用いたいと思います。


 マイルドヤンキーというのは、


”地方から都会に出ないで、こども時代からの仲間集団との繋がりを大切にして、比較的早く地元で結婚し、あまり裕福ではないけれど、お金をかけずに生活を楽しんでいる層”


を指します。


 象徴的なのは、彼らの終末は地方の大規模イオンモールに遊びに行き、適度に消費したり、適度に余暇を過ごしたりしていることで、高額な買い物もせず、しかし、仲間やコミュニティを大事にするので、家族や友だち同士で集合したりする、とされています。




 この層が取り上げられるということは、「都会に出て、いい企業に入って偉くなってマンションを買ってこどもをいい学校にお受験させる」という富裕層のこれまでのスタンスに対して、はっきりとその価値観を否定する庶民がいる、ということでもあります。



「お金をたくさん持つこと、ものをたくさん所有すること」を否定する空気感


がここにほんのり見え隠れしており、実は富裕層の間にもこの空気感はちょっとした魅力を持って受け止められているのです。



 たとえば、「断捨離」という言葉が流行しました。これは、富裕層や中間層にも流行しています。


 「いらないものを持たない」「シンプルな生き方をする」ということや、「不要なしがらみを排除してゆく」方向は、お金を持っている持っていないに関わらず、実は全体に広がっている空気感なのです。


 あるいは、葬儀における「直葬」なんかもそうです。



 
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 こうして見ると、先進国において「資本主義・モノ主義・消費主義」に染まった時代は終わった、と明確なトレンドを見つけることができる、ということがわかると思います。


 物質主義に嫌気がさしてイスラム教に改宗する若い欧米の若者がいるのと同じように、宗教とはちょっとジャンルが違うけれど、同じように物質主義は徐々に否定されるようになっているのが現代の傾向である、と言えるのです。



 しかし、そうやって物質文明やバリバリの資本主義に疑問符を投げかけても、残念ながらまだ心の領域が満たされているとは言えません。


 そこに本来の宗教が果たすべき役割がまだ残っているのですが、現時点ではその空虚さを満たす宗教は現れていないと言ってよいでしょう。



 長い歴史と経済発展の中で、さすがに日本人はいまさら「キリスト教の神やイスラム教の神」を信じるわけにはいきません。

 あるいは葬式ですら簡略化しようというのに、いまさら「仏教」に帰依するのもどうなの、という時代です。


 宗教的には、日本人はかなりドライです。初詣に行き、クリスマスを祝い、お盆に実家に帰り、そして近年ではハロウィンまで楽しむ始末なのですから、何か一つの宗教を心から信じるというのは、まったくもって日本人には不向きだと言わざるを得ません。



 しかし、一方では何万人もの人々がうつ病に苦しみ、貧困に喘いだり、この世界に生まれた理由を悩みながら生きていることも事実なのです。


 宗教も中途半端、空気感だけでは救いにはならない、このあやふやさが一層現代の日本を不安定なものにしているわけです。






 実は、わたくし武庫川散歩は、「日本人が心の平穏を得られるような、新時代の新しい宗教観」をきちんと持っているのですが、それを説明するのは、またのちほどにしたいと思います。



(つづく) 

2015年12月3日木曜日

【これからの宗教の話をしよう 2】 苦難の時代に宗教は生まれる ~私たちはいかに苦しみから逃れられるか~

 前回は、苦しい時代や混迷の時代につい走りがちになってしまう「原理主義」について警告することで、安易な極論に走ってしまわないように、というお話をしました。


 しかし、原理主義に向かうのをやめたところで、苦しみから解放されるわけではありません。


 やっぱり、「私たちは何を拠り所にして生きればいいのか」ということは全く解決していないわけです。


 そこで、今回は「苦しみの時代に、どのように救いの思想が生まれてきたか」を読み解くことで、そのヒントへ一歩でも近づきたいと思います。




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【第2章 苦難の時代に、宗教は生まれ続ける ~新宗教の作り方~ 】



 前回は世界の宗教の様相に触れましたので、今回はちょっと目線を変えて、日本の宗教史について考えてみたいと思います。


 日本史の知識であれば、高校でざっくり教わったと思うので、「日本がいかに激動の時代を乗り越えてきたか」ということと「日本でどんな宗教が生まれてきたか」ということはリンクしやすいと考えます。



 それでは、日本の古代史から振り返ってみることにしましょう。



 日本の歴史において、文書としての記録に残っているのは、ぶっちゃけ聖徳太子の時代くらいからだと思ってください。いわゆる奈良・飛鳥時代と呼ばれる時代です。


 もちろん、それより以前には「古墳時代」とか「弥生時代」「縄文時代」などがあるわけですが、さすがに縄文時代の宗教観については、わかっていることはあまり多くありません。



 古墳時代についても、同時代の文書記録はほとんどないので、わかっていることは少ないものの、埴輪が置いてあったり、石室に絵が描いてあったり、あるいは装飾品を一緒に埋葬していることなどから、


「古墳時代には、すくなくともあの世的な、死後の世界観のようなものはあった」


ということはわかると思います。


 さて、古事記や日本書紀に描かれている古代の大王や天皇がいるとして、それらの方々のお墓が「ほにゃらら古墳だよ」なんてことが一般的に言われています。ニュースにもそんな風に出てくるので、私たちはそんなもんかと思っているのですが、ここでちょっと考えてみてください。


「仁徳天皇陵は世界最大の広さを誇るお墓で、仁徳天皇の時代のお話は古事記や日本書紀に書いてありそうだ」


ということは、みなさんも同感なさることでしょう。そして、ついでに言えば、


「古事記や日本書紀は、いわゆる神道の話、アマテラスやイザナギやイザナミにはじまる神話のことが書いてある」


ということも同感なさることと思います。



 じゃあ、ここで問題です。いいですか?


 ほにゃらら天皇のお墓は古墳で、そのほにゃらら天皇の話が古事記や日本書紀に出ていて、古事記や日本書紀の話は神道の神話の話なのだから、


ほにゃらら天皇は神道を信じていたはずだ


という推論ができそうなものですが、これは正しいか間違っているか答えなさい。



 ・・・意外にむずかしいでしょ?


 実はこれ、あんまり関係なさそうなのです。



 つまり、古事記や日本書紀は後からはるか昔のことを書いていて、イザナギやイザナミからはじまる神話と天皇家を結び付けてはいるものの、それは(真実かどうかはともかくとして)後から創作した部分もあるので、当時の本当の天皇は神道を信じていたとはどうにも思えない。


ということなのです。わかりますか?



 証拠をひとつ挙げましょう。天皇のお墓である古墳の中に「朱雀・玄武・青龍・白虎」が描かれているものがあることはみなさん知っていますね。(高松塚古墳とかキトラ古墳とか)


 ここで気付きます。古事記や日本書紀、あるいは日本神話や神道に「四神」は出てきません。これらの霊獣は、


 中国の神話、二十八宿と四像


に登場するものですから、少なくともこの埋葬者は、


「神道ではなく、中国の神話」


を信仰していたことがわかる、というわけです。



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 それでは、なぜこんな話をするのでしょうか?古代の天皇が、日本神話ではなく、中国の神話を信じていたことが何を意味するのかを考えれば、そのヒントが見えてきます。


 そうです。日本の神話、神道は、「古墳の時代には存在せず、もっと後になって必要性にせまられて生み出されてきたのではないか」ということが重要なのです。



 その理由は簡単です。本来、中国大陸から文化文明がもたらされ、その影響下にあった古代日本ですが、いよいよ古事記や日本書紀が編纂される前後に、


「国家が統一され、日本という国のスタイルや基盤を確立しなくてはならない」


という大問題にぶちあたっていたわけです。そこで、すべてのベースになる基本路線を書きまとめてゆかなくてはならなかった。それが現在残る神話のスタイルだった、というわけです。



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 各地の大君たちが権力をめぐって争い、それがヤマト王権に集約され、いよいよ成長した国家へと発展を遂げる際に、朝廷が書いたのは「古代の神の物語」でした。


 ところが、面白いことに、その後の奈良飛鳥時代には、外国から入ってきたばかりのハイカラな宗教である


「仏教」


がいきなり地位を確立するのです。日本における仏教の扱いは「鎮護仏教」というものでした。


 仏教というのは、本来「個人が悟りが開いて、悩みから開放される」というものです。ところが、おかしなことに、何をどう間違えたか、日本に入ってきた最初の仏教は


「ホトケのパワーとエネルギーで、国家が安泰になり、外敵からも守られる」


という思想でした。


 そのため、日本の中心に東大寺を置き、全国に国分寺と国分尼寺を置いて


「日本中総バリアー状態で万全だもんね!!」


という状態にしたわけです。完全にレーダーとミサイル基地かなんかと誤解していますが、当時は本気だったのです。



(☆補足 ここまではざっとまとめましたが、本当のことを言えば神道と神話の世界は古代から祭祀を司っていた中臣氏(のちの藤原鎌足など)系列が推進したシステムで、仏教は新興勢力の蘇我氏(馬子とか入鹿とか)が輸入してきたシステムでした。中臣氏は、政治的には大化の改新で蘇我氏を滅ぼし、実権を取り戻しますが、仏教を放り出すことまではしなかったようです)



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 というわけで、日本の初期仏教は「ミサイルレーダーパワー」とほぼ同じですから、仏教僧には「念力パワー」が求められていました。何度も言いますが、個人の悟りとかどうでもよく、権力者のために


「外敵をやっつける力」「病気を治す力」「雨を降らせたり豊作にする力」「国を豊かにする力」


などが求められたのです。なので、平安時代にはすぐに「密教」系仏教という


オカルト(失礼!)パワー系仏教


が流行するようになったのでした。密教ではバラモン教やヒンズー教の呪術的要素が取り込まれたり、その名の通り「秘密仏教」として、「覚醒者はその身のままで仏となり、パワーを持つ」というイメージが強くなってゆきました。



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 と、ここまで見てきてわかるとおり、平安時代までの仏教は、ぶっちゃけ「国家と貴族のための仏教」に他なりませんでした。仏教者はもちろん、厳しい修行と戒律に励み、出家して秘密の技法を身につけ、その霊力で貴族や支配者をバックアップする、という側面がどうしても強かったので、この段階までは


 庶民のための宗教


ではなかったことになります。



 ところが、平安時代の末期、「平家物語」で有名な源平の合戦や、次の鎌倉時代が「源頼朝」という武士が幕府をはじめて作ったことからもわかる通り、


 日本は戦乱が身近にある状態


に変貌します。


 ここに、「死が隣あわせの苦難の時代」がはじまることになるわけです。



 武士というのは、簡単に言えば「食い扶持がなくなった貴族の末裔」です。源頼朝は「源氏」ですが、天皇の子と孫のうち、家臣の身分に下げられた時に「源」の苗字を貰います。「平」のほうは、天皇から見て3世のひ孫に与えられた苗字です。

 なぜ天皇の子孫を家臣にしなければならなかったか、といえば、「ようするにお金が足りない」からです。

 天皇の子孫を全員抱えきれるほど、朝廷にお金が無尽蔵にあるわけではないので、そうそうに皇位継承権を失わせて、食い扶持を自分で稼がせる必要があるわけで、そうしたところから、貴族ではない地位、武士が生まれてきました。

 こうして、それまで貴族が国司・郡司などの公務員的役職についていたけれども、実際の地方の監督は地元の豪族に委任していたのが、地方の役職に直接武士が赴任するようになり、本来の地元の権力者とのいざこざも含めて争いごとが多くなることにも、武士という身分が密接に関わるようになってゆきました。


 争いと実力行使の戦乱があり、それに武士も庶民も巻き込まれる時代。この新時代に、新しい宗教が求められ、生まれてくることになります。


  そもそも仏教は、「戒律を守り、殺生をせず、俗世を捨てる」ことで救いを得ることが本質です。しかし、武士が殺生をしないわけにはいかず、貴族と違って庶民には戒律を守って暮らすような余裕はありません。

 ましてや町や村が荒らされ、戦争に借り出される中で、どのように救われるというのでしょう。


 そこに登場するのが「鎌倉新仏教」というジャンルです。この時代、いくつも新しい信仰スタイルの仏教(宗派)が創出されました。

 鎌倉新仏教を大きく分けると、3つの流れがあります。


 ひとつは「浄土系宗派」。浄土宗や浄土真宗のように仏に完全にすがることで救いを得るというものです。浄土系は「南無阿弥陀仏」(念仏)を唱えれば、教義も修行も関係なく、どんな立場でも救われるという庶民への救いを提示しました。


 二つ目は「法華系宗派」。日蓮宗に代表されるように、おなじく「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることで救われる、というものです。

 三つ目は、「禅宗系宗派」。曹洞宗や臨在宗に代表されるように、「座禅」を中心に精神面から仏教をとらえるものです。


 浄土系と法華系の本質は似ています。これらは、救済を完全に仏に頼りきるものです。禅宗はそれに対するアンチテーゼとして発展し、こちらは「自らの修行で仏性を得る」というところが前者と間逆の路線になっていました。


 そういう意味では、禅宗は旧来の出家主義・修行主義の仏教の流れを汲んでいますが、数々の経典をマスターして、複雑な理論をすべて身につけながら修業に励んだこれまでの国家仏教に対して、「座禅によって、仏教の本質部分に直接体感してゆく」スタイルを重視したところが斬新だといえるでしょう。


 いずれにせよ、仏教の救いの中心部分にダイレクトに切り込んでいこうとするところは、肥大化して複雑化、権威と絡んで組織化してしまった旧来の仏教とは一線を画すものとなったのです。


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 興味深いことに、日本の仏教の発展は、ここで止まります。実は鎌倉時代にここまで広がった仏教の諸流派は、その後の室町時代、戦国時代にさらなる発展を遂げることはありませんでした。


 その代わりに、特に戦国時代には「キリシタン」という外国から入ってきたキリスト教が一大ブームとなります。しかし、これは秀吉の弾圧によって、次の江戸時代には完全に消滅してしまいました。


 戦国時代に、もっとも隆盛を極めたのは浄土真宗(一向宗)です。信長に本願寺が敵対したことからもわかるように、この時代は宗教と武装が一体となり、真宗系集団はほぼ戦国大名・戦国武将とおなじ行動をとっていました。


 しかし、これも、石山本願寺が本山を明け渡して権力者に恭順した時点で、武装宗教団体としては弱体化してゆきます。石山本願寺は、誰も攻略できない難攻不落の城で、秀吉はその砦をそのまま大阪城に作り変えます。

 かの家康ですら、大阪城は「堀を埋めていいか」という講和条件なしでは落すことができない要塞でした。このあたりに、当時の本願寺勢力がいかに強大だったかを想像することができるでしょう。


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 江戸時代は、キリシタン追放のために幕府が各寺院に民衆の戸籍を管理させたことから、宗教は政治の手先として組み込まれることになりました。

 そのため、260年も安定が続いた江戸時代には新しい宗教は生まれていません。


 ところが、幕末から明治になり、幕府軍と官軍が争う内戦状態と、新しい政府によって大改革がなされるという混乱期に、新宗教が山ほど生まれはじめたのです。



  特徴的なブームを取り上げてみましょう。


 天理教や黒住経、大本教、金光教、円応教、といった比較的新しい宗教の名前をみなさんも知っているかもしれません。


 これらは幕末から明治期にかけて生まれた新宗教で、大きなポイントとしてこれまでの仏教ではなく「神道」を基盤にして生まれてきた宗教だということです。


  これらの宗教の考え方は、「古事記や日本書紀に出てこないホニャララノミコトという神が、巫女である教祖に現れて、新しいお告げをくださった」という形になっています。

 なので、ベースは神道にあるのだけれど、教義はオリジナルということになるわけです。


 なぜ、明治になって神道系にこんなにスポットが当たったのか、ということにはちゃんと理由があります。


 実は平安時代から江戸時代まで、仏教が流行しすぎて下火になっていた神道は、ずっと長い間「神仏習合」という形で合体して生き残っていました。


 これは面白い発想で、神や仏を宗教で切り分けるのではなく、たとえばオオクニヌシという神道の神様は、神道からみればそういう名前の神だけれど、仏教から見ると「大黒様」という仏教的な存在なんだよ、と解釈したのです。


 おなじように、八幡神社の八幡神は、仏教サイドからみれば「八幡大菩薩」と呼ばれ、神社と寺は合体して信仰することで、旧来の神道と仏教が矛盾しないようにうまくまとめられていたのです。


 ちなみに、神社に併設して作られていた寺を「神宮寺」といいます。各地にこの地名が残っているのは、みなさんもご承知の通りです。


 ところが、明治になって、「天皇は神の子孫で、わが国は神国である」というイデオロギーが蔓延してくると、 「やっぱり、仏教と神道を合体させておいたのはよくない」と本質論に戻ろうという動きが活発化するようになりました。


 これを廃仏毀釈と呼び、極端な例や地域では、寺や仏像をぶっ壊して神道に戻ろう!運動が広まったのでした。



 なので、明治新宗教に神道ベースのものがたくさん出現することになるわけです。時代的に、やっぱり神道だよね!という雰囲気が、ブームになっていたのでこうした新宗教はたくさんの信仰を集めることにも成功したのです。



  そして、戦後になり、GHQが皇室崇拝を完全にやめさせたことから、神道中心の宗教観もパタリと終焉を迎えることになりました。

 仏教はすでに江戸時代には疲弊し、神道的思考もタブーになり、救いを求める人たちがつい走ってしまったのは


 共産主義


という理想論でした。 人々は、完全に平等に生きられるはずだ、という思想は、宗教ではありませんでしたが若者の心を掴み、安保闘争へと発展してゆきます。

 しかし、それも短い間で、共産主義がどうなったかは、みなさん自身がよくご存知のはずですね。




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 さて、かなり駆け足で日本の宗教史を追いかけてきましたが、



 救いを求める庶民の心と、それに応じてどんな宗教が生まれてきたか



がよく理解できたことでしょう。今現在生き残っている日本の宗教は、概ねこれらの動きの流れを根底に置きながら、現在まで続いてきたものです。


 これらは基本、「旧来の宗教の弱い部分や、疲弊した部分を新しい宗教が生まれて補ったり否定したりすることで、新時代をサポートする」ということを繰り返してきています。



 なので、賢明な読者のみなさんは、ここまで読んでくると


「ああ、そうか。どれか一つの宗教が正しかったり絶対的真実だったりするというよりも、宗教自身も時代の流れに流されながら生まれてきているんだな」


と気づくはずです。そうです!何かひとつの教義を、盲目的に「これだ!これしかない!」と思い込む前に、その宗教が、どんな背景のもとに救いを定義してきたかを理解すると、全く別の視点でみることができるというわけなのです。


 たとえば、戦乱の時代の宗教は、現世では絶対に幸せになれないので「来世」「天国」の救いを説きます。

 浄土系仏教や、キリシタンは、その典型です。


 命の危険が少ない時代には、「どのように生きるのが幸せか」という生き方実践系の教義がヒットします。


 つまり、時代と宗教とブームは密接に関係しているのです。


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 さて、現在の日本や世界をもう一度見てみましょう。


 資本主義経済の行き詰まりと、物質主義の世界はいよいよ限界を見せ始めており、貧富の差が広がって、先進国の人々はすでに


「この世界には、あまり救いがない」


ということに気づきはじめています。


 しかし、日本を含めた先進国は、取り急ぎ戦乱や難民になっているわけではなく、命の危険には直面していません。


 なので、「来世」に期待する宗教よりも、「私たちの心の本質に迫りたい」という現世の平安、現世の精神的安定を求める宗教が求められているはずです。


  これは、マーケティングそのものです。これから当たる、ヒットする、ブームになる心のよりどころは何か?といえば、上記のポイントそのものになるのです。


 だから、キリスト教から、旧来の伝統的戒律や規範が厳しく守られているイスラム教に魅力を感じる人々が増えたりするのです。


 ・・・とまあ、このあたりから武庫川散歩らしいドライで理論的な話になってゆくので、心の平安を求めるみなさんには、裏事情暴露しまくりで興ざめな部分に入ってゆくのですが、それではあまりに夢がないのでこれくらいで勘弁してやることにしましょう(笑)



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 次回は、もう少しみなさんに救いのある形で、現代に求められている新しい救いの形、についてお話することにしましょう。


 メンヘラでビンボーで、貧富の差にあえいでいて、ともすればネトウヨになってしまいそうな自分が怖いあなた、楽しみに待っててね!


(つづく)




















2015年12月2日水曜日

【これからの宗教の話をしよう 1】 混迷の時代に私たちは何を信じて生きてゆけばいいのか。

 入院中にいろいろと考える時間があったこともあって、今回からしばらくは



 21世紀を生きる私たちのための新しい宗教観


についてお話をしようと思います。



 題して「これからの宗教の話をしよう」としましたが、そうですね。思いっきりパクッてます!


 いえいえ、先行の「これからの正義の話をしよう」をリスペクトしての本歌取りでございます。



 タイトルはともかく、まじめに「これからの宗教」について考える所存です。稀代の解脱者、武庫川散歩がどんな話を繰り出してくるのか、ご期待くださいませ。



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【第1章】 宗教を忌避する感覚。 ~オウム、そしてイスラム国とテロを経験して~


 欧米人のように、キリスト教が生活や信条のベースになっている人たちと違い、日本人がいわゆる「無宗教感覚」になって久しいものですから、私たちは基本的に「宗教」に対して忌避する感覚や「なんとなく怪しかったり、うさんくさいもの」という感覚で広く受け止められているのが一般的ではないかと思います。


 特に、イスラム国に象徴されるような、宗教を母体としたテロリズムや、あるいは戦争のニュースを見るにつけ、「恐ろしいもの、狂信的なもの」というイメージも日に日に強まっていると言って過言ではありません。


 戦後の日本社会は、それまでの「天皇=神」そして「神国日本」といった明治以来の宗教的政治機構が敗戦で「全否定」されたものですから、それと同時に宗教的な感覚を一気に排除して、どちらかといえば宗教観念よりも科学技術に対する畏敬を優先させてきたような節があります。


 おまけに、社会的な事件として高度成長期には「悪徳商法」などの宗教をベースにした詐欺や、オウム真理教などのテロに遭遇したので、今回のようなテロリズムに直面する以前から、
「ああ、宗教は怖いものだ」という感覚が一般化していたのは、間違いないように思います。




 ところがその一方で、日常生活の中に「うつ病」や「心の病」「メンヘラ」といった私たちの精神的な弱さは増大し、老後の不安や、貧困による困窮など、社会や生活における問題点が噴出する状況になっています。


 旧来であれば、こうした社会不安や個人の弱さを救ったり、あるいは心の支えになっていたのが宗教でしたが、残念ながら暮らしに問題が山積しているのに、誰にも何ものにも頼ることができず、何かを信じることもできない、という八方塞の現実が、私たちを一層苦しめているのではないでしょうか?


 簡単に言えば、次のようなことがポイントになります。



「私たちは、何を拠り所として生きてゆけばいいのか」


「私たちは何を信じて生きればいいのか」


「私たちは何に救いを見出すことができるのか」


・・・こうした問いが、現代の日本と宗教を取り巻く根源的な課題であると言えるでしょう。




 しかしながら、実はこうした問題は日本人だけのものではなく、やっぱり欧米人にとっても無関係ではいられない、似たような状況が存在していることも、少しだけ注目しておきましょう。


 日本だけでなく、欧米においても旧来の資本主義経済は行き詰まりを見せ、環境破壊や資源の枯渇、先進国の進化の速度低下や、途上国の追い上げなどの中で、産業革命以降走り続けてきた「現代人」は国際的に、世界的に疲弊していると言ってよいでしょう。


 世界中で、若者の失業率が高くなったり、一部の人間に冨が集約して貧富の差が激しくなったり、移民や旧植民地主義における人種の矛盾が噴出したり、とイケイケどんどんだった資本主義経済は、いよいよ世界中できしみはじめているわけです。


 こうなると、やはり世界の人にとっても、「よりどころがなく、何を信じるべきかわからない」状況は変わらず同じである、ということがわかってくるのです。



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 高度に発展した文明の中で、科学技術と進歩をベースにして進み続けてきた結果、そこに問題が現れはじめると、人類はかならずおなじことを思いつきます。


 それは、「私たちは進みすぎて方向を見失っているけれど、原点に帰って考え直したほうがいいのではないか?」という自問です。



 原発で問題が起こると、「原発がない時代へ戻ったほうがいいのではないか?」と考えます。核兵器が蔓延すると「みんなが核兵器を減らしたほうがいいのではないか?」と考えます。

 資源問題が起きれば「資源を取り過ぎないように、自然エネルギーに戻ったほうがよいのではないか?」と考えるし、都会生活に疲れると「田舎暮らしが正しいのではないか?」と思います。


 人間というのは、折に触れことあるごとに、「原点に帰るべきではないか?」ということを真っ先に思いつく生き物なのです。


 この「原点に戻って考えよう」というスタンスは、原理主義という思想と直結します。 たとえば、江戸時代に幕府の政治が行き詰まったときに、天皇を中心とした朝廷に戻ったほうがいいのではないか?と考えたので明治維新が起きました。

 これは、政治における「天皇原理主義」と言ってもよいでしょう。


 宗教の世界では、イスラム国などの運動のベースには「ムハンマドの時代に戻ろう」というイスラム原理主義の考え方があると言われています。



 カトリックという形式主義に陥ったキリスト教においては、マルティン・ルターが「聖書に書いてあるとおりに戻ろうじゃないか!」と主張して聖書原理主義的な発想からプロテスタントが生まれました。



 ただし、ここで21世紀の賢明なるみなさんには、盲目的に原理主義に陥らないように気をつけてほしいと思います。


 もちろん、先進的な方法だと思っていた考えが限界に達したときに、「元来た道を戻ろう」と考えることは間違ってはいません。


 しかし、「その原点に帰ることが、かならず正しい」という保証はどこにもないのです。原理原則から外れてしまっているので元に戻ろう、という発想そのものは良いかもしれませんが、本当に原理原則が正解なのかどうかは、実は誰にもわからないからです。



 こんな例をご紹介しましょう。


 当時、免罪符といって「これを買えば魂の罪がなくなりますよ」というお札を販売していたカトリックのキリスト教教会があり、それに対して、「そんなものを販売して神がお許しになるものか、教会は聖書に書いてある原点に戻るべきだ」と主張したのが、マルティン・ルターですが、現在アメリカのキリスト教思想の大半を占める「プロテスタント系キリスト教」はこのルターの宗教改革が元になって生まれたものです。


 簡単に説明すると、カトリックでは「修道院に入って出家しなければ神に救われない、天国へいけない」という考え方をしています。

 それに対してプロテスタントでは「そんなことはない、神を純粋に信仰して生活に誠実に励んでいれば、出家しなくても救われるはずだ」という考え方をしています。


 なるほど、ルターの言ったことは、形式主義に陥って破綻しかけていた旧来の教会を改革するものであり、原点に戻ることは一見すればすばらしいことのように思えるでしょう。


 しかし、ルター氏はドイツの人でしたが、彼がドイツの農民の大虐殺に加担したことは、プロテスタントの信者たちもあまり知りません。


 ルターが何をやらかしたのかを少し覗いてみましょう。


 「聖書に帰れ、聖書に書いてあることに戻ろう」という運動が激しくなり、宗教的にはルターの意見に賛同する者が多数現れました。すると、こんなことが起きたのです。


 当時、ドイツの地主や領主にこきつかわれていた一般農民(農奴のようなイメージを思い浮かべてみてください)たちは、ルターに共感してこんなことを言い出したのです。


「そうだ!そもそも聖書には、我々のような農民が領主に奴隷のようにこき使われて、搾取されることが良いことだなんてひとつも書いていないじゃないか!だったら、領主と農民の関係も解消されるべきじゃないか!


 簡単に言えば、農民たちが反逆しはじめたわけです。これをドイツ農民戦争といいます。


 ウィキペディアより ドイツ農民戦争
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E8%BE%B2%E6%B0%91%E6%88%A6%E4%BA%89


 こうして、農民の反乱がドイツ中に広がりましたが、ルターは面白いことに農民の側につかなかったのです。それは、彼が本来教会に属した特権階級側の人間だったことに由来するわけですが、結果としてルターは領主たちの側につきました。


 そして、こんなことを抜かしてけつかったのです。


「農民たちが反乱を犯すということは、(権威に逆らうという)ある意味罪である。このまま彼らが蜂起しつづけると彼らは罪を犯して天国へいけなくなってしまう。それは大変にまずいので、できるなら罪を犯す前に魂が純粋な状態で死んでもらいたい。純粋な状態で死ねば、神の前で罪を犯していないので、再び天国で復活させられるだろう」


と。


 そして、ルターは領主側と組んで



農民皆殺し その数13万人


を、開始したわけです。




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 ルターの農民皆殺し作戦については、プロテスタント信者でもきちんとした研究者以外はあまり言及しません。


 
 しかし、私たちはつい近年、彼とまったく同じ思想で大量殺人を行った人物をよく知っていますね。


 そうです。悪行を重ねるものが、これ以上悪行を行わないように救済するぞ、救済するぞ、救済するぞ、でおなじみ


 ポア



は、ルターと全く同じ理論である、というわけです。




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 これらのことは何を意味しているのでしょう。それは原理主義の持つ本質的な誤りや危険性について、私たちは眼を背けてはいけない、という警告です。


 原理主義的な考え方は、「原点に戻ろう」だけではなく



「原点は正しい(はずだ)」



と決め付けるところから始まります。ここに大きなミスリードがあります。何度も言いますが、現在が間違った方向へ進んでいるからと言って、原点が正しいかといえば、その証拠はありません。


 しかし、原理主義者は、「原点は正しいのだ」という仮説の定義を最大限重んじます。


 ということは彼らは「何が正しいかを、決めたがるくせを本質的に有している」ということでもあるわけです。


 原理主義者の思想のベクトルは、「現状は間違っている、原点は正しい」という方向性です。そして、「自分たちは正しい方向をチョイスしている」ということでもあります。


 そこで安易に、容易に「よって自分たちは正しい」という三段論法に到達してしまうのです。



 聖書の中には、異教徒を滅ぼせという神の命令が出てきます。偶像崇拝するものは殺せと聖書の神は言います。


 だとすれば、ユダヤ教原理主義、キリスト教原理主義、イスラム原理主義のいずれもが「神の名の下で殺戮を行う素地がある」ということに他なりません。


 よって、私たちは安易に「原理主義」に染まるべきではありません。


 古代のものがなんでも正しい、というわけではないのです。それは世界の文化文明を否定することですので、原人のように野山で石を持ってうろうろしたい人はそうすればいいですが、少なくとも、


歴史のある一部の経典や考え方を取り出してそれに全面的に意思決定を置く、というのは誤りである!



と解脱者ムコガワは主張するのです。




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 いかがでしょうか?混迷する現代で悩める若人が、つい原理主義に走りそうになったり、それに魅力を覚えてしまうのを押しとどめる明解な理論、さすがは解脱者武庫川散歩さんですね。


 ファンレター、特に可愛い女子からのメール、待ってます。


 ・・・冗談は置いといて、次回につづきます。






 









2015年12月1日火曜日

解脱者、入院する!の巻

 まるで、「まる子、動物園へ行く!」(by ちびまる子ちゃん)的なタイトルでお届けする今回のネタだが、本当に入院していたのである。


 というわけで数週間更新が滞っていたのだが、こうして無事復活を遂げた武庫川散歩、アラフォーであった。



 これまた奇遇なことに、入院していたのは武庫川沿いのあの病院である。こんなことを書くと、関西の地理に詳しい人なら、



「ああ、あそこか」



とすぐにピンと来るので、あまり素性を明らかにしたくない武庫川散歩としては、これくらいでオブラートに包んだまろやかな物言いを心がけるようにしよう。


 幸い、約10日ぐらいの入院で無事退院できたので、病院の方々をはじめ、関係各位には心から感謝の気持ちを述べたい。

 『ほんとうにありがとうございます。そして、ご心配をおかけいたしました。』


 でも、もう大丈夫。



「落ち込んだりもしたけれど、わたしは元気です」(by 魔女の宅急便)



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 さて。ところでそういえば、解脱者なのに病気に倒れることがあるのか?なんて野暮な質問をする人がいそうなので最初に断っておくのだが、


「わたくし、武庫川散歩は解脱者だと言ってるが、超能力者だとか、不死身だとか言ったことは一度もない」


と宣言しておきたい。

 解脱者だって、病気にはなるのだっ。そもそも、ブッダもキリストも、ムハンマドもみんな死んでるじゃないか。肉体が滅びるのは当然のことである。



 なので、もしあなたの周りに


「この宗教を信じれば病が治りますよ」とか


「この方のいうとおりにしたら、不老不死になりますよ」とか


「この壷を買ったら、ガンが消えますよ」とか


そういう妄言を吐く輩がいたら、絶対にそれは悪徳商法なので信じてはいけない。



 本当の解脱者は、病気になったり死んだりするのだ。


「にんげんだもの byあいだみつを」



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 さて、そんなこんなで病に倒れていた武庫川散歩だが、幸せなことに病気で悲観したり、苦しんだり、悩んだりしたことは一切なかったのでこれもひとえに悟りのおかげと感謝している。


 ただ、心静かに寝ていただけである。体中は痛かったり、しびれたりしていたのだが、心は平安であった。たぶん。



 入院の後半は、読みたかったマイケルサンデルの「これからの正義の話をしよう」を読んで思索に耽ったり、とにかくノート一杯にわが武庫川流の哲学を書きなぐったりして、精力的に活動していた。


 個人的には、難解と言われる「カント」の哲学がどういうものであったかを、ざっくりと理解することができたので、とても有意義な時間であったが、カントの話もまた別に書くことにしよう。


 というわけで、入院中に考えたネタは、今後ぼちぼちブログにまとめてゆくので請うご期待。