宗教というのは不思議なもので、まず第一に
「それが本当・真実かわからない」
のに、
「それに対しての信仰や従順を要求する」
ということが根本にあります。
たとえばAという宗教があるとしましょう。その宗教は「信仰したり、神に従順になれば永遠の命がパラダイスで与えられます」と言っているわけです。
このとき、信者になろうとする一般の人にとって、「それが真実かどうかはわからない」ということになります。
真実かどうかはわからないんだけれども、「信仰したら、それなりの報酬が得られて、もし逆にその神に逆らったら、地獄行きなどの罰を受ける」というのがAという宗教の教義だったりするわけです。
今度は、Bという宗教があるとしましょう。その宗教は「信仰したり、帰依すれば、無限の苦しみから自由になれます」と言ってます。
そして逆に、「信仰しないものは、無限の苦しみが続く」というのがBの宗教の教義です。
もちろん、これまた「それが真実かどうかはわからない」のですが。
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とまあ、すべての宗教は、上で説明したような
「報酬と罰」
を基本としたモデルによって形成されていて、それぞれが「我々の信仰こそが、正しくて、真実であーる」と主張していることになります。
ということはですよ。
どれか一つの宗教が真実で、それ以外はハズレであり、そのどれかをうまく引き当てないと、利益は得られず、真実でない宗教を選んでしまうと罰を受ける、というのが現在生じている宗教をめぐる様相だとすれば、
「まるで宗教選びって、ギャンブルみたいやな」
と誰もが思うはずです(^^;
そしてまた、面白いことに、それぞれの主張は、「神様や宗教の本体がそう言っているわけではなくて、あくまでもその神や始祖を崇拝するファンたちがそう言っている」わけですから、
馬主が「うちの馬に賭けなよ!」と誘っているわけではなく、あくまでも「競馬予想屋がそれぞれ好きな馬をお勧めしている」のと同じなわけです。
これでは、もし唯一正しい神を選び当てた時はいいですが、そうでない場合は、目も当てられません。競馬予想屋さんと同じで、
「外れても責任を取ってくれるわけではない」
からです(笑)
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ということは、神を信仰する人というのは、「自分が何か特異な体験をして神と直接対話した」と感じている人(つまり、ほぼ教祖)を除いた大半の人は、
「ただ単に、人の口車に乗っているだけ」
ということになります。だって、自ら主体的に神と関わりあっているのではないから。
教祖さまは、まあいいでしょう。何か神秘体験のようなものを得て、「自分が信仰すべき神はこの方だ!」と思えるだけの証拠のようなものや、理由のようなものを体験してそうなっているわけですから、まだ
「賭けに本人なりの勝算がある」
ということになります。
しかし、それ以外のメンバーに勧誘をうけただけの人などは、ほとんど「その神を選ぶべき主体的な選択権」を発揮しないままその信仰に引きずられているわけですから、
「神が真実かどうか、当たろうが外れようが、本人はもともと自ら神を選んでいない」
ということになるわけです。
ということは、そんな奴は、神様の目から見たら、
「自力でワシを選んでいないような奴は、地獄行きじゃ」
ということになりませんか?(笑)
なので、何がしかの宗教に熱心なそこのあなた。
確率論で言えば
1) 大当たり!その神様は本物である!
2) ハズレ!その宗教はニセモノでした!
の2パターンなのではなく、
1A) 大当たり!その神様は本物であって、よくお前は自ら考えてワシを選んだ!
1B) 大当たり!でも、人の口車に乗るだけでじっくりワシと向き合わず、そんな奴はいらん!
2) ハズレ! 本物の神じゃなかったよーん。
の3パターンだと言うわけです。
ということは、この世界には1000〜10000ほどの宗教があると言われていますが、まあ大半の信仰者は地獄行きだということになりますね(^^;
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