毎々、哲学塾の「中島義道」さんの文章がおもしろいので、チェックしている武庫川散歩ですが、今月も新ネタがアップされていたので、ご紹介します(^^
東洋経済オンラインより
哲学に「人生の救い」を求めるのは、筋違いだ
・・・相変わらず面白いですね〜。今回もツカミは「哲学塾」にやってきては去ってゆく人たちの話なのですが、基本的には
「多くの人々は、哲学というものを自分が思っていたものと違うので、去ってゆく」
のだそうで。まあ、そうだろうなあ、と思います。
中島先生いわく、「個人的な悩みを解決するには、哲学は何の役にも立たない」し「悩みを解決したり軽減したりはできない」のです。
だからこそ、そうした悩みを持つ人に対しては、カウンセラーや宗教や、あるいは精神科の医者がいるのであって、哲学はそもそもそこが対象ではないのです。
仏教やら、ふだん武庫川が言っている「解脱・悟り」もそれに似ていて、「解脱や悟りを得ること」は、
あなたが今抱いている諸問題の解決とは、何の関係もない
ことは明らかです。つまり、悟りはあなたの問題に対して直接の回答にはならないし、あなたを救ってはくれません。
じゃあ、何のために悟ったり、悟りがあったり解脱が存在するのかというと、これまた簡単に言えば
「あなたの問題や人生の救いというものが、実はどっちゃでもいいということに気付く」
ために悟ったり、解脱したりするわけです。これはこれで、あなたが今抱いている問題そのものが、実はどうでもいいことだ、とするわけですから、結果としてあなたは自由にはなれますが(笑)
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ちょっとだけへんてこな例を挙げて説明すると、今「不倫はいけない」ということが超話題になっていますが、「不倫をする」ということと、「側室がいる」ということは実は行為行動としては同じようなものです。
しかし、一方はいけないことで、もう一方は「時代背景や社会情勢により、べつにOK」なわけで。
ということは、そこに「問題」や「過ち」が存在するかどうかというのは、それこそ「時代によって問題視されたり、されなかったりする」ということが真実なのです。
人生の悩みも同じで、それを「悩みと捉える」から悩みなのであって「問題と捉える」から問題なのです。
もとから「そういう時代背景や事情ならOKなんじゃない?」ということだと、それは問題や悩みですらないわけで。
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まあ、中島先生の場合は、そうした問題や悩みを解決するために生きているわけではなく、むしろ「どうしてそのような悩みや問題がこの世に存在するのか、その真実を知りたい」くらいのことなわけで(笑)
これについては武庫川も激しく同意します。
さて、中島先生が人生の救いそのものを放棄なさったので、武庫川がその分頑張らなくてはいけません(^^
というわけで、梵天に「衆生を救うよう」励まされたシッダールタのごとく、武庫川散歩は今日も元気に人々の悩みを解決しております。
まあ、何かあればメールください。
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