バズフィードにこんな記事が載っていたので、いろいろと思うところあって筆を取りました。
【会社に行きたくないあなたへ】死ぬまで頑張らなくていい。産業医が語る「あの政策」の裏側
https://www.buzzfeed.com/akikokobayashi/ganbarisuginaide?utm_term=.oc7PNzvEQm#.wjNQOe3Bbn申し訳ないですが、タイトルが悪いです。中身を読んでいただければわかりますが、この記事は
「ハイスペック女子は、なぜ死ぬしかないのか」
とタイトルを変えたほうがいいくらいの内容だと思います。
ハイスペック女子。
高学歴、高容姿、高収入、でも、彼女たちを待っているのは、死へのいざない。
おっそろしい話ですよ。もちろん、ハイスペックではない女性もこの世界にはたくさんいるので、その人たちからみたら
「あなたたちは持っているだけ、恵まれてるじゃん」
という呪詛を吐く以外ないのですが、今回はそれは一旦脇へ置いておいてください。
そもそも高学歴で高スペックであることが、何らかの矛盾を抱えているのです。今日は、まずはそれを暴くことで、
ハイスペック女子も、そうでない女子も、実は同じ悩み深い存在なのだ
ということを明らかにしようと思います。
==========
記事で触れられている女性たちの姿というのは、
有名大学を卒業し、大手企業に採用されながら、その中で疲弊し、病を発症してゆく女性たち
の叫びでした。
”摂食障害、不安障害(パニック障害)、不眠症、適応障害、自律神経失調症、うつ病、更年期障害......仕事をするうえで、心身のさまざまな不調に悩む女性たちがいる。”
”ハイスペック女子がつぶれる”
”部下にモノを投げてしまう”
”死ぬよりはいい”
えぐい言葉の数々が並びます。あるいは記事中にも出てきましたが、電通では実際に一人のハイスペック女子が自殺する目に逢ってしまいました。
==========
この手の記事、問題提起をいくら見回しても、「そうした環境や境遇にうまく適合しながら、頑張れ」ということしか書いていません。
もちろん、
しんどいときには休め
とか
ホルモンバランスに気をつけろ
とか
いざとなったら逃げたり辞めたりしろ
とか、そういうアドバイスもたくさんしてくれる人がいることでしょう。
しかし、ここで解脱者武庫川はハタと気付いたのです。
このセカイのアドバイザーや、ライターが絶対に書いていないこと。ハイスペック女子にとって、最も肝心要の重要な事実を、ほとんどすべての人が見逃していること。
それを今日はズバリ、書いてみたいのです。
==========
それは何か。
とても、根源的で、大事なことです。
恐ろしいことですが、最初からボタンが掛け違っている、ということは、あったりしないのでしょうか?
そう。ハイスペックであるということ。
女の子が、高学歴であり、また高能力であり、それでいて高女子力であるべきだというそのモノサシそのものが、
男性社会に適合するためのモノサシと同じ基準になっているのではないか
ということです。
まだ、わからない人もいることでしょう。もう少しやわらかく言い換えます。
高学歴であるということは、知識と智恵と頭脳を要求されているわけですが、そこで学ぶ知識と智恵と頭脳は
「男性として生きやすいための知識と智恵と頭脳」
であって、
「女性が幸せに生きるための知識と智恵と頭脳であるのか」
については、おそらく誰も検証していないのではないか?という恐ろしい問いかけを私はしているのです。
男性としてこの社会を取り回していくのに必要な知識と智恵と頭脳の大系は、太古の昔から積み上げられてきていますが、実は
「女性が真の幸せを得るためのそれ」
は、まだ学究されていないのだとしたら、
「女の子が男の基準でハイスペックにいくらなっても、男として生かさせられるだけだ」
ということになってしまいます。
これが、ハイスペック女子の、根底に流れる「生きづらさ」の原因なのだと、仮説を立てたわけです。
高学歴は、男であれば都合がいい知識や行動大系になっている。
高容姿は、男にとって見目麗しい女性とされるだけで、女同士の間ではどうでもいい。
高収入は、「男のように生きるのであればね」という条件つき。
もし、本当にそうなのだとしたら、いいですか?すごいことが起きているのです。
「ハイスペックとされる女子も、そのスペックは男性基準なのだから、実はロースペックであると言える」
とすれば
「ロースペック女子が生きづらいのも、ハイスペック女子が生きづらいのも、全く同じ」
なぜなら
「どちらも、女性らしい女性としての幸せのスペックを持ち合わせていないから」
ということが!!!
==========
私の知り合いのある女の子が、ずっと学歴コンプレックスで、
学びについてハイスペックでありたいということと、
「私はあんな世の中のチャラチャラした女の子とは違うと思いたい」
ということで悶々としていました。
でも、それをいくら追い求めても、全然幸せそうではなかったのを思い出します。
むしろ、そのせいで恋愛をこじらせたり、自分の進学や就職の面でも苦労したのを見ていると、
女性にとっての幸せとはなんだろう
と周囲で見ている私も苦しくなるほどでした。
それが、ある時、うちの奥さんがいらなくなった若い女性らしい可愛い服をプレゼントして、ちょっとだけメイクの道具を揃えて、奥さんがメイクを教えて上げただけで、
彼女はむちゃくちゃ可愛くなった
という出来事がありました。
それはもう、男性の私がみても、「この子はこんなに素材が良かったのか、もったいなかったなあ!」と思うほどで、それから彼女は、公私ともにものすごく前向きになったという出来事でした。
のちに彼女は言います。「私はチャラい女子に、本当は嫉妬していたのだ」と。
「あんな風になりたくない」は「あんな風に自由になりたい」という意味も隠されていたのかもしれません。
いまでも、彼女は多少「強きもの、大きいもの、ブランド力、大企業には魅かれる」と言っています。
「でも、そう思ってしまうところが、あたしの弱さだ」とも気付いているから、きっと大丈夫だと思います。
最近、巷で流行している「カワイイは正義」ということばではないですが、自分で自分が自分らしいと思えることは、根源的に重要だと思います。
むずかしいジェンダー論はさしおいても、「自分が素敵でありたい」「自分が女性らしくありたい」というその視点は、
女性が女性ならではのものさしで、自分で決める
ことが大切なのではないかと思います。
男のための知識・智恵や容姿なのではなく、
「女の子が女の子として生きて生きやすいための知識智恵」
「女の子が、自分らしくいられるための姿かたち」
「女の子が無理なく生きていけるための収入」
を実現することは、不可能ではないと思います。
だから、世の中のハイスペック女子のみなさんには、一刻も早く男のためにその能力を使うのではなく、女の子のためにそれを使ってほしいと、男ながらに願うのです。
なぜなら、私は男なので、ほっとくとつい男に都合のいい力を要求してしまうから。
謝罪。
0 件のコメント:
コメントを投稿