2017年5月21日日曜日

障害は、実は障害ではない! 障害を抱えた人たちが生きているべき理由(追補)



 京大の猿学(サルガク)といえば、全国・いや海外でも知らぬ者のいない類人猿に対する学問の最先端です。



 私は京都の大学に通っていたので、文系ではあったものの当然ながら京大猿学派の授業を受ける機会が多々ありました。


 友人の中には、サルガク講義を聞きたくて、わざわざ他大学の同学派の授業にもぐりこんでいる者もいたくらいで、そのファンは多いのですが、ワタクシももちろんファンです(^^

(個人名を挙げて、だれそれ教授の授業がいいよ、とかではなく京大サルガク派の講義は、誰バージョンでもかなり面白い)



 さて、その猿学の先生が、とても面白い記事を書いておられました。




  自閉症者が人類社会に不可欠な理由 ~実は障害ではない!~
 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51688

(現代ビジネスより)




 話の内容はズバリ簡潔明快です。




 自閉症は、遺伝の自然淘汰を受けておらず、わざと遺伝子はヒトが自閉症になることを残している!



ということ。これが意味するのは、どういうことなのでしょう?




 自閉症という狭い項目に限らず「発達障害などが多いことは、そこに存在意義があるからだ」という発想は、トリッキーなものではなく、



 厳然たる事実


であると私も思います。それが、言うなれば神と自然の意図なのです。




 筆者さんは、たとえば自閉症者であれば、その共感能力を「自然・外界」に対して用い、いわゆる普通の人は、「社会内部」に対して用いる、という書き方をなさっていますが、簡単に言えば



 それぞれの”障害とされるもの”には、何か別の”特化された得意な能力”のようなものと関わりがあり、ひいては人類は、それらの能力を分担することで全体として「生存する確率を伸ばそうとしている」



ということになるわけです。


 しかし、同時に現代社会では、「多数派とされるものがマイノリティを迫害する・あるいは理解しない」ということも起きており、これは




 現代(先進国)社会が、全体にまんべんなく生きるための社会ではなく、何か一方に傾倒しているいびつさを持っている



ということの表れだとも解することができるでしょう。




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 実は今日取り上げた話は、以前のこのブログでも書いていて、私は「障害は障害ではない」ことをいち早く体感として記事にしていました。






 障害者はなぜ生きているべきか
 http://satori-awake.blogspot.jp/2016/09/blog-post.html

 
(昨年の9月の記事です)




 この記事で、私は「障害者は存在すべきである」ということを全力で証明したのだが、今日の京大猿学先生の話も、



 まったく同一



のことを言っているといえるでしょう。



 その障害たる因子が遺伝によって起きるのであれば、DNAはわざとそれを残したがっているし、その障害を表に出したがっている。


 なぜか。


 それは人類が生き残るための秘策だからだ!




ということなのです。




 そして、もうひとつ大事なこと。



 遺伝子がそのように働くということは、



「人類はけして個体で完結すべき存在ではなく、たとえ苦しみや軋轢があろうが、人類全体として関わりあってゆくべき存在であって、男女や親子や組織や集団の総体として生き延びるよう設計されている」



ということでもあるわけです。



 だから、総体である以上、マイノリティを切り捨てることはあってはならないのです。


 マイノリティは、総体の一部を確実に意味があって形成しているからです。



 もし、マイノリティを切り捨ててしまえば、人類は絶滅するかもしれません。



 マイノリティは、人類絶滅をふせぐ、最後の希望となるやもしれないのですから。




















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