2016年7月28日木曜日

相模原大量障害者施設殺人事件について 〜解脱者が考える正義とは何か〜

 日本の犯罪史上、類まれというかおそらくは初めてなのではないかとも言われている相模原の障害者施設殺人事件についてですが、この事件について何の視点も置かないというのはさすがにセカイに対して失礼だと思うので、解脱者なりの言葉を書いておこうと思います。


 もちろん、たくさんの方が亡くなっているわけですから、心から痛ましく思います。


(なので、今日は真剣な眼差しで書きます)



<正義とは何か>


 今回の事件が、日本でかなり珍しい事件だと言われるのは犯人が「犯人なりの正義」をあえて大上段に振りかざしてそれを公権力にまで宣言して実行した、という点にあるのではないでしょうか。


 かのオウム事件においても、内部では「これは正義の戦いだ」という認識はあったでしょうが、事前に政府に通告してテロを起こしたわけではありませんし、池田小事件や秋葉原事件などは、「加害者の個人的な屈折」を無差別に振りかざしただけで、今回のように

「健常者である職員の命に危害は加えず、障害者のみを刺殺する」

という意図的な「(犯人なりの)正義における分別」

 は、なされていませんでした。



 とすれば、私たちは必然的に「正義って何なんだ」ということに、嫌でも着目せざるを得なくなります。



 奇しくもつい最近


ストーカーは正義である
http://satori-awake.blogspot.jp/2016/05/blog-post_27.html


などでも、この話を取り上げたし、あるいは欧米を震撼させているテロ事件などでもそうなのですが


「私たちの一般常識として考えている正義と異なる別の”正義”がたしかに存在する」


ということに、これからは嫌でも向き合わねばならない時代なのだと思います。



 こうした難しい問題に、ふつうの人は


「はなっから思考を中断して、存在を抹殺してしまう。あるいは見ないふりをする」


という行動を取ります。


 具体的に言えば、今回の事件についても


「そんな優生学的な発想はナチスと同じだから間違っている」

とか

「そもそも刺青や大麻をやっている時点で話にならない」

とか

「イカれた奴はみな死刑にすればいいんだ」

とか、とりあえず、何がしかの処理ができたようでいて、実は何の根本的解決にもなっていない言説を繰り替えすわけです。



 しかし、よく考えてみてください。


 ある人たちは、優生学は否定するけれど、妊娠中絶は大量に行います。あるいは、着床前診断などで、遺伝子に問題があれば妊娠そのものをとりやめる夫婦もたくさんいるわけです。


 この夫婦と、今回の事件の犯人の根底に流れる「正義は同じ」です。

「障害者は、この社会で生きるには大変で可哀想である」という思想に基づいて、夫婦は最初から殺人を犯しているのですから。



 この全く同じ正義に基づく議論が、今回の事件に関連して行われることはないでしょう。


 それは突きつけられると、産科医や不妊治療や、あるいは高齢出産や、女性の社会進出といったたくさんのジャンルや組織やシステムに陰を大きくする問題だからです。


 だから、みな、今回の容疑者については「最大限悪く言いまくり、それでおしまい」にすれば、見て見ぬふりができるわけです。




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 解脱者は、そもそも正義を認めません。


 障害を持つ人は生まれるし、その方たちが社会において生きづらいことも事実でありましょう。

 だからと言って価値があるとかないとかそういう問題ではありません。


 そもそもこの世は無常です。わたしたち健常者も「価値があるというフリをしているだけで、価値なんてない」のです。


 それが証拠に、すべての人は平等に死にます。だれもが死ぬということは、つまりはそういうことなのです。


 よって、武庫川は、今回の犯人が行ったことは完全に間違っていると宣言できます。


「可哀想なのは、障害者なのではない。あなただったのだ」

「生きづらいのは障害者なのではない。あなた自身だったのだ」

「価値がないと感じられるのは、障害者なのではない。あなたそのものだったのだ」


ということを、彼が気づいていれば、慟哭し泣き叫んだかもしれませんが、 この世の無常を悟り、別の生き方をみつけたことだろうと思います。



 彼は、間違ったことに「彼の正義に執着」しました。そもそもこの世に「正義なんて存在しない」のに、それに執着したことが彼の根源的な誤りであったと思います。




 わたくし武庫川も、慟哭し、泣き叫んだ思い出があります。この世に意味があり、価値があると信じていた昔の自分が悟りを得たとき、


「ああ、この世界には実は何も意味などなかったんだ!」


との気づきに泣きました。天地がひっくり返るような心のざわめきがありました。



 
 この世界に価値などありません。



 亡くなった19人の命は、犯人1人の命で代替されるかもしれませんが、そうすると被害者の命の価値は19対1になってしまいます。


 そんなことが正義なのか?と思うくらい、正義なんてないのです。


 犯人の一族郎党19人探し出して、全員殺せば、命は償われるのでしょうか?


 それも無意味な話です。


 何をどうやっても、話が合わないのは、この世界における正義そのものが、空想に近いくらい儚いものだからなのです。


 
 

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