2018年7月20日金曜日
ネットリンチやネットいじめを解決する究極の方法
とある高校で起こった問題に次のようなものがあります。
その学校に通うA子は、精神的なものからくる盗癖があって、すぐ教室の中で他人のものを盗んでしまいます。
しかし、A子はまるでルパン三世のように巧みにものを盗むので、生徒たちの間では、「A子がいつも犯行現場にいる」「A子が犯人なのではないか」とうわさは出てくるものの、確証はありません。
学校の先生たちもA子の盗癖については把握していて、中学校の担任の先生からも「A子が友人宅での窃盗について非行事実があり、補導歴がある」ことも申し送りされているため、証拠はないながらも、校内で起きる窃盗がA子の仕業であろうことは推定しています。
それでも、A子が犯行を行っている目撃証言や物的証拠は、まったく出てこないため、先生たちとしても、通常の教育活動の範疇で行われる指導としては、かなり限界を感じていました。
中学時代にA子を取り調べたことのある警部を学校に招いて、生活安全について講話をしてもらったり、「A子、おまえを容疑者としてみているぞ」という圧力は掛け続けていたのですが、これはもう病気なので、それらの網をすべてかいくぐりながら、今日もA子は何かを盗むわけです。
「学校では自分の持ち物を管理しておかないと、校内に泥棒がいるかもしれないし、入ってくるかもしれない」
と口をすっぱくして生徒全員に話をしたり、A子について面談などの指導も実施しましたが、A子は自分が犯人であるそぶりをまったく見せず、疑われていても動揺ひとつしないという
完璧なルパン三世
であったので、結局、ありとあらゆる罠を潜り抜けてA子は卒業していった、といいます。
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A子の技術はすばらしいもので、常に現場近くで姿を見られているにも関わらず、決定的な物証を残しませんでした。
あるときは、修学旅行のお土産が忽然と着え、ある時は食べかけの焼そばパンの半分が姿を隠しました。
「A子が入っている部活の子が、その時ランニングしていた」
とか
「A子と数人が、放課後残っていた」
とか、そういうレベルで、犯人がいつもそこにいるのですが、誰も犯行現場を目撃したことがなかったのです。
A子を掴まえるには、「ありとあらゆる場所に監視カメラをしかける」か、「指紋検査を実施する」しかなく、学校教育としては、
犯行が疑わしいだけで、そこまで捜査をする人権的権限がない
今まで盗まれたものがすべて軽微なもので、(鉛筆とか、マスコットとか、パンとか)、警察に被害届けを誰も出すところまでいかない
状況だったために、最終的に彼女を取り逃がしてしまったわけです。
幸いなのかわかりませんが、A子は通常の学校生活においては、常に「疑わしい」という話は出るものの、「A子は窃盗犯だ!」と糾弾されることもなく、べつだんいじめられもせずに普通に過ごしていました。
ただ、友達の数はごく少なかったのですが、彼氏がクラスの人気者であったために、疎外されることもなかったわけです。
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A子を取り逃がしたまま卒業させたことは、職員室では一生の不覚でしたが、どうやらA子については、相手のほうが一枚も二枚も上手だったようで、実際に彼女を補導した警部も、
「これ以上は、こちらから一方的に指導を加えるわけにはいかない。少なくともミスして捕まるまでは」
という話で、悔しそうでした。
しかし、ここからは「もし」「IF」の話ですが、もし仮にA子の犯行が完全にバレてしまった場合、
「同級生たちは、A子を糾弾し、いじめてもよいか」
ということについては、みなさんはどう考えるでしょうか?
たくさんのものが盗まれた被害者がおり、A子は窃盗という人類における罪を犯しており、これまでもこれからもその人物とともに「学校生活、集団生活を送ることができるか」という意味において、
「少なくとも友達でありつづけることはできないだろう」
とか
「口を利かず、結果として仲間はずれにしてしまうことはやぶさかではないだろう」
ということは想像がつくと思います。
ところが学校の先生としては、
「A子を許せ」
とも
「A子を許すな」
とも、明言しがたく、 実際にこの「もし」が生じてしまった場合は、噂が立つ前に早急にA子を転校させてしまう、というのが、学校教育上の実務なのだと言えるでしょう。
そう、まろやかにごまかして煙に巻いてしまうことで、正義とは何かということについて解答しないのです。
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そのため、A子やA子のような児童生徒が、周囲から針のむしろに晒されて、いじめられまくり、糾弾されまくるということは実際には起きないし、あるいは周囲が我慢してA子に理解を示すということも起きません。
それはそういう事例がないのではなく、学校現場の「誰にも見えない工夫」で、隠されているからなのです。
(実際の社会では、村八分のような濃密な因習集団ではこれが起きるでしょうが、少なくとも都市郊外ではおなじようにひそやかに転居することで、たとえば犯罪者の家族などは隠れて去ることが出来ています)
ところが、ネットという空間、ネット社会では、
「本当は悪くないB君が、何かの誤解を受けて炎上し、ネットいじめを受ける」
こともあるし
「本当にA子のように問題がある人物が、炎上しネットいじめを受ける」
ことが生じてしまいます。B君のように、実は誤解で炎上したなどであれば後で何らかの方法での救いもありますが、
「最初から最後までA子が悪く、周囲に対して問題行動を取っている人物が、周囲からいろいろと非難される」
ということは、ネットではよく起きているのです。
そこでは、そっと先生が転校させてくれたりもしないし、非難されたA子が、そのまますごすごとネット上から消えることはなく、
「たとえばHagexさん事件のように、殺人にまで発展する」
ということがあるでしょう。
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さて、これらの話をうまく、なるほどとまとめておられる方の記事があったので紹介します。
インターネットは人類に早すぎた(さよならドルバッキー)
http://nogreenplace.hateblo.jp/entry/2018/07/20/190000
この方の話が、「ネット炎上」や「ネットいじめ」については、もっとも簡潔でわかりやすいのではないかと思います。
詳しいことは元ネタを読んでほしいのですが、端的に言えば
「ネットにおける、いじめ・批判は集団で示し合わせたものではなく、それぞれが正義や善悪の感覚に基づいて自由に発言していることの集合体である」
ということでしょうか。
A子やBくんが個人であるのに対して、炎上やいじめリンチが集団で襲ってくるのではなく、A子やBくんへの個人的な非難が、ネットという広大な空間を通じて1対数百倍・数千倍の「個」が対立することになってしまうのが、この現象だというわけです。
記事を書いておられる方は、これらの結論として
”こういった悲惨な炎上やネットリンチを防ぐためにはネットを使う人全てが「自分の意見は誰かの刃になり得る」って自覚し続けないといけないんだと思う。”
とまとめておられますが、まさにその通りで、
正義や善を振りかざさず、正義にも善にも別の側面があることを自覚しよう
ということになるのだと思います。
これこそ 色即是空 空即是色 であり、ひとつの物事の見え方に囚われず、本質はそこではない、という解脱の発想そのものですね。
解脱者ムコガワは、そもそも正義とやらを否定しますが、
参考) 解脱者が考える正義とは何か
https://satori-awake.blogspot.com/2016/07/blog-post_29.html
少なくとも、ネットリンチやネットいじめを無くすには
「すべての人が解脱するのが望ましい」
ということになるのでしょうか。
それはともかく、A子の高校生活にも、なんらかのヒントがあったように思います。
A子を犯罪者として糾弾するのが正しかったのか
それとも、
A子がそうなったように、微妙な距離感を保ちながら、他の生徒と過ごしてゆくのが良かったのか
これは、難しいところです。
正義の執行のためには、A子は真実を明かされ、糾弾され、いじめられ、集団で非難されるべきだったのでしょうか。
それとも、その正義ですら、Aの病気であるという側面については、ほぼ無視して無慈悲な責め苦を負わすものだったのでしょうか。
あるいは、たとえばA子が補導されたり、あるいはその後逮捕された(かどうかはわかりませんが)ように、もっと個人的に叱られたり学ぶべきものであって、周囲が必要以上に責め立てる必要はないのでしょうか。
解脱者から見れば、A子も、ある意味では哀れな存在です。
そして周囲の人間も、実際に被害にあっているのですから、悲しいことです。
教師たちも、警察の人間も、いろいろ思いながら、また彼女をどうしてやるのがいいのか悩みながら、過ごしています。
それらの「無常観」「やるせなさ」「人間の悲しさ」「業」など、すべてを受け止めながら、少しずつ紐解いてゆこうとするのが、解脱した人間のあるいは望ましい生き様なのかもしれません。
誰かの一方的な白黒は、反対の立場の人間にとっては黒白えげつないコントラストを浮かび上がらせて、それは対立と殺生、ひいては戦争へと行き着くのでしょうか。
解脱者たるもの、「白黒つけないカフェオーレ」でも飲みながら、無常だなあ、とつぶやくのでありました。
http://www.cafeore.jp/info/
グリコ♪
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