2019年2月7日木曜日

児童虐待 8万人の衝撃!!




 衝撃のニュースが、飛び込んできました。




 児童虐待通告 8万人(時事通信)
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019020700407




 児童虐待の疑いがあるとして昨年、児童相談所に通告された事案が




 8万件



もあった、というのです。通告、すなわち連絡があっただけで8万件ですから、外部に出ていない数字はもっと多いと推定されるでしょう。




 ちなみに、年間3万人を越えていた自殺者は、昨年は、


 2万1000人


で、 交通事故死者数は



 3500人



です。



 さらに、1年間に8万人とはどんな数字なのかといえば、




 1年間の行方不明者数



がちょうど、8万人で、これはこれで怖い。




 ~~~~~~~~~~




 これだけ児童虐待が溢れていると、そりゃあ児童相談所の職員では手が足りないことは当然です。



 解脱者ムコガワは、基本的にはこのセカイの出来事については、積極的に関与すべきではないとは思いますが、もしこれらの虐待を減らすには、どういう方策があるかを考えることはできます。



 
 ◆ 親が自然に親権を手に入れられるから悪い → 親権は免許制にする


 そもそも、肉体的に親になる人物が、社会的に親の役割を果たせるかどうか担保されないところからこの話は始まります。


 私達は、自然と肉体的親は社会的な親であるべきだと思っていますが、果たしてそうなのかどうか。



 そこで、社会においては、「親」という資格をもうけ、その資格に満たないものは「仮免許」で親になっていただく、というのはいかがでしょうか?


 そして、子供ができずに悩んでいる夫婦にも、もちろん「親」の資格を認める評価をして、資格を失った肉体的親から社会的親に子供を渡すようにする、というシステムはいかがでしょう。



 類似した考え方ですが「親」であることと「保護者」であることを分ける、という手もあるかもしれません。


 親には自動的になれるけれど、「保護者資格」を有さないものは、保護者にはなれない、というシステムです。





 ◆ 子供は国家のものにしてしまい、親に貸し出す


  好き嫌いがはっきり分かれる政策ですね。戦前の国家主義になってしまう恐れがあるので、なかなか際どい問題発言ですが、子供の監督権を保護者から奪ってしまい、いったん国家に帰属させる、というシステムは作ることはできそうです。


 政府のみなさんは「子供を産め産め」とすぐ言いますが、彼らの頭のなかにはどこかしら


 子供は国家のものだ


と考えているふしがあります。それを具体化するだけです。


 奈良時代の考え方は、むしろこれでした。 人民は国家のもの(天皇のもの)だったわけです。





 ◆ 子供は家・地域・小集団のものにする


  口分田制度がうまく行かなくなってから、平安時代から戦前までは、どちらかというとこのシステムが生きていたといえるでしょう。


 子供は、ムラやイエのもの、あるいは「氏族」という同族集団に帰属するという考え方です。


 これだと、イレギュラー的に養育不足の子供が生じても、ムラやイエが責任を持つので、国家に取り上げられずに管理下に置く事ができます。


  しかし、個人の自由は制限され、どちらかといえば「家長」の権限がよりいっそう強くなることは想像できます。


 戦国時代だと、子供たちも全員命をかけて戦いに駆り出されるパターンです。





==========




 しかし、感覚や概念ではなく、実際のリアルな現場で起きていることは、「子供が誰のものか」という問題でも、「誰に保護権・義務があるのか」という問題でもありません。



 この話はごくごく簡単で、別にこどもだけではなく、たとえばDVに苦しむ女性なんかもまったく同じで、



「日本には、逃げたいと思った時に、逃げられる場所がない」



ということに尽きます。



 縁切り寺のように「ここにさえ逃げ込めばなんとかなる」という場所もなければ、「ここにさえ連絡すれば、保護してくれる」という場所がないことがそもそもの問題で、おそらくはそこから後は、制度を変えなくてもなんとかなることだらけなわけです。



  たとえば、市役所にそういう場所があってもいいでしょう。そこにさえ飛び込めば、あとはなんとかしてくれる課。


 たとえば、病院の一角にそういう場所があってもいいでしょう。


  あるいは、交番でも飛び込んでしまえば追い返されずにかくまってくれるシステムでもいいでしょう。


 一時期話題になりましたが



 赤ちゃんポストの自分版



があればいいのです。自分をそこに放り込めば、とりあえず生きてゆける、みたいな。



 
 本来は、寺院や教会がその受け皿だったはずなのですが、残念ながら今はそうではありません。


 悲しいことですね。


 








0 件のコメント:

コメントを投稿