2019年8月10日土曜日
解脱者・ムコガワ散歩はデカルトの生まれ変わりか?
輪廻転生とか、生まれ変わりとか、前前前世とか、そういうものは別にどうだっていいと思っている稀代の解脱者、ムコガワ散歩です。
こにゃにゃちは。
そろそろお盆休みですね。あの世から祖霊が戻ってくると言われている盂蘭盆会でございますが、そういうのも別にどうだっていいと思っている解脱者でもあります。
大文字焼き、見に行きたいなあ。
・・・さてさて。前回はAPUの学長でもある出口治明さんの新著の話をしました。すると、ツイッターで出口さんにフォローされてしまい、かなり恐悦至極に存じているところでありますが、どんどんいつもの調子で参ります。
その出口治明さんのインタビューの続きが、ダイヤモンドオンラインさんに掲載されているのですが、これまた面白かったのでメモしておきます。
哲学と宗教を学ぶのに絶対外せない3冊
https://diamond.jp/articles/-/210384
人生において、絶対外せないものを3つあげろ!と言われれば
俺とお前と大五郎
とつい答えてしまうムコガワですが、北海道民はここで爆笑するところです。(焼酎のCM)
出口さんは、「デカルト」と「クルアーン」と「悲しき熱帯」 を上げておられますが、まちがっても
淋しい熱帯魚
ではありません。それはWinkです。 ジョークにしないで~。
もとい。さてデカルトさんですが、かなり面白い。その考え方を読んでいると、もはやほぼ武庫川散歩なのではないか、あるいはわたしはデカルトの生まれ変わりなのではないか?と思えるほどです(笑)
残念ながら、武庫川は大学は文学部日本文学専攻に進んだので、哲学科ではありませんでした。そのため哲学の歴史についてはあっさりとしか知らないので、もっと勉強すべきです。
精進いたします。
デカルトさんの何が面白いか、というと、出口さんも紹介しておられますが、
”人間の精神や意識と、物体としての人間の肉体は別のものであるとデカルトは述べています。精神や意識は、努力したり勉強したりすれば完成度を高くすることが可能だけれど、肉体は不変である。人間はこのように精神と身体の2つに分かれている。これがデカルトの説く「心身二元論」です。”
というところ。もっと詳しく言えば、デカルトは、人間の肉体は「機械」だと捉えました。
機械の肉体に、精神が乗っかっているような感じですね。
この話、ちょうどこの前ブログに書きました。
新しい哲学のスタート 人間の世界は2つの層でできている
https://satori-awake.blogspot.com/2019/08/blog-post.html
新しい!とか言っちゃってるわりには、すでにデカルトさんに言われてしまっているので、今更何をいうとんねんですが。
ウィキペディアを読めば、デカルトさんの思考はおおむねよくわかります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88
■ 人間も動物も機械みたいなもの
■ その上に人間は精神が別に乗っかっている
■ 宇宙から地上まで、すべての法則はぐるぐるしている(渦動説)
■ デカルトの神は科学の一部であって、信仰する対象ではない
ぐるぐるの話は、前回も書きましたが、言っていることはまさに同じ。
神様というのは科学の一部で、意思を持たないので信仰するような対象ではないという視点も同じです。
なあんだ、武庫川散歩の言っていることはデカルトとおんなじじゃないか!
というわけで、ある人は「武庫川散歩なんて、デカルトの焼き直しだ」と言うかもしれませんが、逆に言えば、
「デカルトを知らずに、デカルトと同じことを考える武庫川は、なんてすごいんだ!ほぼ現代のデカルトだ!」
という人もいるでしょう。わはははは。
いやいや、解脱者はそんなことはどうでもいいので、デカルトさんがもし生きていたら、LINEで話したいと思うくらいで、このセカイの事実は誰が読み取っても同じなので、たいしたことではありません。
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さて、お盆といえば盆踊り!
突然話が変わりますが、兵庫県には全国に名の知られた盆踊りとそのミュージックがあって、それを人呼んで
「デカンショ節」
といいます。そーれそ~れデッカンショ!
このデカンショ節、ルーツがかなり不明でいろんな説がありますが、その中の一説に
「デカンショとはデカルト・カント・ショーペンハウエルの略だ」
というまさにデカルトなお話があるわけで。なぜ、デカンショ節が全国で知られるようになったかというと、旧制中学などの学生歌として東京の学生との交流の中で広まっていったからなのです。
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さて、そんな余談も挟みながら、デカルトさんと武庫川さんの決定的な違いをここで解説いたしましょう。
結論から言えば、デカルトさんはわたしの前前前世ではないということですね。
デカルトは、肉体を機械としながらも精神を切り離して別のもの、別の次元のものと捉えました。
もちろん、完全に切り離れたものではなく、相互に関係があると考えてはいたのですが、基本的には別のものと捉えています。
しかし、武庫川は、どちらかといえば完全機械論者なので、「心身の機能や精神は、ぶっちゃけ化学反応によって生み出された物理現象の範疇を超えていない」と考えます。
つまり、精神などというものは、単なる物理現象の複雑な発現でしかないというわけです。
武庫川はそもそも、精神や意識というものが、物理や科学の「上位」の概念だとは思っていません。
人間はアホなので、動物よりも精神や意識をもつ人間のほうが「上」でより進化しているみたいに考えますが、「上」も「下」もないのが本当です。
たとえば、精神の表現である「正義」なんてのは、「どちらが正義で誤りでないか」なんてことは、かなり状況によってブレが生じますが、科学や物理はブレたり結果が変わったりはしません。
つまり、精神や意識は、人間が勝手に「上位の、野獣の本能よりすごいものだ」と考えているだけで、もしかすると野獣の本能のほうがブレがなく、「いつでも正しい」かもしれないわけです。
となると「命を大切にする」という考えよりも、「いつでも自己中心的」のほうが、理にかなっていることだってあるかもしれないわけで。←極論の一例ですよ。
となると、少なくとも野獣の生き方がいつでも科学的にひとつの解を結ぶかどうかは別にしても、科学や物理は誤りが起きない、というのであれば、
誤りが起きないほうが神に近い(つまり、そっちのほうが上位なんじゃない?)
ということだって言えるわけですね。
だから、上下の概念など無意味だというのです。
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まあ。このあたりは心身問題として哲学では有名な問いだそうなので、みなさんもいろいろ考えてみてはいかがでしょうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E8%BA%AB%E5%95%8F%E9%A1%8C
(補足) 心身問題は主に「脳」があって「意識」があるというふたつの状態について考えるわけですが、武庫川の場合は、脳は物理法則と化学反応そのものなので、別に「脳」がなくても意識は作り出せるんじゃない?と考えています。
コンピュータのプログラムは、「打ち込まずとも、紙の上でも存在するのであれば、想像するだけでプログラムは存在するか」という問いを武庫川はいつもやってますが、だとすれば物質さえも意識には不用、ということもありえます。
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