2019年8月6日火曜日

拝啓 出口治明さま  人類は何のために生きているのか



 ライフネット生命の出口さんという方とは、ごくごく薄いながらもご縁があって、ひとつは彼は現在APUという大学の学長をしているのだけれども、わたくしムコガワも、その系列の大学の卒業生である。

 うっすいなあ!



 さて、ふたつめは、わたくしムコガワが世を忍ぶ仮の姿で某NHKの番組に出た時に、ゲストコメンテーターをしていたのが出口さんだったように思う。記憶も薄いけれど。


 残念ながらワタクシ武庫川のほうは、VTR出演で、出口さんのほうは、スタジオ収録だったので、直接お会いしたことは全然ないので、これまたうっすい縁なのだが、それでもご縁があると思えば、そこにはご縁があるというのものだ。


 いやいや、うっすいけど、ごめんなさいね。
 

 その出口さんが、とても興味深い本を出版なさったという。それは宗教と哲学に関するもので、出口さんと言えば60歳を過ぎてからライフネット生命を立ち上げたというビジネス畑の方なのだが、とても博識で、いろいろなことに精通なさっているという学者肌の方にもお見受けする。


 さて、出口さんがこの本についてインタビューに答えておられるのが、大変おもしろい。

 まさに、ふだんから不肖ムコガワ散歩が、このブログで宗教と哲学と科学について、うんち(く)を垂れていることとたいへん関わりがある話なので、ぜひ紹介しておきたい。





自然科学は哲学や宗教を無用化するのか(ダイヤモンドオンライン)
https://diamond.jp/articles/-/210371




 人類の究極の問いとは、結論から言えばひとつか二つしかなく、それは出口さんもおっしゃっているように


『世界はどうしてできたのか、また世界は何でできているのか?』

『人間はどこからきて、どこへ行くのか、何のために生きているのか?』


という単純で簡潔なものである。 


 古今東西の科学者や哲学者、あるいは宗教家というのは、これに対する答えを自分なりに出したり、あるいはそれを周囲に納得してもらえるように証拠を集めたりしてきたということになるだろう。



 21世紀ともなると、科学の集合知により、これらの答えはある程度明確になってきている。 


■  世界は物質とエネルギーがビッグバンによって出来た。そして宇宙は広がっている。

■  宇宙を構成する物質とわたしたちの住む世界や地球を構成しているものは同じ。

■   太陽が膨張してなくなれば、結局人類も地球の生命も滅ぶ

■  なので、人が生きている理由は、地球が滅ぶまでの間、いのちを繋いで子孫を残すこと



 まあ、ほれ、うーんと。

 細かな表現の差異はあるかもしれないが、結局のところだいたいこんなもんだ、というのが問いへの答えである。




 解脱者としての立場から言うことが許されるのであれば、


「どうせみんな最後は滅びるのだから、セカイにも人生にもあまり意味はない」


という方便も可能なのだが、 実際には我々人類は


「喜怒哀楽を感じながら、今ナウこの時点においては生きているのだから、それを十二分に感じて、ビビビと生きてゆくしかない」


という言い方も逆説的には言えるだろう。


 これはまた言い方を変えれば、個人においても


「人生80~100でどうせ死ぬんだから」


という大前提の上で


「だから、人生はどっちでもいいわ」となるのか

「だから、生きている期間を充実させて楽しもうぜ!」となるのか


の2択の考え方ができるというわけである。


 ブッダが前者のように無常と解脱を定義したのだとすれば、私は後者のように定義するだけなので、まあ、それも含めてどっちでも好きなほうでいいとは思う。



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 しかし、どうせセカイは滅ぶし、人は死ぬのに、なぜその期間を充実させたいと思うのかといえば、これは出口さんも言っているが


「よりよく生きたい」と「死ぬ恐怖から逃れるため」


の2つが明解な答えなのだと思う。 つまり、生きてしまっている限りは、その中で最善を尽くしたい、ということでもあり、その中で恐ろしい死に方はしたくない、という不安でもあるということなのだろう。



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 出口さん流に解釈すると


1)  自然科学は、このセカイのなりたちについて、解明してしまった。それはある種の無常なものである。

2) しかし、セカイが無常であるがゆえに、私達は人類社会も、個人の生活ももうすこし「有意義」なものにしたいと考えている。だから、そのためにどうしたらいいかを考えるのが哲学と宗教である。

3) 哲学と宗教はかなり近しい分野・領域だが、あえてわけるとすれば、哲学は「起きている現象をどのように解釈すればよりよく生きる正解に近づくか」という方向性で、宗教は「ある一定の理想形(神)やシステム(教義)を提示して、それに準拠してゆけばよりよく生きる正解に近づくか」という方向性とでもいえようか。


という感じになるのかもしれない。



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 まあ、このへんのことは、おおむねこのブログの一連の記事でもずっと書いてきたことなので、結局誰が考えても、「答えは同じ」なのだろう。少なくとも21世紀ともなれば、このセカイのなりたちについては、ほぼ解明されちゃったに等しいので、もはや、



 そのことについてじたばたしてもはじまらない



のである。



 しかしまあ、せっかくなので、人生の大先輩である出口さんに敬意を抱きながら、この不肖の若者がおなじ結論の上でどんなことを考えているかをちょびっとだけでも書かせていただくチャンスがあるとすれば、それはとてもうれしい時間になるだろう。




<この世界について>


  我々の世界は、星のかけら(物質とエネルギー)で出来いて、ビッグバン以来膨張している。そこまでは全然OK。

 さて、その物質とエネルギーは、我々の側から見ているからモノがあるように感じているのであって、実は外側からみれば記号のような「物質を伴わない論理的に組み合わさることのできる何か」がなんらかの法則性によってユニットごとに合体しながら複雑なものを組み上げているのではないか?

 たとえば、コンピュータゲームの中の世界が、複雑なプログラムで出来ていると思いがちだが、実際には0と1の組み合わせのみで動かせるような、そんな記号的なものが、物質の本当の姿なのではないか?


 そうなると、論理的なプログラムが実際にはハードウエアがなくても存在できるように、我々が物質に依拠していると思っているこの世界も、物質なんて実はなくても成立するのではないか?


という考え方がムコガワ流この世界なのだが、残念なことに「セカイの外側」の話をすると科学では解明できないので、これは哲学のジャンルにならざるを得ないわけである。

 さらに、「じゃあ、そのプログラムはどうやってできたんだ。このセカイの外側を作った、あるいは出来た理由はなんなんだ」となると、これはいわゆる「神」の領域だから宗教のジャンルにもならざるを得ないわけである。


 ああ、こまったなあ。というのが不肖な若者の気持ちである。科学で解き明かしたいなあ。







<人類が生きていることについて>


  どうせみんな滅びるのに、なぜ子孫を残さなくてはならないのか。


 これってすごい問いである。どうせ最後は滅びるんだから、みんな単体で死んでしまえばいいのではないか?と普通なら誰も思う。

 ムダだし、コスパが悪い(苦笑)


 滅びるとわかっていて、あがき続けるのが生命や人類なのだとすれば、そりゃもう仏教的な「業(ごう)」の世界みたいになってしまう。


 賽の河原で、ひとつ積んでは父のため、ふたつ積んでは母のため、と石ころを積み上げてゆくのを、鬼がやってきて全部壊しちゃうみたいな、そういう業(ごう)のような苦しみである。


 
 ところが、たぶんそういうことではなくて、我々が思っている世界における自分たちの流れの軸みたいなものが、根底から見誤っているのではないか?と解脱者は考える。


 つまり、過去があって現在があって、未来があって、という時間経緯の中に我々を置くと、「過去から遺伝子を受け継いで、それを未来に渡して、命を繋いでゆくのだ」みたいな考え方になってしまうので、当然「最後はどうなるのか→滅び」を想定せざるを得ないのだが、たぶんそこが間違っているのだ。



 そうではなくて、時間軸は過去から未来への矢印ではなく、どちらかというとランダムにバラバラの方向を向いているか、ぐるぐる回っているというほうが正しいかもしれない。



 たとえば、コップの中に水が入っているとして、その水は実は


「水分子として、うようよしている」

「Hが遊離して0と合体しようとしている」

「また別のOがHを探してくっつこうとしている」


のような、いろいろな様態があり、かつブラウン運動で水分子はぐるぐる動き回っているのである。


 こういう時間軸が、コップの中の水の「現在」であって、その動きを見ている限りにおいては、それらの分子の「過去・現在・未来」はたぶんどうでもいいことである。


 なんせ、過去から一直線ではなく、ぐるぐるしているということだ。




 人類や生命もこれと同じで、卑弥呼がいて、源頼朝がいて、織田信長がいて、という歴史の流れは、我々がそう捉えているだけで、実は


「卑弥呼を構成していた原子は、きみの体の一部になっている」

とか

「頼朝を構成していた元素は、関東人の100万人の体に分散して今日も存在している」

 とか

「信長の原子は、京都の草花たちに吸い上げられていて、明日あたり京野菜として出荷される。これで8000回目」


とか、そういうことなのだ。これが「ぐるぐる」回る時間軸である。




 だから、原子や元素レベルでみれば、地球の総質量は基本的にずっと変わらないのだから、ぐるぐる回っているだけで、過去も未来もなく、コップの中の水のように



「地球の中でブラウン運動をしているだけ」



である。 仮に、水分子がブラウン運動をしなくなるということは、それはコップの中の水が崩壊してゆくということだろう。つまり、水という存在が死滅してゆく方向性である。分子は崩壊し、原子から元素へ戻ろうとするだろう。



 それと同じで、生命や人類が遺伝子を受け継ぐことを辞めてしまえば、「生命」というジャンルが崩壊し、細胞をやめてしまい、分子をやめてしまい、原子をやめてしまうような、そういうことが起きる。


 それでも元素としては、地球の総量は変わらない。


 そして、さらに大きい話をすれば、地球の内部で物質や遺伝子がぐるぐる回ることをやめても、宇宙全体でみれば、たいしたことはないのだ。



 大変興味深いことに、「神様は、まだブラウン運動を停止させていない」し「分子のぐるぐるをやめさせてはいない」から宇宙は存在している。


 だとすれば「神様は、まだ生命活動を停止させていない」し「遺伝子のぐるぐるをやめさせてはいない」から生命は存在しているのだ。


 だ・か・ら。


だから人類は子孫を残すのだ。それは望むと望まざるとに関わらず、宇宙や地球や分子といっしょにこのセカイで活動しているというひとつの証であるからだ。


 もちろん、子孫を残せなくても、分子や元素の形でぐるぐるに参画はできるから、それほど心配するほどのものではないのだけれど。


 でも、子孫を残すことは、人類というレベル、生命というレベルでは、如実に宇宙のぐるぐるシステムに参加するアクティビティなのである。


 
  だから人類は子孫を残したいと思っている。そのぐるぐるが終了する、太陽が爆発するその日までは。


 しかし、もし太陽が爆発しても、我々を構成していた原子は宇宙をまたぐるぐるできる。


 その時には、我々には意思というものはないかもしれないが、まだ我々は活動には参加できているので、”生きている”とはいえるかもしれない。



 なーんてね。





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