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2019年8月6日火曜日

拝啓 出口治明さま  人類は何のために生きているのか



 ライフネット生命の出口さんという方とは、ごくごく薄いながらもご縁があって、ひとつは彼は現在APUという大学の学長をしているのだけれども、わたくしムコガワも、その系列の大学の卒業生である。

 うっすいなあ!



 さて、ふたつめは、わたくしムコガワが世を忍ぶ仮の姿で某NHKの番組に出た時に、ゲストコメンテーターをしていたのが出口さんだったように思う。記憶も薄いけれど。


 残念ながらワタクシ武庫川のほうは、VTR出演で、出口さんのほうは、スタジオ収録だったので、直接お会いしたことは全然ないので、これまたうっすい縁なのだが、それでもご縁があると思えば、そこにはご縁があるというのものだ。


 いやいや、うっすいけど、ごめんなさいね。
 

 その出口さんが、とても興味深い本を出版なさったという。それは宗教と哲学に関するもので、出口さんと言えば60歳を過ぎてからライフネット生命を立ち上げたというビジネス畑の方なのだが、とても博識で、いろいろなことに精通なさっているという学者肌の方にもお見受けする。


 さて、出口さんがこの本についてインタビューに答えておられるのが、大変おもしろい。

 まさに、ふだんから不肖ムコガワ散歩が、このブログで宗教と哲学と科学について、うんち(く)を垂れていることとたいへん関わりがある話なので、ぜひ紹介しておきたい。





自然科学は哲学や宗教を無用化するのか(ダイヤモンドオンライン)
https://diamond.jp/articles/-/210371




 人類の究極の問いとは、結論から言えばひとつか二つしかなく、それは出口さんもおっしゃっているように


『世界はどうしてできたのか、また世界は何でできているのか?』

『人間はどこからきて、どこへ行くのか、何のために生きているのか?』


という単純で簡潔なものである。 


 古今東西の科学者や哲学者、あるいは宗教家というのは、これに対する答えを自分なりに出したり、あるいはそれを周囲に納得してもらえるように証拠を集めたりしてきたということになるだろう。



 21世紀ともなると、科学の集合知により、これらの答えはある程度明確になってきている。 


■  世界は物質とエネルギーがビッグバンによって出来た。そして宇宙は広がっている。

■  宇宙を構成する物質とわたしたちの住む世界や地球を構成しているものは同じ。

■   太陽が膨張してなくなれば、結局人類も地球の生命も滅ぶ

■  なので、人が生きている理由は、地球が滅ぶまでの間、いのちを繋いで子孫を残すこと



 まあ、ほれ、うーんと。

 細かな表現の差異はあるかもしれないが、結局のところだいたいこんなもんだ、というのが問いへの答えである。




 解脱者としての立場から言うことが許されるのであれば、


「どうせみんな最後は滅びるのだから、セカイにも人生にもあまり意味はない」


という方便も可能なのだが、 実際には我々人類は


「喜怒哀楽を感じながら、今ナウこの時点においては生きているのだから、それを十二分に感じて、ビビビと生きてゆくしかない」


という言い方も逆説的には言えるだろう。


 これはまた言い方を変えれば、個人においても


「人生80~100でどうせ死ぬんだから」


という大前提の上で


「だから、人生はどっちでもいいわ」となるのか

「だから、生きている期間を充実させて楽しもうぜ!」となるのか


の2択の考え方ができるというわけである。


 ブッダが前者のように無常と解脱を定義したのだとすれば、私は後者のように定義するだけなので、まあ、それも含めてどっちでも好きなほうでいいとは思う。



 ~~~~~~~~~~



 しかし、どうせセカイは滅ぶし、人は死ぬのに、なぜその期間を充実させたいと思うのかといえば、これは出口さんも言っているが


「よりよく生きたい」と「死ぬ恐怖から逃れるため」


の2つが明解な答えなのだと思う。 つまり、生きてしまっている限りは、その中で最善を尽くしたい、ということでもあり、その中で恐ろしい死に方はしたくない、という不安でもあるということなのだろう。



~~~~~~~~~~~~



 出口さん流に解釈すると


1)  自然科学は、このセカイのなりたちについて、解明してしまった。それはある種の無常なものである。

2) しかし、セカイが無常であるがゆえに、私達は人類社会も、個人の生活ももうすこし「有意義」なものにしたいと考えている。だから、そのためにどうしたらいいかを考えるのが哲学と宗教である。

3) 哲学と宗教はかなり近しい分野・領域だが、あえてわけるとすれば、哲学は「起きている現象をどのように解釈すればよりよく生きる正解に近づくか」という方向性で、宗教は「ある一定の理想形(神)やシステム(教義)を提示して、それに準拠してゆけばよりよく生きる正解に近づくか」という方向性とでもいえようか。


という感じになるのかもしれない。



~~~~~~~~



 まあ、このへんのことは、おおむねこのブログの一連の記事でもずっと書いてきたことなので、結局誰が考えても、「答えは同じ」なのだろう。少なくとも21世紀ともなれば、このセカイのなりたちについては、ほぼ解明されちゃったに等しいので、もはや、



 そのことについてじたばたしてもはじまらない



のである。



 しかしまあ、せっかくなので、人生の大先輩である出口さんに敬意を抱きながら、この不肖の若者がおなじ結論の上でどんなことを考えているかをちょびっとだけでも書かせていただくチャンスがあるとすれば、それはとてもうれしい時間になるだろう。




<この世界について>


  我々の世界は、星のかけら(物質とエネルギー)で出来いて、ビッグバン以来膨張している。そこまでは全然OK。

 さて、その物質とエネルギーは、我々の側から見ているからモノがあるように感じているのであって、実は外側からみれば記号のような「物質を伴わない論理的に組み合わさることのできる何か」がなんらかの法則性によってユニットごとに合体しながら複雑なものを組み上げているのではないか?

 たとえば、コンピュータゲームの中の世界が、複雑なプログラムで出来ていると思いがちだが、実際には0と1の組み合わせのみで動かせるような、そんな記号的なものが、物質の本当の姿なのではないか?


 そうなると、論理的なプログラムが実際にはハードウエアがなくても存在できるように、我々が物質に依拠していると思っているこの世界も、物質なんて実はなくても成立するのではないか?


という考え方がムコガワ流この世界なのだが、残念なことに「セカイの外側」の話をすると科学では解明できないので、これは哲学のジャンルにならざるを得ないわけである。

 さらに、「じゃあ、そのプログラムはどうやってできたんだ。このセカイの外側を作った、あるいは出来た理由はなんなんだ」となると、これはいわゆる「神」の領域だから宗教のジャンルにもならざるを得ないわけである。


 ああ、こまったなあ。というのが不肖な若者の気持ちである。科学で解き明かしたいなあ。







<人類が生きていることについて>


  どうせみんな滅びるのに、なぜ子孫を残さなくてはならないのか。


 これってすごい問いである。どうせ最後は滅びるんだから、みんな単体で死んでしまえばいいのではないか?と普通なら誰も思う。

 ムダだし、コスパが悪い(苦笑)


 滅びるとわかっていて、あがき続けるのが生命や人類なのだとすれば、そりゃもう仏教的な「業(ごう)」の世界みたいになってしまう。


 賽の河原で、ひとつ積んでは父のため、ふたつ積んでは母のため、と石ころを積み上げてゆくのを、鬼がやってきて全部壊しちゃうみたいな、そういう業(ごう)のような苦しみである。


 
 ところが、たぶんそういうことではなくて、我々が思っている世界における自分たちの流れの軸みたいなものが、根底から見誤っているのではないか?と解脱者は考える。


 つまり、過去があって現在があって、未来があって、という時間経緯の中に我々を置くと、「過去から遺伝子を受け継いで、それを未来に渡して、命を繋いでゆくのだ」みたいな考え方になってしまうので、当然「最後はどうなるのか→滅び」を想定せざるを得ないのだが、たぶんそこが間違っているのだ。



 そうではなくて、時間軸は過去から未来への矢印ではなく、どちらかというとランダムにバラバラの方向を向いているか、ぐるぐる回っているというほうが正しいかもしれない。



 たとえば、コップの中に水が入っているとして、その水は実は


「水分子として、うようよしている」

「Hが遊離して0と合体しようとしている」

「また別のOがHを探してくっつこうとしている」


のような、いろいろな様態があり、かつブラウン運動で水分子はぐるぐる動き回っているのである。


 こういう時間軸が、コップの中の水の「現在」であって、その動きを見ている限りにおいては、それらの分子の「過去・現在・未来」はたぶんどうでもいいことである。


 なんせ、過去から一直線ではなく、ぐるぐるしているということだ。




 人類や生命もこれと同じで、卑弥呼がいて、源頼朝がいて、織田信長がいて、という歴史の流れは、我々がそう捉えているだけで、実は


「卑弥呼を構成していた原子は、きみの体の一部になっている」

とか

「頼朝を構成していた元素は、関東人の100万人の体に分散して今日も存在している」

 とか

「信長の原子は、京都の草花たちに吸い上げられていて、明日あたり京野菜として出荷される。これで8000回目」


とか、そういうことなのだ。これが「ぐるぐる」回る時間軸である。




 だから、原子や元素レベルでみれば、地球の総質量は基本的にずっと変わらないのだから、ぐるぐる回っているだけで、過去も未来もなく、コップの中の水のように



「地球の中でブラウン運動をしているだけ」



である。 仮に、水分子がブラウン運動をしなくなるということは、それはコップの中の水が崩壊してゆくということだろう。つまり、水という存在が死滅してゆく方向性である。分子は崩壊し、原子から元素へ戻ろうとするだろう。



 それと同じで、生命や人類が遺伝子を受け継ぐことを辞めてしまえば、「生命」というジャンルが崩壊し、細胞をやめてしまい、分子をやめてしまい、原子をやめてしまうような、そういうことが起きる。


 それでも元素としては、地球の総量は変わらない。


 そして、さらに大きい話をすれば、地球の内部で物質や遺伝子がぐるぐる回ることをやめても、宇宙全体でみれば、たいしたことはないのだ。



 大変興味深いことに、「神様は、まだブラウン運動を停止させていない」し「分子のぐるぐるをやめさせてはいない」から宇宙は存在している。


 だとすれば「神様は、まだ生命活動を停止させていない」し「遺伝子のぐるぐるをやめさせてはいない」から生命は存在しているのだ。


 だ・か・ら。


だから人類は子孫を残すのだ。それは望むと望まざるとに関わらず、宇宙や地球や分子といっしょにこのセカイで活動しているというひとつの証であるからだ。


 もちろん、子孫を残せなくても、分子や元素の形でぐるぐるに参画はできるから、それほど心配するほどのものではないのだけれど。


 でも、子孫を残すことは、人類というレベル、生命というレベルでは、如実に宇宙のぐるぐるシステムに参加するアクティビティなのである。


 
  だから人類は子孫を残したいと思っている。そのぐるぐるが終了する、太陽が爆発するその日までは。


 しかし、もし太陽が爆発しても、我々を構成していた原子は宇宙をまたぐるぐるできる。


 その時には、我々には意思というものはないかもしれないが、まだ我々は活動には参加できているので、”生きている”とはいえるかもしれない。



 なーんてね。





2016年9月16日金曜日

【解脱者、セカイを語る 1】 混迷の時代を、セカイ系解脱者が斬る! ~セカイはどこへ向かっているのか~


 解脱者武庫川、そろそろ誕生日を迎えるので、新しい一年にふさわしく新しい企画を!ということで新シリーズを始めたいと思います。



 題して「解脱者、セカイを語る」。


 どうも、セカイ系解脱者の武庫川散歩です。名前だけでも覚えて帰ってください。





 ちなみに「セカイ系」というのは、少年少女向けのライトノベルや漫画アニメなどのジャンルでございまして、


「なんかよくわからんけど、主人公の少年少女(まあ、大抵はおしなべて普通そうで、どちらかと言えば内気だったりする性格)が、諸事情でセカイ全体と何らかのつながりができて、主人公の言動によってセカイが大きく変わったりするような」ジャンルのことを言います。


 Wikipediaではこんな風に説明がなされることも。


” 「一人語りの激しい」「たかだか語り手自身の了見を『世界』という誇大な言葉で表したがる傾向」”




 うおおおお!常に一人で語っていて、おまけにムコガワの小さな了見をセカイにつなげて語るなど、まさにこのワタクシのことではないですか!!!!



  というわけで、セカイ系解脱者の武庫川が、混迷の時代を生き抜くための知恵と知識を、凡夫のみなさまにお伝えしようというのが、この新コーナーのテーマなのです。




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 さて、なんだか隣の国とは「戦争がはじまりそう」だったり、自分の国でも「経済格差や貧困」が問題になっていたり、「ブラックな企業だのホワイトな家族だの」が取り沙汰されたり、「少子高齢化で国力が衰えたり」いろんなことが起きている昨今です。


 世界に目を向ければ「移民問題」「EU離脱問題」「テロ問題」「中国の領土領海問題」なども山積みです。



 そういう世界において、これからの私たちはどのように生きていけばよいのか、は実は宗教や思想・哲学に関心のない人でも「心のどこかで悶々としている問い」であることは否めません。



 そこで、希代の哲学者にして、解脱者でもあるこの武庫川散歩が、そんな苦しみに溢れたセカイに一筋の光明を!というのが、これからお話するネタなのであります。



 能書きはこれくらいにして、さっそくセカイを説く、その中身に入ってゆくことにいたしましょう。




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【その1  セカイはどこへ向かっているのか 】




 このブログの初期に、世界と宗教との関係について連続して解説した記事がありましたね。

  http://satori-awake.blogspot.jp/2014/01/blog-post_25.html

(↑忘れた人はこのへんからどうぞ)


 その記事を思い出してくだされば分かる通り、実は「国家・民族」は「宗教」と密接な関係を持って成長し、文化は発展してきました。

 その結果として、『キリスト教文化圏=先進国=欧米=民主主義と資本主義』『イスラム文化圏=中東中心=反資本主義・反欧米』『アジア宗教圏=追いつけ追い越せ型先進国(日本・中国)=儒教的文化など独自路線が残る資本主義』みたいな構図が、今私たちを取り巻くことになりました。


 まあ、そのせいで、まず第一にセカイには「キリスト教」VS「イスラム教」みたいな対立が生じていることを覚えておかなくてはなりません。

 


 この宗教対立は、「いつかセカイの文化文明が発展すれば、解決する問題だ」と思っている人がいるかもしれません。


 あるいは、「中東の問題やイスラム関連のテロも、いつかは無くなる」と思っている人もいるかもしれません。



 しかし!それは間違いです。とここで言いきっておくことにしましょう。



 宗教的な対立は、おそらく人類の歴史において、ほぼ永遠に解決しない。



 これを解脱者は宣言しておきたいと思います。





 なぜ、そう言えるのかは、意外と簡単かもしれません。セカイの歴史には様々な複雑な要因が入り組んでいますが、ポイントを絞れば、そうした対立の構造は、とても単純だったりするのです。


 ポイントを2つに絞りましょう。


 宗教的対立が解決しない理由、その1つめは、


1) 宗教の正誤は、誰にも証明できないから。


ということです。


 キリストの意志とムハンマドの意志、あるいはエホバの意志とアラーの意志を客観的に並べ、あるいはその意見を交換させ、そしてどちらかが正しく、どちらかが誤っているという答えを得ることは、誰にもできません。


 ということは、「誰もが、自由にその意志を受け止めることができ、解釈することができる」ということに他なりません。



 したがって、キリスト教とユダヤ教とイスラム教の見解が統一されることはなく、そのためいつまでたっても「自分は正しいが、あいつは間違っている」ということが生じ続けることになるわけです。


 これでは対立は、解決しません。そして、もう一つの理由が、実は大きいのです。



2)  その本質は宗教というよりも格差の対立であるから


ということ。これはとても大事です。しっかり理解しましょう。




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 私たちは、セカイに巻き起こる宗教対立を「教義の対立」であると思っています。ところが、実はそうではなく、私たち日本人が初詣をしながらクリスマスケーキを食べることからわかるように「教義なんか違っていても、なんとかなる」のが実態なのです。


 では、なんとかならないのは「一体なに」だと言うのでしょうか?


 それは「格差」です。



 現在、欧米と中東がトラブルをたくさん抱えているのは、この「格差」の問題が隠れています。


 キリスト教圏のメンバーは、産業革命を経て早い段階から「経済成長」を遂げた先進国、つまり欧米が主流です。彼らはお金と力を持っていますが、イスラム教圏のメンバーは、十字軍の頃から欧米諸国に軍事的に圧力を受け、被害を被っています。


 なので、イスラム教圏のメンバーは、キリスト教圏メンバーに対して、反旗を翻すことになりました。


「私たちが虐げられるのは(あるいは格差があるのは)彼らのせいだ。」


と。


 イスラム過激派のテロリストが、「資本主義と欧米」を憎むのは、そうしたバックグラウンドがあります。


 あるいは、アラブの人たちが、経済力で土地を奪い取ったイスラエルに反感を抱くのも、そこに「格差」があるからなのです。




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 この格差と宗教が結びつくと、大きなエネルギーが生じます。


「私たちは正しい神を信仰しているのに、この格差はなぜ起きるんだ」


という疑念は


「私たちは正しい神の力で、彼らから奪い、正そう」


という思想へとすぐに切り替わります。



  戦時中の日本が「神国日本は勝つ。神風が吹く。負けるはずがない」と言っていたのも、同じ理屈です。



 日本も、また欧米列強との格差を縮めようとして、富国強兵路線を突き進んだのです。





 というわけで、第一回の今回のポイントは、



 セカイは対立へと向かっている



という点でした。


 中国と日本においてもそうです。中国は「日本を超えたい」と思っています。 彼らには


「中華思想(中国は世界の中心である。そしてそうあるべきである)」


という一種の宗教がありますから、その思想と、これまで後進国に甘んじてきた劣等感が結びついて、強大なエネルギーを生み出している、というわけなのです。




 まずは、「対立」というツボを覚えておきましょうね。(次回へつづく)












2016年5月12日木曜日

解脱者は、このセカイのすべてを理解する。 ~世界は、とっても単純でカンタンだった!~



 前回の記事で、解脱者はこの世界をたった二つの定義で言い表すことを提案しました。



 それは


【定義1 この世界は平衡で、閉じている】

【定義2 創造主は、感情をもたない】


という、とてもシンプルな2つの定義でした。




 地球が丸く閉じた世界であるように、太陽によって生かされている太陽系も有限の閉じた世界でした。宇宙の果てのことはわからないけれど、宇宙が広がっているということは端っこがあるのではないか、ということを前回説明しました。



 閉じた世界というのは、その内部で総和が変化しないということも前回書きました。


 なので、


 人にとって食べることは善でも、動物にとって食べられることは悪である。


 先進国にとって豊かであることは善でも、その裏で搾取される国にとっては悪である。


 ヨーロッパに逃れられた難民にとっては救いでも、受入国にとっては迷惑である。


 あなたが苦しんでノルマを達成すると、雇用主と株主は喜ぶ。


 お金持ちになる人がいるということは、誰かが貧しいということだ。


などのように、 やっぱり閉じた世界で起きる現象は、すべて善悪でさえも平衡になっている、というわけです。



 この世界においては、万物にとって善である、という究極的なWIN-WINの関係は存在しえません。


 このことに気づかない人間は、とても不幸になります。



 なので、赤ちゃんが親を呼ぶときには不快な泣き声を発するのです。

 けして、心地よい声でおっぱいを求めないのです。






 ところが、人類というのは面白いことに「いや、そんなことはない。できれば、そしてできるだけ善でありWINである人間が増えるのがこの世界を良くする事だ」と考えて進歩を続けてきました。



 解脱者の定義は、それを否定するものではないので、まちがえないでね。



 さて、「人類は善を増やし、良くあることができるはずだ」という考え方は、実は西洋思想に顕著です。


 なので、歴史的に、西洋においては、「論理的で、合理的であること」が、追い求められてきて、それは現在の物質文明を高らかに構築するのに役立ちました。



 ところが、「万物は平衡であるから、何が善であるかわからない」という考え方は、東洋思想で発展しました。


 これは、みなさんにとっては仏教の「無常観」などでなじみがありますね。





~~~~~~~~~~





 たとえば、「おなかいっぱい食べ、幸せである」という人を定義したとしましょう。これは西洋思想的で、人は幸せになれるはずで、そうあるべきである、という合理的な理念に基づいた考え方です。


 ところが、「そのために、いくつもの生きとし生けるものの命が犠牲になっている」というとも同時に定義できます。これは極めて東洋思想的な視点です。



 ということは、西洋思想とは、


「まず一点の視座を定め、そこから良きこと、善を追求する」


という考え方だとわかります。



 東洋思想は、それとは真逆で、


「空からの俯瞰的な眺めで見たとき、何がみえてくるか」


という考え方だともわかってきます。




 これはどちらも全くおなじものを見ているのだけれど、西洋思想はミクロな視点、東洋思想はマクロな視点で捉えている、というわけなのです。





~~~~~~~~~~




 翻って、この世界において人類は


「どうしたら人類は幸せになれるだろうか」


という命題を考え続けてきたのも事実ですが、その影には


「どうしたら、私だけが、あるいは私の国だけが、幸せになれるだろうか」


という視点が隠れていることも忘れてはなりません。



 だから、この視座に疲れた人は、


「そもそも、何が幸せなのかわからない。何が正しいのか不明だ」


とも感じるのです。




  ここまでが閉じた世界で、日々起こっていることを単純化したものです。





 さて、ミクロな視点とマクロな視点、西洋思想と東洋思想で捉えてみたように、この世界というのは、


「合理的でありたいと願いながら非合理、善でありたいと願いながら善ではない」


という現実が渦巻いています。



 なので、人は、昔からその理由を「外側」に求めようとしたのです。


 つまり、神様などを定義して、「神がこれこれこう考えているから、こうなっているのだ」と空想を重ねてきました。




 ところが、この空想も西洋と東洋では考え方が異なるのです。


  西洋思想では、キリスト教のように、「理由があってこの世界は悪になっていて、それはいつか善になるだろう」とやっぱり合理的に考えようとします。


 東洋思想では、「しゃーないやん、無常だもの」とか、「ぐるぐる回っている」とか、合理性よりも、その状態をただ空想で定義しようとしてきました。




 そうすると、特に東洋思想では、創造主がいるかどうかはどうでもよくて、ただ流れていたり回っていたり、ふわふわしていて、その外側の世界は


「あなたに何の関心もない」


と捉えていることになるわけです。




~~~~~~~~~~

 興味深いことに、西洋の宗教では、「神の意思に人があわせること」を要求されていますが、東洋の宗教は、「自分が現状を超えること」を求めます。


 西洋思想が神に主権をおくのに対し、東洋思想は自分に主権がある、というわけです。





 それはさておき、この世界がそのように成り立っていると知れば、あなたの心はずいぶんと気楽になったことだろうと思います。


「こうあるべきだ」と頑なになる必要はありません。それは相対的なものだからです。


でも、「流されるまま、回されるままでは面白くない」という側面もあるでしょう。



「神様にすがるのは無駄なこと」だとわかったでしょうか?


でも、 「閉じた世界だからこそ、終わりの瞬間までは動かされ続ける」のも事実なのです。




 さあ、あなたは今からどのように生きるのでしょうか?





 




セカイ系 解脱者解く、この世界の真実! ~世界は実はシンプルなんだ!~



 それは昨日のことでした。


 なあんだ!セカイはとってもシンプルだったんだ!


と思わずSTRしてしまった武庫川散歩は、世を忍ぶ仮の姿で営業に出ていたのです。



 その時武庫川は、宝塚あたりをうろちょろしていたのですが、突然ビビビと来て、この世界の成り立ちについてDAIGOしてしまった!というわけ。





 え?STRって何か?



 SaToRiに決まってんじゃないすか(笑)




 え?DAIGOがどうしたって?


 あ、ごめん大悟だった!


 注)「大悟」 ・・・真理を悟ること。




~~~~~~~~~~



 はい。というわけで、今日も解脱小ネタをまくらにはじまった武庫川散歩のセカイノハジマリ。


  このブログのファン以外には、なーんにも面白くない、解脱ネタですが、今日は教義的にはなかなかの真理をぶちかますつもりです。






 この武庫川散歩、解脱者となってからというもの、



「このセカイは一体全体どうなっているのか」


とか


「このセカイは、今後どうなってゆくのか」


とか、哲学的な自問をいつも重ねていたのですが、それらがスカッと単純な理論で言い表せることに気づいた次第です。



 だから、今回のお話は、「悟り、であり哲学」でもあります。




 というわけで、昨日悟った真実によれば、この世界は単純な2つの論理で表すことができます。





 <この世界を表す定理>
 
1   この世界は、平衡で、閉じている。

2   創造主は、感情を持たない。




  はい。これだけで、私たちが生きているこの世界や宇宙をすべて包括することができる、と武庫川はえらそうに主張してけつかるわけです。



 
 でも、さすがに上の2つの定理をならべただけでは、なんのことかわからないと思うので、もう少しわかりやすい解説を付け加えておきます。





【定理1】

 この世界は平衡で閉じている。


 ・・・閉じている、というのは、たとえば地球であれば、無限に広がっているわけではなくて、球体の中にいわゆる世界は納まっているわけですから、開いているのではなく、閉じており、有限である、ということを示します。


 この有限で閉じている、ということはとても大事で、ビッグバンの理論でもわかるとおり、宇宙は始まりから現在、そして未来にむかって「広がっている」わけですから、その最も外周の縁があるわけです。

 とすれば、ビッグバン宇宙のように「無限に広がり続けるんじゃないか?」と一見思いがちですが、そのことは「広がる可能性がある」というだけで、過去から現在に至るまでは、常に「最外周の内側はずっと閉じ続けている」ということでもあるのです。


 もっとわかりやすく、話のレベルを落とすと、たとえば人類にとっては、宇宙そのものが存在しようが、太陽が消滅した時点で地球も終わりだということはわかると思います。


 つまり、太陽系は有限だし、閉じています。地球と人類の究極的な寿命も、基本的には有限で閉じているわけです。


 人がかならず死ぬのと同じで、地球もいつか死ぬのです。



 さて、この閉じた世界では、閉じているがゆえに、その内側にある物質の総量はほとんど変化しません。

 化学反応式の右辺と左辺の総和が同じであるように、地球や閉じた宇宙の内部で何が起こっても、総和としては変化しないわけです。


 これを「平衡している」と捉えます。


 平衡というのはシーソーのバランスみたいなもので、片一方が上がっていても反対が下がっているので釣り合いが取れます。

 地球内部で起きていることは、誰からにとって良いことでも、反対の視点から見ると悪いことですから釣り合いが取れているのです。



 ヒトにとっては、食べることは善で正義です。しかし、食べられる動植物にとっては、悪で、あってはならないことです。地球全体の俯瞰で見ると、善と悪という概念ですら、平衡バランスの一面であるわけです。






【定理2】

 創造主は感情を持たない。

 

  ・・・定理1が、閉じた世界の内側の話だとすれば、定理2は「外側」について定義するものです。

 創造主がいるのかどうかは不明ですが、世界が閉じているのだとすれば、その外側があるというのは特段おかしな考え方ではないと思います。


 その外側を「神」と捉えてもいいし、「創造主」と捉えてもいいでしょう。


 しかし、ここで間違ってはいけないのは、その神様や創造主なる「外側」は、感情を持ったりしないことです。



 なぜ?



 神様や創造主を信じる人たちは「神は意図や意思を持ってこの世界を創造した」と考えますが、その”意図や意思”の具体的な中身を論じぬままそれを語るのは問題があります。


 私たちの脳が行っている「意思や意図」というのは、化学物質による反応と、電気信号による伝達という純粋な物理科学現象によって具体化されています。


 とくに、わかりやすく言い直せば「感情や情動」の正体は、科学反応だということです。


 そして、この世界の全てが、物理科学現象によって生成されているとするならば、いわゆる私たちが考える


「感情・情動・意思・意図」


といったものは、すべて物理科学現象によってアンダーコントロールされている、と言うことができるでしょう。


 逆説的に言えば、「感情や情動や意思や意図は、物理科学現象の上に成り立っているし、物理科学現象の範疇からは出られない」ということです。



 ということは、閉じた世界の創造主が「自分で作った物理科学現象のしくみ」に支配された感情や情動や意思や意図を持つ、というのは構造的にナンセンスですよね?


 だから、閉じた世界の外側の存在は、いわゆる私たちがついイメージしそうな「感情(とそれに類するすべての脳活動とおなじもの)とは次元が違うところにある」と言えるのです。



 つまり、創造主から見て、私たちがどう生きていようが、どのように存在しようが、それを見ても「なんとも思わない」ということが明らかになるのです。




~~~~~~~~~~



 実は、この2点にさえ気づけば、この世界で起きているすべてのことは、



 完全に説明がつくし、すべてを表現できる



のです。



 次回は、そのあたりの説明をしてゆきたいと思います。


(つづく)