2014年8月8日金曜日

<日常>理研と笹井先生とSTAP細胞から考える 

 さて、連日の投稿お疲れ様です。わたし。・・・そんなお茶目な武庫川散歩です。


 今日は少しばかり、俗世の出来事と絡めながら、新世紀の「悟り」についてお話しましょう。


 突然ですが、理化学研究所の笹井先生という方が自殺なさったそうです。


 たいへんに残念です。再生医療の専門家だったそうですから、これからの日本の医学に多大な貢献をなさったかもしれないし、なさらなかったかもしれない点、とてももったいなく思います。


 ぜひ、ご決断の前に、当ブログをちらりとでも読んでもらえていたら、もしかしたら自殺なさらなかったかもしれないし、なさったかもしれないので、大変に悲しく思います。


 いずれにせよ、この世は無常です。命は、儚く尽きるものです。



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 月並な言い方をすれば、故人のご冥福をお祈りするところですが、残念ですが、来世も冥土もありませんので、笹井先生というパーソナリティが永遠に失われたということです。


 実に惜しい人を亡くしました。そして、惜しくない人が生き延びたりします。諸行無常ですね。



 さて、彼は再生医療の専門家でした。いろんな細胞を用いて、失われた臓器を再生することが目的です。


 ES細胞やら、ISP細胞やら、STAP細胞やら、いろいろあるそうです。


 もうなんでもいいから「笹井先生を再生してしまう」ことはできないのでしょうか?



 今日の本題はここです。


 もし、再生医療の専門化チームが、どんなに頑張って笹井先生を復活させたとしても、


 それは笹井先生ではない、優秀な遺伝子をもったただの赤ちゃん


でしかないということがわかるでしょうか?


 そうなのです。いくら再生医療が発達しても、そこから再生されるのは新しい細胞(そしてそこから構成されたもの)でしかありません。


 笹井先生は、永遠に戻ってこないのです。



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 仏教的に考えれば、すべては無常です。笹井先生が存在しようが、存在しまいが、行く川の流れは絶えずして、もとの水にあらずなのです。


 しかし、すこし考えてみてください。


 そもそも笹井先生が存在しなかった世界





 笹井先生が存在した世界



とを比較して、どちらも同レベルにおなじでどうでもいい、と言えるでしょうか?


 解脱者目線だと、「どっちでもどうでもいい」となるのですが、少なくともセケンの感覚では


「ん?それは大きな違いがありそうだ」


とすぐ気付きますね。ES細胞の功績がなければIPS細胞も生まれていませんし、世界規模の再生医療の研究にも大きな差があっただろうことは、素人でも察しがつきます。



 そこに、生の面白さ・大切さがあるわけです。


 たしかにセカイは無常で、どっちでもどうでもいいものではありますが、その中に


「生きていることに、ちょっとした重みや価値がある世界」


がたしかに存在することも事実です。


 笹井先生に生まれてすぐ涅槃に入ることを薦める宗教があるとすれば、そいつはどうもよろしくないだろうことは、直感でピンときますね。


 ブッダというのは、そういうヤツなのです。


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 私は、自殺することは「いけない」とは思いません。自殺することが物理的に可能なのだから、このセカイを作った神のようなものは自殺することを許しているのだと思います。


 しかし、自殺してまで守らねばならぬような大事なものはこのセカイにはありません。


 どうせ存在しない世界です。そこに自ら死を選ぶような価値はないはずです。



 だからどうか、今自殺を考えている人は、思いとどまってほしい。


 
 これは武庫川散歩の切なる願いです。


 





 
 


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