悟りを開いてからというもの、ワタクシ武庫川散歩は全然、というか全く「怒り」というものを覚えなくなったのですが、おかげで日々穏やかに暮らしています。
そりゃまあ、そうですな。解脱してるのに俗世のことに逐一怒りを覚えるのは矛盾しています。この世は無常、無常ったら無常なんだから、そんなん別にどうでもいい(笑)
・・・とまあ、そう言いたいところですが、つい先日珍しく「怒りに似た感情」のようなものを感じたので、なんにでも興味を持つ、欲の塊である武庫川散歩は、
はて、この感情はなんだろう?
とそれを追求してみることにしました。
すると、面白いことに気付きました。最弱解脱者を持って、さらに怒りを生じさせしむるところの原因とは一体なんなのか。これはなかなか奥深く・そしてさらなく解脱に通じるものが潜んでいるのです。
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さて、怒りです。 そもそも、あの日、正常で穏やかなる心で過ごしている武庫川散歩さんに何があったのでしょうか。
ええ、実は武庫川さんは、ツムツムしてました。ツムツムって何?という人は、ネットで調べてください。まあ、簡単に言えばゲームです。
ツムツムが嫌いな人は、ドラクエでもモンハンでも、七並べでも脱衣マージャンでも何でもいいのですが、ようはゲームをしていたわけです。
・・・え?解脱者がゲームするのかって?しますよ?それが何か?
解脱者がゲームをしようがしまいが、そんなことは無常で色即是空なのだからどうでもいいのです。別に、ゲームをしたいという欲望にまみれてしているわけでもありません。
通勤電車の中で、時間をもてあましてちょっとスマホでゲームをしてみるとか、そんなもんです。どうしても解脱者はゲームをしてはいけないというのなら、そうしたい人はそうすればよろしい。
ワタシはどっちでもいいです。別に(^^
・・・さて、話は戻ってツムツムしてたんですが、そうすると幼い武庫川散歩のこどもがちろちろやってきて、スマホの画面に指を出していろいろ操作をしよるわけです。
まあ、簡単にいえば、本人はお手伝いのつもりかわかりませんが、私とおんなじように、指先で画面を触ってボムを消しよるのです。
そこで、最弱解脱者武庫川散歩は、ひるみました。
「お、おおおおっと。ちょっとまってくれ。君の指のせいで画面が良く見えない。ぶっちゃけていえば邪魔!」
という感情が、にわかに巻き起こったのです!!!
よく考えてみると、・・・いや考えるまでもなく。所詮ゲームですから、ワタクシ武庫川散歩は、最初からゲームをすることに価値を置いていません。別に高得点を狙っていたわけでもない。
子どもが嫌いなわけでも、彼がいやがらせでそれをしているから否定的になってるわけでもないのです。
しかし、余計なことをされたことに、「怒りの感情」の芽が萌え出たことだけは確かです。
平たくいえば
「いらんことするなアホ!いまお父さんがゲームしてるんやから触るな!」
という怒りの感情なのです(笑)
そして、その瞬間。解脱者武庫川散歩ですから、
「はて?別に何の価値もおいていないゲームであり、別に真剣にとりくんでいるわけでもないのに、なぜこうした感情に襲われるのだろう。悟っちゃわないと!」
と思ったというわけです。
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読者のみなさんの中には、
「そりゃあんたが、解脱者とか名乗っているけど本当には解脱していないから怒るんでしょ」
と論破なさる方がいるかもしれません。そうなんです。ワタクシ、真性解脱じゃなくて仮性解脱だったんですね。
まあ、そんな下ネタはさておいて。真性だろうが仮性だろうが清潔にしていればよろしい。
わたしも、仮に仮性だったとしても心は清浄です(^^
一皮むけたいい男をめざして頑張ります。
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当ブログのファンの方からみれば、そもそも武庫川散歩が「本当の解脱者かニセモノの解脱者か」を議論するブログじゃないことは百も承知の上でしょうので、ここはその問題はすっとばして次へいきましょう。
ここから、まじめに進めます。
怒りという感情は、上の事例の場合「ゲームに集中しているところへ、他者から、故意ではないにしろ介入を受けた」ということが原因になっています。
これ重要!
いいですか?怒りというのは、自分とそれ以外の存在がいて、「自分という存在に対して、他者が攻撃や介入、あるいはなんらかの反対の提示をする」ことによって起きるのです。
① 攻撃される。 ・・・これはわかりやすいですね。どつかれたら「何すんねん!」と思いますよね。怒り発生です。
② 介入される。 ・・・話してるところに割って入られたり、車で横入りされても怒りはおきます。
③ 反対の提示。 ・・・憲法9条守ろうな人が、「憲法改正しようぜ」ポスターを見るだけで怒りです。
もっとつっこんで言えば、「他者が自我に対して、自我と逆の提示をすること」が、怒りの源泉なのです。
ゲームの場合は、たとえどうでもいいゲームでも、ゲームをしている主体である自我に対して、他者が、「自分の進めようとしているゲームに対して介入的な」提示をしたので怒りが生じたのです。
もっと平たく言いましょう。
「主体が、客体から主体の意図と反対の提示を受けただけで、怒りは生まれる」
のです。
世間では「はだいろ」のクレヨンやら色鉛筆が無くなったそうですね。「はだの色は人種によって差がある」というクレームがあるから、ペールオレンジに名前が変えられました。
はだいろは誰も攻撃しないし、はだいろはあんたの肌の色に介入しないけど、怒る人がいるのです。
つまり、「人は自分の考えと違うものごとを見ただけで怒る」とも言えるわけです。ああ、しょーもない!人はしょーもなさすぎる!
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さて、では真の解脱者はどうすれば、こんなに単純な「怒り」を超越できるのでしょうか?
実はこの問題に、さらなるステージの「超解脱」のためのヒントが隠れていました。
そうです。「この世界は無常でどうでもいい」と思っていても、怒りは覚えてしまう。なぜか。
それは、あなたやわたしに「自我」があるからです。ワタシという主体があるから、主体と反対のものごとを提示されるだけで怒ってしまうのです。
では、真の解脱を得るためには、「主体」を超えればいいということなのではないか!と誰でも気付きますね。
そう!その通り。簡単に実行するには「自分。ワタシ。自我」という主体を、飛び越えればいいのです。
こんな書き方をすると、なんだか難しそうですが、やり方はとっても簡単。
自我や主体、自分について意識するときに、同時に客体で他者、天上からの視点を同時に持てばいいのです。
たとえば、ゲームをしているのであれば、画面に注力するだけだと完全な「主体自我自分」ですが、その瞬間に、それをしている自分を客観視できる視点を持つことができれば、主体自我自分に溺れることはありません。
ゲームをしていると同時に、小さな画面に拘泥しているしょーもない小さな男がそこでうつむき加減に必死で指を動かしている姿を自身の中に見出す、これが怒りを生むでしょうか。
この客観視ができた時点で、「怒る」必要はありません。そもそも、怒りの源泉であった「主体」が「客体」と一体化しているから、怒りは生まれないのです。
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「主体と客体の合一」は仏教でも説かれる概念ですが、一般的な仏教解釈では
「わたしとあなたの境目がなく溶け合った状態。世界はひとつ」
みたいな解釈が添付されることがあります。そっちが好きな人は、エヴェンゲリオン映画版でも見て楽しんでください。
また、哲学者の西田幾太郎も「主体と客体の合一」を説いていますが、そちらでは、
「たとえば愛のように、わたしがあなたと合一する、対象と合一する」
などの意味合いで使っています。こちらだと、自分の愛する人が傷つくと自分も悲しいように、主体と客体が独立しているのに、痛みを感じるなどを挙げています。
しかし、武庫川散歩はこれらの説とはあんまり関係ないですね。
武庫川散歩のいう「主客合一」とは、自分という主体自我、わたしの視点観念イメージと同時に、それを横から見たり、神様みたいに上からみたり、あるいは対象の目線でみたりできることを指します。
自分という枠にこだわらない。
自分というものに固執しない。
自分を飛び出た視点で見る。
それが、武庫川散歩の超解脱です。ハンドパワーです。
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