2016年2月25日木曜日

精神科医が心を病んだら、どうしたらいいのか ~鬱屈精神科医、占いにすがる~

 また、すっごい本が世の中にはあるんだな、と解脱者の私でもびっくりしたこんな本が出てるらしいです。





『鬱屈精神化医、占いにすがる』 春日武彦 (太田出版)


BookBangさんの記事
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160222-00010003-bookbang-soci&pos=4


書評(読書メーター)
http://bookmeter.com/b/4778314956





 えーっと、カンタンに言えば、精神科医が心の病にかかったらどうするのか、というある種究極の問題に直面した精神科医が、その救済を求めて


「占い師のもとをさまよい歩く」


という話だそうです。



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 解脱者のワタクシから申すことがあるとすれば、



その1  精神科医だろうがなんだろうが、心の病にかかることはあるだろう


ということは認めることができます。精神科医の場合は、その場合に自分がどうなっているかを判断するものさしが、他者よりも正確でたくさんある、というくらいで病気にかからないわけではない、ということです。



 これは、たとえば、解脱者の足を踏んづけたら、痛くないか?という問題と同じで、


イタイにきまっとるやろ!!!!!


と言わざるを得ないのとおんなじです。


 解脱者は、無味無臭でなんにも感じないゾンビになるわけではありません。この世界の成り立ちと自己のありようについて、ナチュラルでフラットな見解を持ち、その意識を抱いていますが、


「痛点を失ったわけではない」


のですから痛いです。ただ、


「てめえ!なにすんだこのやろう!ぶっ殺すぞ!」


とは、相手に対して思わないだけです。寛平ちゃんみたいに


いたいーの!


とは思いますが。



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その2  心の病を解決する方策は、認知の気付きである。


 精神科医のおっさんは、結局占い師たちとの対話を通じて、自己分析を進めるわけですが、最終的には、「自分のわだかまりの根幹はおかん(母)にある」ということに気付きます。


 ああ、そうかそういうことに自分はこだわっていたのか!


という発見が、心の病をずいぶん軽くすることができるわけですが、こういう発見や認知は、病における一種の


「悟り」


と同じだと言えるでしょう。



 さて、ここで精神科医のおっさんがやっている作業は、実は占いというツールをかませてはいるものの、カンタンに言えば、わたしが以前のブログで説明した、

http://satori-awake.blogspot.jp/2016/02/blog-post.html


遺伝的要素や構成要素を拾い出す作業と同じです。


 占いのプロセスに乗っかっているので、それは人生相談や悩み相談の体をとってはいますが、やっていることは自分ひとりでもできるプロセスなのです。(ただし、助けがあると気付きは早かったりしますよね)




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その3  占いは象徴的なツールにすぎず、解決の糸口は発見する自分の力にある。



 占いというのは、霊的な力であなたしかしらない事実を当てることのように思われがちですが、実はそうではありません。


 多くの占い師がやっているのは、その占いの理論(易学なのか星占いなのかタロットなのかというジャンル)に基づいて、偶然と必然が入り混じったデータの中から、「何がしかの関連づけられた答えを示す」という作業にすぎません。


 たとえば、姓名判断だと、画数によって「好運か不運か」は決まり、それが相手の持つ偶然の名前と組み合わさって答えが導かれるわけであり、易学やカードでは、偶然によって導きだされたカードや算木に紐付けられた答えを提示する、という作業を行っているだけです。


 よって、それがあなたにとって当たっていたり外れていたり、人生の指針となるかどうかは、


「あなたの認知と有機的に結び付けられるかどうか」


にかかっているわけです。


 たとえば、ある占いによって「商売の運が良い」状態にあったとしても、あなたが商売なんて全然思いもよらず思い付きもせず、人生においてまったく意識もしていなければ、その占いの結果はあってもなくても同じです。


 その時、あなたが商売について「意識していたり、迷っていたり、それについて認識し認知している状態であってはじめて占いの結果は発動する」のです。



 つまり、占いに頼らなくとも、解決の根本的な意識やヒントはあなた自身も持っていて、それが占いの結果によって浮かび上がってくるのであれば、それは、

「本をパラパラめくっているうちに、ヒントになる言葉に出会う」


とか


「風呂に入っていて、糸口を思いつく」


とか、そういう「ユーレカ!」な気付きにも似ているということなのです。


(ということは、これもまた解脱の一種ですね)



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 ということは、精神科医のおっさんにとって必要だったのは、「占い」ではなかったということです。


 むしろ、それは占いに象徴されるような、


「自己分析をシステマチックに行うための一連の動作や手順、そしてできればちょっとしたそのサポート」

だったということになるわけです。


 もちろん、本人は心の病なので、自分ひとりでその作業をやっても解決できず、ただ悶々とすることにはなるでしょう。



 なので、占い師という作業のサポーターが介在することには大変意味があります。



 これは、「薬物中毒患者が立ち直るためにサポートするのが、医者がいいのかダルクの仲間が合うのか、いっぺん警察のお世話にならないとガツンとこないのか」という問題と似ています。


 しかし、1人きりでは、やっぱり薬物におぼれて、迷いを断ち切ることは難しいのです。




 仏教における修行というのは、解脱や悟り、気付きに至る方法論を、基本1人でやろうとするシステマチックなものなので、精神科医のおっさんにはぜひ占い師ではなく、


ストイックに仏道修行


なんぞをやってほしかったのですが、まあこのあたりはお好みです。



 しかし、本来はそうした迷いや悩みを解決する手法を精神科医は持っていると思いがちですが、そうではないのですね(苦笑)









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