世をしのぶ仮の姿
というのがあって、普段は平凡なサラリーマンをしています。たぶん。
まあ、デーモン小暮閣下みたいなものです。デーモン閣下が悪魔なのに相撲好きとか、あんまり論理的に考えるとわけわからんことが多々あると思いますが、そこはほれ、
ふわっと
感じてください。
で、解脱者ムコガワは、普段はビジネスマンなものですから(たぶん)、日経ビジネスとか現代ビジネスとか、プレジデントとかダイヤモンドとか、そういう俗世の経済情報も
方便としてwww
一応読んでます。
で、面白い記事があったので、ぜひ衆生のみなさんにも紹介したいと思います。
堕ちた“番長”にも読ませたい「本物の富裕層はマシュマロを2個食べる」
これは行政書士の金森さんという方の記事なんですが、基本的には
「富裕層になるにはどうしたらいいか」
という煩悩丸出しのスケスケな記事なんですが、よく読んでゆくと、不思議なことに出くわします。
煩悩丸出しで、富裕層になりたい!お金持ちになりたい!と思っても、それを実現するためには、
「自制し、抑制し、煩悩と戦わねばならない」
というのです。具体的には、種銭を貯めるために欲望に負けてはならず、そして、お金を手に入れても使おうともしない者が真の富裕層になるというのです。
これって、まるで修行僧みたいじゃないですか??
真の経済的自由や真の幸せを得るためには、自制し欲望を抑えることである。
逆説的ですが、実は仏教の根幹にも通じるところがあります。
記事の中で、ワタクシ武庫川が名言だと思ったことばが出てきます。それは、
「快楽と幸福は違う」
ということばです。
ああ!あえて解脱者なりの言いかえをするなら
「快楽と幸福は相反するものだ」
とか
「快楽を手に入れれば、幸福を失う」
「幸福は、快楽を捨てることで手に入れられる」
とかそんなのもカッコいいですね。
解脱者武庫川は、快楽と幸福はアンビバレントなものだと思います。
記事にある清原氏ではないですが、仏教でいうような「何者にも捉われない解脱状態でずっといるためには、薬物中毒でもいいじゃん」という説もあるわけで、イッっちゃった状態でそのまま死ねば、それはある意味
即身成仏
で本人は、涅槃の境地のまま逝ってしまわれるわけですから、仏教的にはそれでもいいことになってしまいます。
そこの部分を、武庫川散歩の解脱論、いわゆる存在宗的には、
やっぱり人は、幸福にならねばならない
と考えるので、解脱して単にあちゃらへ逝ってしまうのはよろしくないと思うのです。
=========
快楽を追求すると、幸福ではなくなります。
それを示す事例は、山ほどあります。薬物中毒は幸福ではないし、芸能人も快楽は多々あるでしょうが幸福な結婚生活を営めるものはごくわずかです。
逆に快楽を捨て去ると、仏教的には幸福になります。
記事を書いた行政書士さんもそうですが、使わずに貯めれば、富裕層にはなれるでしょう。
しかし、人はかならず死にますから、山ほどお金を溜め込んで死ぬのも、
なんだかなー
(阿藤さん風に、ご冥福をいのります)
ということになるわけで。
========
世をしのぶ仮の姿のビジネスマン である、武庫川散歩が経済理論に基づいて語るならば、
これらをうまく落しどころに落とすには結局、
「人がより良く生きるとは、幸福と快楽の損益分岐点を探ることだ」
と言えるでしょう。
快楽におぼれて幸福を見失うのは、仏陀が最も戒めたことです。
しかし、ブッダのように、快楽をゼロにしたところに幸福があるとは、武庫川には思えないのです。
「ちょっと、喜んだり、ちょっと悲しんだり、たまにはすねてみたり、泣いてみたり、ドキドキはらはら、いろんな感情や欲望も感じながら、それを享受するのが人生のありようだ」
とするのが、ワタクシの理想の生き方ですから、幸福を失わないくらいの「快楽のつまみ食い」はあっても良いと考えます。
むしろ、「心地よさ」で留め置き、幸福が失われないようにコントロールできることが、解脱による神通力そのものなのではないでしょうか。
寸止め。
やっぱり人は、幸福にならねばならない
と考えるので、解脱して単にあちゃらへ逝ってしまうのはよろしくないと思うのです。
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快楽を追求すると、幸福ではなくなります。
それを示す事例は、山ほどあります。薬物中毒は幸福ではないし、芸能人も快楽は多々あるでしょうが幸福な結婚生活を営めるものはごくわずかです。
逆に快楽を捨て去ると、仏教的には幸福になります。
記事を書いた行政書士さんもそうですが、使わずに貯めれば、富裕層にはなれるでしょう。
しかし、人はかならず死にますから、山ほどお金を溜め込んで死ぬのも、
なんだかなー
(阿藤さん風に、ご冥福をいのります)
ということになるわけで。
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世をしのぶ仮の姿のビジネスマン である、武庫川散歩が経済理論に基づいて語るならば、
これらをうまく落しどころに落とすには結局、
「人がより良く生きるとは、幸福と快楽の損益分岐点を探ることだ」
と言えるでしょう。
快楽におぼれて幸福を見失うのは、仏陀が最も戒めたことです。
しかし、ブッダのように、快楽をゼロにしたところに幸福があるとは、武庫川には思えないのです。
「ちょっと、喜んだり、ちょっと悲しんだり、たまにはすねてみたり、泣いてみたり、ドキドキはらはら、いろんな感情や欲望も感じながら、それを享受するのが人生のありようだ」
とするのが、ワタクシの理想の生き方ですから、幸福を失わないくらいの「快楽のつまみ食い」はあっても良いと考えます。
むしろ、「心地よさ」で留め置き、幸福が失われないようにコントロールできることが、解脱による神通力そのものなのではないでしょうか。
寸止め。
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