あなたの心の恋人、武庫川散歩です。ちなみに、既婚者のみなさんは、心の恋人にとどめておいたほうがいいです
もし本当に恋人になってしまったら、ベッキーやファンキーみたいになってしまいますからね!!!
しかし、ファンキー加藤氏は、巷ではあまりの潔さに炎上を免れたようですが、もういっそ、濡れ事をテーマに、
パンティーリスキーできちゃったベイビー
に改名したほうがいいと思うのですが、いかがでしょうか?
はい!そんなこんなで今日も元気に解脱、してますか?解脱者の割には、俗っぽいネタが多いことで有名なこのブログですが、今日はすごい内容でお届けしましょう。
どれぐらい凄いかというと、武庫川があのニーチェを超えた瞬間にあなたも立ち会える!というお話なのですから、これはドキドキワクワクが止まりません。
ああ、あの二人組みのぽっちゃりお笑い女子? ・・・それはニッチェ!!!
ニーチェですよニーチェ。かの名言「神は死んだ」と言った哲学者のニーチェです。
西洋文明が発達し、ギリシア以来の神、あるいはキリスト教とローマによって発展した西洋的な思想そのものが変容したことを、
「神は死んだ」
と言い表したのがニーチェでしたが、現在の資本主義・西洋民主主義においても、無神論的視点はいっそう大きくなっているところです。
まあ、そのアンチテーゼとしての「神に帰れ」運動が、テロリズムに依りつつあるイスラム原理主義なわけですが、それはまた別のお話として。
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さあ、では稀代の哲学者にして、自称他称を問わない解脱者の武庫川が、どんなことを考えているのか!その解説に参りましょう。
武庫川が読んでいたのは、プログラミング言語Rubyの発明者である、まつもとさんの講演録です。
「マイクロソフトを嫌っていたのではない、われわれが嫌われていたのだ」――Rubyまつもとゆきひろ氏が語る、MSの壁
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1606/08/news138.htmlこのお話、簡単に言えばパソコンとかコンピュータの話なのですが、そこから「神のありよう」について考えてしまうのが武庫川のキレッキレに凄いところです。
もうたぶん、自分でもキ○ガイなんじゃないかと思うくらい、今日の武庫川は、キテますよ。
まつもとさんのお話は、こんな感じです。
”
コンピュータの世界というのは、いろいろなプログラマーがソフトウエアを開発して、みんなが便利になることを目指しています。
なので、コンピュータの研究をしている大学や学生さん、あるいは在野のプログラマには、「Free」な文化が根付いています。
フリーというのは、無料と訳される場合もありますが、単純にお金がかからないのではなく、それまでにあったプログラムの設計図を自由に後のものが利用できたり、改良できたり、みんなでプログラムを良くして行こうという、ちょっとボランティア精神にも似た考え方を言います。
なので、特に大学を中心として発展したUNIXというコンピュータの文化は、設計図も公開し、利用も改変もタダで自由にできるという文化が根付いていました。
ところが、マイクロソフト社が売り出したwindowsなどのソフトは、「莫大な労力がかかっているのだから、それなりの報酬を得るべきだ」という思想のもと、有料でかつ著作権によって保護された商品として出回ることになりました。
しかし、それでは、あるプログラムをもっと良くしようと思っても、マイクロソフトに就職して内部の設計を見せてもらったり、あるいは仮に改良できても自由に公開することはできなくなるという問題が起きることになります。
そのため、世間ではwindowsなどの商用ソフトを使う文化と、フリーなUNIX系ソフトを使う文化に二分されてしまっていたのです。
ところが、今windows10は無料でアップグレードできたり、UNIXのソフトであるbashがwindowsで動くようになったりと、両者には歩み寄りが起きているのです。
”
・・・完全に最初から最後までコンピュータの話ですね!
それがどうしてニーチェや哲学や神の話になるのか?と思われるかもしれません。
ですが、武庫川は常々、この世界はプログラムである、仮想論理と同等である!と言っているとおり、これは完全に
神様についての話
に置き換えることができるのです!
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ビルゲイツにとっての善は、「ソフトウエアは、ルールと会社の掟に則り、商材として扱われるべきで、その報酬をプログラマは受け取るべきである、それが正義で善だ」、ということになります。
しかし、フリーなプログラマにとっての善は、「ソフトウエアは公開され、自由に取り扱われるべきだ、それが正義で善だ」ということになります。
まったく真逆な内容が、善であり正義であるとされ、それらが並立するのがこの世界の特徴です。
Aという国とBという国にとっての正義が真逆であるとか
Xという宗教とYという宗教にとっての正義が真逆であるとか
そういうことは日常茶飯事だからです。
これは、それぞれの主張が閉じていて、一方の目線で語られることに原因があります。
砂漠の宗教の神にとっては、「自分を信仰するものだけが善であり、神だけが正義」です。そして、それ以外の者は、「滅ぼされるべきである」と考えています。
そして、そのおなじ砂漠の宗教の神は、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教それぞれにおいて、
「これが善で正義だ!」という主張を閉じた内容で語っている
わけです。
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まつもとさんの話では、ビルゲイツとマイクロソフト社の存在に対して、コンピュータを用いるものが行える対応策はいくつかある、ということが挙げられていました。
① windowsに従う
② windowsを無視する。
③ 多大な労力をかけて、すりあわせをしてゆく。
神との向き合い方も、これに似ています。
① 砂漠の神(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)に従う
② 砂漠の神(とその系統の宗教)を無視する。
③ 多大な労力をかけて、相手の宗教について理解し、すりあわせをしてゆく。
ほら、まったく同じでしょ?
アメリカ大統領選挙を支配するという保守層は、その大半がキリスト教系保守です。そういう意味では、アメリカの農村を動かしているのは、windows に従うものたちということになります。
そして、一方でニューヨーカーや日本人といった無神論者たちは、windows を無視して生きています。
そして、イスラムを理解しようとしたり、ハラールにあわせた料理を提供するなどのすりあわせをしている人たちも多くいます。
この状況を見て、武庫川はハッと悟るのです。
砂漠の神が正しくて、日本の八百万の神が間違っているという議論ではありません。
西洋の資本主義が善で、共産主義的な公平論が悪だという議論でもないのです。
そうか!
神は死んだのではない。
神は自由に宿るのだ!!!
と。
Gods is Free!
神は自由なり。
神を人格神ではなく、正義そのものだと捉えてみてください。すると本質が見えてきます。
「これが正しいのだ、こうすべきだ」
という閉じた主張をすることが善ではない。それは正義ではありません。
なぜなら、反対の立場のものにとっては、それは悪になるからです。
正義とは、閉じた主張ではなく、オープンソースで開かれたものであり、自由に誰もが扱えるものである、ということなのではないか?
武庫川はそう考えます。
つまり、正義や善の正体が見えた!のです。
「正義とは、より良くあろうとする人類の英知と努力の状態である」
これが、武庫川が定義する、正義と善の姿です。
ですから、「良いと思われる方向に努力はしていますが、完結もせず、結論も出ず、そして面白いことに、それが本当に良いかどうかも判定できないもの」でもあるのです。
だから
「正義には誤りが含まれる」
ということも、言い換えることができます。
ちょうど、正しい動きをするように考えているのに、どうしてもプログラムにはバグが含まれるように、誤りが含まれることもあります。
また、これで完全完璧なプログラムが出来た!ということがあり得ないように、「より良い方向を目指して人類は生きているけれど、完全なる正義や善が存在し得ない」ことも同じなのです。
神は、そして正義の真の姿は、開かれた自由である。
これが、ニーチェに対する、超時空哲学者、武庫川散歩の答えです。
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