2017年4月27日木曜日

愛とは何か ~そこに愛はあるのかい~




 今回の記事は、前回の記事とセットになっています。





<前回の記事>
 
セックスとは何か。 ~性について真面目に考える~ 今日はお笑いなし。
http://satori-awake.blogspot.jp/2017/04/blog-post_29.html






 性と愛というものは、密接に関連して語られることが多いので、この際きちんと考えておこうということです。



 さて、前回は、性というものが、「自己複製権の自己意志・自己決定よる権利の行使」であると定義しました。


 実際のセクシャルな行動は、男性であれ女性であれ、「わたしの意志で、そうしたいんだ」ということがとても鍵になってくる点を説いたわけです。



 男女の違いで言えば、男には子宮がありませんから、実は「自己複製機能を持っていない」という大変な事実があります。


 なので、男性としては、 



「自己複製をするためには、かならず相手が必要で、かつそもそも力の行使には暴力性を伴うので、

 相手の許諾を得るか、もしくは許諾を得ずに執行する以外にない」



ということになる、わけです。 善悪や可否は別にして、そういう事態が起きているのです。





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 さて、性というものがそうであるとして、今度はについて考えてみましょう。


 ドラマ「ひとつ屋根の下」の名セリフではありませんが、仮にセックスが生じているとして



「そこに愛はあるのかい?」



という問いかけは、さらに根源的なものとなるでしょう。





 愛とは何か。


 ギリシア人は、エロス(男女の愛)・アガペー(神の愛)・フィリア(隣人愛)・ストルゲー(家族愛)など、いくつかの愛を定義しました。



 広辞苑などでは以下のような字義を挙げています。



    親兄弟のいつくしみあう心。ひろく、人間や生物への思いやり。

    男女間の愛情。恋愛。
 

    大切にすること。かわいがること。めでること。
 

    〔キリスト教〕 神が、全ての人間をあまねく限りなく いつくしんでいること。アガペー。
 

    〔仏教〕 渇愛、愛着(あいじゃく)、愛欲。

    相手が幸せでいてくれればいいという気持ち。




これらをまとめると、主体と客体が、かならずしも「人同士」ではないとしても、



AがBを大切に思い、いつくしむ気持ち




ということができるでしょう。




 ここで、勘のするどい人は、興味深いことに気付くと思います。



「愛し合う」


なんてことばがあるように、「合わなければ」両者の合意が形成できないことからもわかるのですが、この愛というものは



 AからBへの、一方的な気持ち・感情・心情・態度



であるということも、また事実なのです。



 一方的であるということは、ここにも暴力性が潜んでいます。無理強いがあるということです。




 だから、心から相手を想っている、愛している(悪意がなく善意)なのだとしても


「愛の押し売り」



「愛の押し付け」


が起きてしまうことはあり得ます。





 親が子を想っているのに、子からすればその愛情が重いと感じたり、

 恋人が愛してくれているのはわかるのだけれど、受け止めるほうの感覚が違っていたり、

 あるいは

 アイドルがファンから一方的な愛情愛着の念を受けたり


 するわけです。




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 愛がこじれてストーカーになったりする理屈は、これできちんと説明がつくわけですが、


「性にも暴力性が潜み、愛にも暴力性(一方性・無理強い)が潜む」


のだとしたら、人によっては



「そんなの怖くてやってられない!」



と感じる人もたくさんいることでしょう。


 そんなふうに恋愛に臆してしまう人が出てきてもおかしくないくらい、これには難しい部分があるのかもしれません。



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 では、愛が相手を傷つけないためにはどういったことが大切なのでしょう。


 性にも愛にも、無理強いがある。 どちらも、相手へ向かって進んでいくベクトルがあります。


 AさんとBさんが、お互いに相手に向かって進んでいけば、合意が形成されるでしょうが、



「AさんがBさんの領域に、近寄りすぎたり、侵入してしまえば、それは暴力になる」



ということが性と愛の一番難しいところです。なんせもともとが暴力性を持っているので。





 もう少し丁寧に説明しましょう。



 愛であっても、相手のパーソナルスペースを越境すれば、そこに暴力性が現れる



ということです。


 心理的、肉体的な「近接」や「接触」は、合意があれば互いに心地のよい幸せなものですが、合意なく行われるそれは、(大小は違えど)暴力なのでしょう。



 本当に理想的な恋愛は、パーソナルスペースの扉を互いに開けておくこと・あるいはパーソナルスペースを共有することなのでしょうが、




実際に彼氏彼女であったり、夫婦であったりしても、(あるいは親子でも)


 これをきちんとできる関係って、実は難しい



のが実情だと思います。




 ちなみに私は弟子を大事に思っているし、愛していますが、弟子はたまに私を怖がります。


(い、いじめたりしてないぞ!)



 それは、私が話すことで、弟子たちからすれば「パーソナルスペースの鍵が開いてしまう」ことがあるからでしょう。


 人の内面について、きちんと理解しようと努めると、どうしても内面に触れてしまうことが起きるからです。



 そうすると、結果として「パーソナルスペースを越境してきた暴力」と同じことが起きる。




 もちろん、私にはそんなつもりはないのですが、愛の持つ暴力性は、たまにそんな副作用すらもたらすので、


 フォース(力)の取り扱い方には、気をつけろ



ということです。


 弟子の人、安心してくださいね。そういう時は素直に謝ります。ごめんなさい。





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 愛において、パーソナルスペースを共有し、互いに寄せてゆくにはどうすればいいのでしょう。


 実はそれは普通の恋愛ともおんなじで、物理的に



「近くに寄って話す」「顔を見合わせて話す」

「手をつなぐ」「肩をよせあう」

「ハグする」「抱きしめる」

「セックスする」


という風に、だんだん互いに距離が短くなり、最終的には「侵入し、侵入される」ことを許すように、心においてもそうしてゆく以外にありません。



物理的に近接してゆくこと、そして、心理的にも精神的にも本当に近接し・開示してゆくこと



が、 両面で進んでゆくのがよいのだと思います。



 自分の愛情を一方的に進めるのもまずい、あくまでもお互いに時間がかかっても歩み寄ってゆき、扉を開いていければいいね、ということなのだと思います。





 ということは、ズバリ。




 白馬の王子様なんて現れない!



 王子様に変えてゆき、また、王子様となってゆくのは二人の愛次第だ





ということなのかも。すごいオチ!!!








 















 

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