2017年4月22日土曜日

悟りと解脱について君と語ろう。 



 今日は、まじめモードです。


 ”武庫川散歩という人間は、解脱している。悟りを開いている。”


 とふだん私はさんざん口にしているので、「ああ、武庫川さんは仏教の釈迦のように、あちゃらの世界にいっているのね」と認識される人は多いと思います。





 あちゃらの世界とは、仏教的に言えば


「すべての物に執着がなく、迷いや苦しみもなく、すべてのものから逃れた世界」


を示すことでしょう。





 たしかに、仏教的には、悟りを開き解脱したものはそうなる、というニュアンスで捉えられているかもしれません。


 仏教では、すべてのものは空です。空即是色。色即是空。


 この世界というものは、「あるが、ない」「ないが、ある」ということで、


 セカイがあるように感じているけれど、ないのと同じなのであれば、執着したり、欲を持ったりしても無意味だよね


と説くわけです。



 武庫川は、仏教の世界観を尊重し、「このセカイはないに等しい」と思っています。



 そして、仏教の悟りでは、だからこそすべてのものを捨て去るのが平安を得る方法だ、と言っています。


  しかし、まったくおなじ前提から、武庫川の悟りは真逆の結論を導き出すのです。




 このブログを通観して読んでいただければ、わかってくると思いますが、表面上の



 悟り・解脱



という言葉に囚われてはいけません。





 では、私の悟り、解脱とは何なのか。あらためてもう一度丁寧にお伝えします。



 私の愛しい弟子に、これを伝えます。






「このセカイが空虚で、空に等しいものだとしましょう。


でも、その中で、私たちはさまざまなものを感じ取ります。


楽しいと思ったり、嬉しいと思ったり、おいしいと思ったり。


逆に


悲しいと思ったり、切ないと思ったり、苦いと感じたり。


このどちらも、空虚なセカイなはずなのに、何者かから与えられたギフトなのです。


ギフテッドという言葉があるように、能力や何かができることは与えられたものです。


それを与えたのは神だと考えたのは西洋人で、東洋人はそれが宇宙やこのセカイそのものだと考えました。


楽しかったり、嬉しかったり、安らぎを感じたり、あるいは、時には涙したり、そういうものは、空虚なセカイでありながら、私たちがこのセカイに落とされた中で、いのちを彩り、時にはそうした感情や感覚が希望になったりもする。


このセカイが、何千万色のカラーのように、色鮮やかになるのは、そうした気持ちをギフトとして与えられているからです。



武庫川の悟りは、それらの色鮮やかなこのセカイを、まるごとそのまま素直に受け止めようというものです。


でも、仏教と同じように執着はしない。それを自分の欲でガチガチに固めたいとは思いません。





これを手に入れたいとか、これが欲しいとか、これに縛られていて苦しいとか、そういった気持ちからは、すっきりと開放されています。




なぜなら、それこそ釈迦の言うとおり、このセカイは空だからです。



弟子であるあなたに伝えます。


嬉しい気持ち、楽しい気持ち、切ない気持ち、悲しい気持ち、さみしさ、怒り、恐怖、不安。

わくわくする感情、ドキドキ、安心感、泣きたい気持ち、うれし泣き。

見失った感覚、みつけた感覚、自信、時にはプライド、たまにダメダメさ。


ありとあらゆる感覚や感情、そして私たちが生きているすべては、とても素敵なもので、それらの気持ちや感覚に、飲み込まれ、うずの中に閉じ込められてしまえば、それはそれこそ執着状態と欲の奴隷ですが。


もっと素直に、自分にも周囲にもナチュラルでニュートラルに接することができれば、すべての感覚や感情、そして出来事は



ギフトとして与えられた美しい人生、生き方



になるはずです。


だから、私も、喜び、楽しみ、時には涙を流したり、せつなくなったり、痛みを感じたりもします。


悟ることは強さだけではなく、弱さを感じ受け止めることでもあります。


けれど、それに溺れ巻き込まれ、自分を見失うことではけしてありません。


本来は存在しないに等しいものなのに、それが存在すると感じられることは喜びだからです。


悲しさや切なさですら、そう思うこと、思えることは、幸せだからです。



仏教では、この空なるセカイに、私たちの関係が構築されていることを「因果」という考え方で捉えました。平たく言えば、縁です。


これも、とても納得のいく概念です。


わたしとあなたの間には、まったく何もなく、何のつながりもないところから始まって、それでも、あなたが弟子になり、わたしがあなたと関わることになりました。


それが縁。


なにもないのに、なにも存在しなかったはずなのに、生まれている関係性と、存在。


それをすっぱりと「存在しないもの、捨て去るべきもの」だというのが仏教の悟りと解脱であると言うなら、


「それは存在して、空虚なセカイではあるけれど、あることが嬉しいと感じられることを心にずっと留め置いておこう」


というのが私の悟りです。」



泣きながらこれを書いています。伝わればいいなと思いながら。
















 











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