2017年4月10日月曜日

イエスキリストとは何だったのか、がわかった件



 武庫川の一家が昔入信していたエホバの証人のことを、ネット界隈ではJWと略します。


 で、ここ最近、ツイッターなどで元信者の方などと絡んでいます。


 絡んでいる、って変な表現ですね(^^;;


 一応ツイッターにそれらの方たちがいろいろ思いを書いている場があるのは知っていたのですが、自分からは絡まず、たまーにROMする程度でした。






 それが、ここんとこちょっと積極的に私も発言したり、引用しているのは、



 ・・・・・・べ、べつに寂しいからじゃないやい!!!


 (↑実はさみしい)


・・・・・・もとい。ちょっと思うところあって、「親子」の課題や、バックグラウンドとしての宗教の問題に、何かいいヒントが掴めないかな~、と考えているからです。







 そんな中で、基本的なことや大事なこと、いろいろ見えてくるものもあります。


 たとえば、やっぱり親子や友人や関わりあう人たちの中で、



「本音を隠してグジグジ悶える」とか「グレる」とか「こじらせる」


のではなく、やっぱり


「気持ちの根っこの部分をきちんと口に出す、話す」


ことは(難しかったり苦しいけれど)、やっといたほうがいいなということです。素直さ大事です。





 もちろん、中には「でも、こんなこと言っても仕方ないし、どのみち解決しない」みたいなことや、「こんなことを言ったり思ったりしても、わがままなだけだ」というような無理難題もあるでしょう。




 それでも、そのことにちゃんと向き合って、やってみる言ってみるぶつけてみることで、必ず違う展開が待っているのだと思います。


 聖書的にいえば、ベタですが「求めよ、さらば与えられん」ですな。





  
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 さて、話は変わります。


 Ovisaries7H7Eさんのツイート
 https://twitter.com/Ovisaries7H7E/status/850904690598400001


 に興味深いことが載っていて、「キリスト教に平安があって、JWには平安がない」という一文は、言いえて妙なもので。


 これと同じことを、


 沈黙~サイレンス~を考える
 http://satori-awake.blogspot.jp/2017/02/blog-post.html


 の回の時にも思ったのですが、エホバの証人って


「キリスト教原理主義の割には、キリスト教じゃないんだな」


ということに帰着するのかもしれません。




 現役・元JWの人にはこのニュアンスがわかりづらいかもしれませんが、エホバの証人であることよりも、ぶっちゃけカトリックやプロテスタントのほうが救われ率が高い、救われ感が強いなんてことを言ったら、理解できるでしょうか?



「いや、私たちのほうが真理に近いんだから、私たちのほうが救われる率が高いはずだ。より救われているべきだ」




と思ってしまうのが、究極の勘違いだったりするのかも。





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 さて、上記のように、キリスト教信仰について考えたり、現役JW・元JWのみなさんの言葉を読んだりしているうちに、



ああ、なんだそんなことか




と、ついに「イエスキリストがいったい何をしたかったのか」「イエスとは何だったのか」




降臨




してきました。わたくしの脳みそに。


 え?解脱だけじゃなく、キリストっちゃう?救世主もいっとく?


な感じ(笑)




 冗談はさておき。




 イエスキリストという人物は、なかなか凄いです。これは、けっこうアブラハムの宗教の歴史の中ではコペルニクス的転換で、


「なるほど、イエスという男は、そう解釈したのか!」


という点において、さすがに素晴らしい。



 詳しく書くとややこしいのですが、ポイントだけ絞ります。



 ①

 まず、戒律宗教のユダヤ教(砂漠の宗教・アブラハムの宗教)があります。


 これは「規則を守ることで救われる」という契約の宗教と救いです。





 わかりやすくするために、後から出てきたイスラム教をここで語ります。イスラム教も戒律の宗教です。ユダヤ教と同じで、

 「規則を守ることで救われる」というものなのです。





 つまり、アブラハムの砂漠の宗教は、基本的に「神の言うこと(戒律)」を守ることによって救われる宗教なのですが、イエスだけが突然、全然違うことを言い出したのです。


「いや、神は戒律ではなく、愛によって救うのだ」


と。



 イエスはパリサイ人を非難しましたが、つまりはそういうことです。戒律なんか二の次だ!と。そんなのどうでもいいんだ!と。




 この愛の概念は、実は旧約聖書にはあんまり出てきません。というか旧約聖書の神の性格は真逆です。滅ぼすことばかり考えている。


エホバは、愛してなんてくれない。(どっかーん)






 そうすると、イエスという男が一体何をしたのかが明確になってきます。



 端的に言えば、彼は


「愛を発明した」


のです!!!




 聖書以前にも、以後のコーランにも、「愛」は登場しません。しらんけど。




 愛について語っているのは、イエスだけで、彼だけが長い中東の歴史の中で、「愛による許し」を説いている異端児です。



 イエスが間違っていたのは、その「愛」の主を当時の人間にとっては重大な関心事であり、かつ生きるベースであった「神(エホバ)」と仮定して設定したことにあります。



 間違っていたのか、わざとそう言ったのかは聖書には書いてありませんが、とにかく結果として、


「愛をくれる主体は、神だよ」


と彼は説きました。それがフェイクだったとしても、その教えは、現代まで続きます。


 

 しかし、イエスが本当に言いたかったことは、実はこういうことだったのではないか?と解脱者かつイエスが乗り移った男(誰?www)には、ひしひしと伝わります。



 「愛の主体は、・・・・・・大きな声では言えないが僕だ」


と。


「弱き者、間違った者、罪を犯した者、グレた者、いじけた者、泣き虫で意気地無しな者、ちゃんとルールを守れない者、失敗した者、ダメ人間・・・。 そういう人たちは、神様の基準では、アウトかもしれない。神殿も聖職者も、あるいはこの世界の分別ある大人と呼ばれる人たちが、あなたを非難するかもしれない。


 それでも、僕は、あなたが好きだ。


 それでも、僕はあなたを愛している。


 それは、あなたが、この世にたった一人しかいない、大切な存在だからです」



 そう、イエスは言っているだけなのです。



 それを、砂漠の神の概念を使って説明しようとしたから、今の混乱が起きているのではないでしょうか?


「本来、神によって愛されるべき被造物だったヒトが、罪によって罰せられている。しかし、イエスによってその贖罪がなされている」


なんて複雑な構造ではなく、ものすごくシンプルな構造が本来の姿なのではないでしょうか?



 そう、イエスが言いたかったのは、



「僕は、きみが、好きだ」



という、ただそれだけ。無条件に、人は人を好きになっていいんだ、ということ。





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 これが神格化され、イエスは救世主となってしまいました。あるいは、愛の概念があまりにも強烈すぎて、ましてや


 本来の神を乗り越えちゃった感


まであったので、イエスは神と同格になってしまいました。 しかし、これらは全部、



 後の人たちが勝手に解釈したこと



に過ぎません。イエスの思想は、もっともっとシンプルであったのでしょう。






 もし、いわゆるアブラハムの神が存在しなかったり、創造主はいても人に対して関わらないとすれば、私たちはどうすればいいのでしょうか?


 それでもイエスがやろうとしたことや、イエスが考えたことは、私たちもたった今からでもやれることだと思います。



 あなたの大切な人としっかりと向き合うこと。


 非難するのではなく、共に歩むこと。


 口を閉ざすのではなく、語り合うこと。


 無関心でなく、関わりあうこと。


 もらうだけでなく、与えること。



 ほかにもまだまだたくさん。

 

 これらは、神にならずとも、人が人のままでできるシンプルなことだと思います。


 それは、あなたが救われることとのバーター(交換条件)なんかではありません。



 だから、安心して。




 














 

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