2018年1月19日金曜日
「素晴らしい作品」と「素晴らしい人生」はリンクしないのかもしれない。 ~拝啓 小室哲哉さま~
引退、ということばがこれまでよりも明らかに重みを持って語られたのが、2017年末~の日本なのではないかと思います。
安室奈美恵さんが”勇退”したり、有安杏果さんが”普通の女の子”に戻ったり、小室哲哉さんが”引責辞任”したり。
いずれも、芸能人あるいはクリエーターとして、けして「それなりに」とは言わせないほどの大きな成果を残し、あるいは安室奈美恵さんと小室哲哉さんに至っては、
時代、あるいは文化そのもの
を作り上げたと言ってもよいほどの成果物を残した人たちであるとも言えるでしょう。
しかし、たとえば、年末年始を騒がせた横綱、日馬富士さんの引退劇もそうだし、今回の小室哲哉さんの引退もそうですが、
はて、彼の人生は、幸せだったのだろうか
という点については、いろいろな思いや疑問が沸いてくるというものです。
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芸能人や、あるいはスポーツ選手などではよく言われることですが、一時代を築いた人であっても、その人生が幸せだったのかは、端から見ていても首をかしげざるを得ないことは多々あります。
たとえば野球の清原氏の薬物中毒やら、小室哲哉さんの有罪判決やら、あるいは単に行状が良い悪いといったものではなく、病魔に襲われたつんくさんやら、
善悪、良し悪し、運不運などでは片付けられない悲喜こもごも
がそこには厳然として横たわっているのです。
となると、「素晴らしいものを生み出したこと」や、「素晴らしい作品」と、「素晴らしい人生を送れること」はまったく別物であるとわかってきます。
人は悲しいかな、「よき人生を手に入れたい」と思って、仕事でも作品作りでも成果を挙げることに努力したり、いのちを捧げることがあるわけですが、かならずしも、それが正しいルートではあるとは限らない、ということかもしれません。
スティーブ・ジョブズなんかも、やりたいことや生み出したいことと、禅や健康にこだわって過ごしたことと、結果としての若死には、皮肉とも言うべき相関でつながっていました。
いやいや、まったくそれらは無関係だったのかもしれません。
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医学的あるいは生物学的アプローチで言えば、それらが無関係な理由ははっきりしています。
それは、脳には領域固有性があるからです。
あることが得意でも、別のことが得意であるかどうかは、実は関係がない。それは脳で働く部位が、無関係に動くからだ、ということです。
そんな状態がよくわかる記事が、AERAさんに載っていたので紹介しましょう。
上智大卒、新人賞受賞作家なのにあらゆる場面で「戦力外通告」
https://dot.asahi.com/aera/2018011800017.html
素晴らしい学力や、あるいは素晴らしい才能を持っていたとしても、人生は幸せではないかもしれない。そんな人間の悲しさや苦しみが、身につまされる内容です。
だとすれば、もしあなたが何らかのスポーツをしていたり、何らかの創作をしていたり、何らかの活動をしているときに、
「それができる環境にいて、それが楽しい幸せだと思えるならば、それは確実に人生において最高に素晴らしい瞬間であることは間違いない」
と言えるでしょう。
それは、その活動で名声を得たとか、それで何かを受賞したとか、そうした結果がついてこないものだとしても、素晴らしい時間であるということです。
なぜなら、仮に勝利を手にし、栄光を手にしても、そこからの人生が苦痛に満ちたものとなる可能性があるのならば、真に価値があるのは結果ではなく「幸せな瞬間の積み重ね」こそが重要だからです。
小室哲哉さんで言えば、「これを作りたい!」と曲を書いている時間こそが素晴らしい人生なのであって、その曲が売れて「素晴らしかった」と言われた後は、真の幸せではなかったということかもしれません。
清原氏にとって、塁打数を重ねた結果よりも、バットを振っている瞬間、ボールを見極めている瞬間こそが、真の幸せの時間だったということかもしれません。
だとすれば、何者にもなれない凡人にも、その幸せな時間は手に入れられる、ということです。
野球が好きな少年でも、音楽が好きなバンドマンでも、その瞬間における幸福度は、同じだからです。
2018年1月18日木曜日
【元祖!勝手に人生相談シリーズ 22】 ビットコインで儲けた友人が妬ましいのですが・・・。
ふと思い立ってエゴサーチしてみたら、”勝手に人生相談”という記事がやたら別のブロガーさんによって書かれることが増えていました。
こちとら2014年から書き続けているのですが、どうも2017年になって
「勝手に人生相談」
を冠につけているブログ記事が増加している模様。
勝手によその相談に首をツッコんでいるわたくしの記事が、これまた勝手にパクられて、その人の勝手な回答が生まれているというこの時代!!!
なんというカオス!
これはカボス。 (出典 http://www.irasutoya.com/)
普通なら著作権侵害だ!と怒りたくなる人もいるかもしれませんが、そこはワタクシ解脱者ですので、誰がわたくしの真似をしようと、勝手に人生相談が増えようと、ぜんぜんかまいません。
でも、元祖は武庫川散歩なんですけどねっっっ!!!!! くわっ!
というわけで、今日のお悩み。 勝手に解決しちゃうぞ!
【質問】
知り合いがビットコインや仮想通貨で億り人(びと)になりました。利益確定してちゃんと現金にしたそうです。一方の私はしがない庶民のまま。なんだか心がもやもやします。どうしたらいいですか?
【回答】
ビットコイン・仮想通貨いいですね〜。高騰したり暴落したり、まさにジェットコースターのようです。
タイミング的には今「ビットコイン」が話題ですが、これって実は「宝くじ」でもいいし、「万馬券」でもいいし、「マンション転売」でもいいわけで。
私がしばらく通っていた床屋さんは、宝くじがあたって店を新調したという噂が街でもちきりだったし、今の取引先の会社も、実は宝くじが元手で会社を大きくしたなんて話もあります。
一昔前のバブル世代だったら「マンション買ってそのまま売ったら数百万〜数千万の利益」なんて話もよく聞きました。
まさにバブル! おったまげーですね。・・・・・・え?おっぴろげ?
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さて、ご友人が儲けたというビットコイン。今日時点では暴落だそうですが、今後どのような値動きをするのかはわかりません。
しかし、確実に言えることが2つあります。
ひとつめは、 「たとえそれがバブルやギャンブルであっても、彼は儲けたこと」
そして、もうひとつ言えることがあります。
「氏ねばいいのに!」
・・・ごほごほっ。うへっ。
というわけで、冗談ではなくどれだけのお金が入ってくるかも時の運ですが、人がどれだけ生きられるかも時の運だったりします。
健康だけでなく、事故や災害が襲いかかってくることもあるでしょう。大金はひとつの大きな価値ではありますが、命も大きな価値です。
大金をもって早死にするならば、どちらが大切かわかったもんじゃありませんね。
だとすれば、あなたは、ぜひ彼よりも長生きして、あるいは子どもたちに恵まれ、充実した人生を手に入れて
おくりびと
として、ビットコイン長者の弔辞を読む側になっていただきたいと応援しております。
人間というのはよく出来たもので、天から降ってくるラッキーもあれば、地が割れてひきずりこまれる不幸もあります。
しかし、それらのイベントをいろいろクリアしながら、死ぬ間際に「ああ、人生よかったな」と思えたらそれでいいのです。
そう、それは言い換えるならば、「一発逆転、最後に笑うのは誰だ」な世界観。
あなたの友人が妬ましいという気持ちは、正直に、素直にまっしろな紙の上に書き込んでいきましょう。
そのひとことひとことで、あなたの心は救われるはずです。
「ざわ・・・・・・ ざわ・・・・・・ ざわ・・・・・・・
ざわ・・・・・・ ざわ・・・・・・ ざわ・・・・・」
そう書き終えたら、差出人を書かずに封書で彼の家へ送りつける(※)といいでしょう。
きっとあなたの心のもやもやに、彼も心から共感してくれることと思います。
※注 よい子のみなさんは、真似してはいけませんよ
2018年1月12日金曜日
あなただけの宗教をお作りいたします なーんてことはできるのか。
今日は個人的な思考実験なので、メモ代わりに書いておくまで。
いつもの武庫川ファンの方は、そっと見守っておいてね。おおむね、ムコガワという男は、こういう感じで森羅万象のいろんなことに思いを巡らせているのだよ、ということがちょっとだけわかるというものだ。
さて本題。
混迷を極める現代社会で、人々が疲弊したり、困惑したり、あるいは救いを求めたりする中で、やはり1995年のオウム事件によって
「宗教に対する拒否感」
というのはものすごく大きくなっているように思う。 宗教は怖いものだ、ヤバイものだ、という感覚は、結果としてはあながち間違ってはいないし、宗教に入ることで身を滅ぼしたりする人も少なくないのだだけれども。
とはいえ、これだけ日本人が「疲弊困憊」しているのに、
「それは自己責任でしたね」
で片付けられたり、あるいは、ビットコインじゃないけど、
「役立つのはもはや金だけ」
みたいになるのもどうかなあ、と思うわけで。
解脱者ムコガワさんとしては、「悟りをひらく」というそれなりに効果的な
「世のややこしい事象をさらりとかわす術」
を身につけたので、そんなに苦しくはないのだけれど、 それだってどこか宗教的なうさんくささをもって世間では見られていると思うので、どうなんかなー、と思っているのである。
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苦しんでいる人や、世界に迷っている人に対して、時代によっては「哲学」なんてのがひとつの手助けになった時代もあったりしたのだろうが、哲学だって現代では、
「まじめにやると、廃人になるアレでしょ?」
みたいに思われているので、これまたどうなんかなー、である。
それにしても、これだけうつ病やら引きこもりやらが増えて、俗世がさらに生きづらいものになっている以上、そういう機運をちょっとでも
緩和したり、和らげたりできるような方法
があってもいいと思うのだが、ないのですね。どうやら。宗教もダメ、哲学もダメ、薬物なんてもっとダメ、ぜったい。
ちょっと前なら、愛してくれる男性や可愛い女子がいれば、ちょっとは心が和むってもんよ、ということもあっただろうが、それもどうやらダメっぽい。
なんでも、近年では「女の子を口説くのもセクハラ」になるらしい。どやさ。
わしなんか、いつでも誰彼となく愛をささやいていたら、「ストーカー扱い」される始末で、ほんとうに末法の世だなあ、と思われる。
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・・・・・・そんなアホな話はさておき。 既存の宗教に入るのが、危険なことであるとすれば、各人の心の拠り所を、カスタマイズで作ってしまう、というのはどうだろうかと最近考えている。
ようは
「あなただけの宗教をお作りします」
ということで、
「あなただけのこの世の真実をご提案します」
なわけだ。そんなんできるんですか?!と問われれば、わたくしは解脱者なので、わりと簡単にできると思う。できる気がしている。
・・・・・・というのも、「悟りを開く」というのは、簡単に言えば、
「自分が見聞きし、理解しているこの世界のありように対して納得し、落としどころを見つける」
ってことなんですな。つまりは。
人は「こうあってほしい、こうありたい」という世間や自分の姿を持っているけれど、現実はそうではなくて「自分にとっても、周囲にとっても問題が山積している」ので、
はて、それは一体なぜなのだろう
と考えるわけです。
それを個人的に突き詰めれば哲学だし、世界の成り立ちと絡めれば宗教になってゆく。
ひどい現実が起こっていて、仮にその理由がわかった、判明したとしても、それだけでは己に救いはやってこないので、今度は
はて、ではいかに救われるか
を考え出すと、最終的には悟りにいきつくわけで。(誰も救われねーよ、というニヒリズムで終わってしまうこともそりゃあるけれど)
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というわけで、次の10の質問に答えてくれれれば、あなただけの宗教、作っちゃうよ!
■ あなたは来世や死後の世界を信じますか。 はい いいえ
■ あなたはこの世界の創造主を信じますか はい いいえ
■ あなたは、地球外に生命や意思が存在すると思いますか はい いいえ
■ あなたは現世の利益と、来世や別の世界の利益とどちらを望みますか 現世 来世
■ あなたは神様は多数いると思いますか?一人だと思いますか 多数 一人
■ あなたには信仰対象としての人格や偶像が必要ですか?それとも宇宙の論理だけあればいいですか? 必要 不要
■ あなたには信仰における儀礼やルールが必要ですか?それとも不要ですか? 必要 不要
■ あなたにとって親や、その親、先祖といった民族的つながりは重要ですか? 重要 重要でない
(重要と答えた人は、あなたの苗字とご祖父さまの本籍地を教えてください。)
■ あなたにとって教え導く教祖や預言者・指導者のような存在は必要ですか? 必要 不要
■ あなたにとって既存の宗教は大切なものですか? 大切 どうでもいい
(大切と答えた人は、その宗教名を教えてください)
だいたいこれだけあれば、あなたに必要な宗教としての
「教え」「崇拝対象」そして「それによって得られる救い」
を提示できると思うのだが。
たとえばキリスト教なんてのは、○○○××○○○○○で記述できる宗教だと思う。
仏教は、 ○×○×○○○○○○で記述できる。
神道は、 ○○×○○○○○××(神道にはベースとなる事前宗教がないとして)で記述できる。
ムコガワの宗教観は、×○×○○××○××で記述できる。
こうして考えると、全部で何通りあるかということよりも、すごく短くまとめると
「現世利益か来世利益か」「創造主を認めるか否か」「儀礼やルールの重要性」「民族性のあるなし」
ぐらいしかバリエーションがないことになるわけ。それはそれでまた文化人類学上の興味をそそられるが・・・。
2018年1月11日木曜日
現代は被害妄想と誇大妄想で出来ているのか 〜承認欲求で読み解く平成論〜
先日は「君の名は」ネタをやりましたが、おおむねA○界ではヒットしたネタをモチーフに作品作りをすることが多いのですが、
「君の縄。」
という緊縛エロ○Vが早速発表されていたようで、いろんな意味で拝見したい武庫川です。おまけに主題歌が
「前前前
だそうで。ウケる。
18歳以上のよいこのみなさんだけ、アマゾンで在庫があるそうです。
「君の縄」
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B072HT8S6B?ie=UTF8&SubscriptionId=AKIAJQRDBBVQ2M5NRVUQ&camp=2025&creative=165953&creativeASIN=B072HT8S6B&linkCode=xm2&redirect=true&tag=franceprese08-22
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さて、そんな下ネタは脇へ置いておいて、本題です。
宮台真司さんという、一昔前に流行した論客がいるのですが、彼の記事がちょびっとだけ面白かったのでご紹介。
「平成という時代は被害妄想と誇大妄想の泥沼」(AERA)
https://dot.asahi.com/wa/2017122800028.html
彼によれば、平成という時代は、
「コントロールしたい承認欲求」に対して、それが叶わない現実との間に引き起こされたギャップ
が浮き彫りになった時代だと言います。なるほど、さもありなん。
あるいは言い方を変えれば
「こうありたい、こうあるべき」という志向に対して、それが叶わない現実との間に生じた被害者意識と、「こうありたい欲求」のさらなる肥大化
とでも言える現象がつぎつぎに起こっているのかもしれません。
思い返せば、高度成長時代は、実はそれぞれが努力をあまりせずとも時代の流れに乗っていれば「こうなりたい未来」は実現できたわけです。
それが、私達のように団塊ジュニア世代くらいから、「どうもそうではないらしい」ということに気づかざるを得なくなってきました。
これまでのように、自動的には「よりよき社会の成立や、よりよき自己の実現」がもたらされないとすれば、あるいは「どうして我々にはそれをよこさないんだ」という怒りや、 逆に「てっとり早く何者かになりたい」という欲求が生まれてくるのは当然のことと言えるかもしれません。
しかし、そうした怒りや願望を抱いたとて、現実はシビアに段々と我々に冷徹になってくるわけですから、それらの欲求が叶うことはない、という残念な未来が待っていることも事実です。
最終的には、それらの不遇を乗り越えるには
「運と努力」
以外にはありませんから、不遇であっても屈せずに黙って努力を続けるか、運をつかむべく博打に興じるかしかないわけで。ビットコインの狂乱なんかは、まさにこの「運」を求めてのバブルということになるのでしょうか。
しかし、残念ながら、「不遇であっても黙って努力」を選択する人はあまり多くないようで、 相変わらずこの世は、怒りと不満で満ちているように感じます。
武庫川自身は、ふだんはアホなことを語っているように見えて不断の努力を怠らない人なので、ああ、そうそう!この間の記事でもちょっと書いていましたが、
(参考)「武庫川がテレビに出るかもしれない話」
https://satori-awake.blogspot.jp/2017/11/blog-post_18.html
えーっと、武庫川またテレビに出ます。←告知?!
今日、全国放送のディレクターさんから正式依頼がありました。
例のごとく、ふだんは日陰をこっそりと歩むようにしていますので、どんな番組に出るとか、このブログでは一切書きません。
ええ、わたし、承認欲求とかないので。
↑外科医、大門未知子風に
世間一般から見れば、私は「持てるもの・所有するもの・自己実現するもの」に見えるかもしれませんが、私自身は、
「そういう、自己欲求を一旦さらっと捨てた後にこそ、そうした自己実現は勝手についてくるし、現実のものとなる」
と実感しています。
これ、大事です。
平たく言えば、テレビに出ることが自己実現かどうかはともかくとして、
「”他者や世間に承認されたい、有名になりたい”と思っている間は、成果は訪れない」
ということは、ビシッと言えると思っています。
ブッダが解脱や悟りを説いて、「欲求を捨てなさい」と言ったことや、キリストが「自己よりも他者を愛しなさい」と言ったことは、実はこういうことなんですね。
自己の欲求が”すきっと晴れ渡った”時にこそ、あなたという人は輝きはじめるので、そこに光がついてまわるのです。
今回の出演依頼も、実はとある東京の大手企業の方が、ずっと「武庫川さんを何かあればメディアに紹介したいんです!」とプッシュしてくれていたので実現したわけで、 そうした味方を作るためには、普段から万人に優しく接しておくのは大事なことかもしれません。
ちなみに、私はその女性と出会ったことはないのですが、いつか恩返しをしたいなあと思っております。
放送はいつかわかりません。っていうか、近日東京から撮影クルーが武庫川の住む関西へやってくるそうですが、
家の中が片付いていないのですが、どうしたらいいですか?
2018年1月6日土曜日
解脱者が「君の名は。」を観たらどうなるのか。
新年あけました。
普通だったらこの挨拶には「おめでとうございます」なんかが引き続くのでしょうが、すべては無常である解脱者ムコガワさんにとっては、別にめでたくもなんともないので、とりあえず年が改まったという事実だけ書いておいた次第。
・・・。え?屁理屈を言うな?
今年も、こんな調子でスタートしたいと思います。
ふだんは、世を忍ぶ仮の姿で会社員をしている武庫川も、 年末年始のお休みなんかがあったりして、人に会ったり美味しいものを食べたり、親族で会合を開いたりと、まあそれなりに充実した休暇を過ごしておりました。
で、たぶん多くの方もご覧になったと思われる
「君の名は。」
というアニメ映画をはじめて閲覧したわけです。
うーん。どうなんだろうねえ。まあエンターテイメントとしては、それなりにおもしろおかしく出来ていたので、最初の感想も、見終わってからの感想も等しく
「・・・80点?!」
くらいだったわけですが、 あんまり厳しいことを書くと作者のファンの方に申し訳ないので、ネガティブなことは書かないようにしたいところ。
それよりも
「なーんか、武庫川たぶんおっさんになってしまったので、あんまり感動が湧かないんだろうなあ」
という話を、12歳年下の隠れオタクである嫁と、お菓子をついばみながら話した次第でした。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
男女の入れ替わりを描いた映画といえば、 大林宣彦の「転校生」なんかがすでに古典なんですが、思い起こせば
「尾美としのりのほうが、はるかに入れ替わった感が出てたぞ!」
と不満足だった次第で、名優 神木 隆之介を持ってしても、男女入れ替わり感は不発だったような。
そもそも、実は隠れ物書きでもある武庫川さんからすれば、「君の名は。」で最もいち視聴者としてしんどかったのは、
「なぜ、主人公の二人が接点を持つに至ったかの理由」
について、結局まったく説明も必然性もなかったことが消化不良を起こす原因だったのかもしれません。
時と場所を超えて、男子と女子が繋がる接点は、なぜ彼と彼女でなければならなかったのか、ということを、誰か理解していたら教えてください。
初代「転校生」で言えば、物理的に二人で転がるみたいな接触があったので、これはもう逃れられない理由がそこにあるわけです。
ところが、まず場所が離れていて、お互いに面識がなく、さらに時間も違うとなると、これはもう全くの赤の他人で、男子からすれば全くの赤の他人のおっぱいを意識の上で揉めるとなると
単なるうっほほーい!
以外の何物でもありません。
もしこれを読んでいる女性読者がいるとすれば、まったく見も知りもしない、数年後の東京オリンピック開催の頃の兄ちゃんに乳を揉まれていると想像して彼を好きになることができるか、という問題と同等なわけです。
きっと、その時に生じる感想は、
「きもっ」
以外のなにものでもないと思うのですがいかがでしょうか。
そしてなおかつ、全く見も知りもしないお兄ちゃんのナニを触るというのも、ぶっちゃけキモい以外の感想が浮かばないのです。そしてちょっと臭い。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
結論から言えば、こうした事態が起こってしまったのは、偶然というか運命というか、それこそ神の思し召しというか、人智を超えた「説明不能」な理由で起きているわけですから、それから人智を超えたところで、
「勝手に神が糸守町を滅ぼしてもいいし、勝手に神が糸守町を救ってもいい」
という好き勝手なことになってしまいます。聖書だったら預言者が神から啓示を受けて、ヘブライ人を救おうとあれこれ動き始めるわけですが、そういう必然性があの子達にあったわけでもありません。
まあ、要するに、「映画としてやりたいことはわかるし、まーるくまとめてあるけど、よくわからんなあ」というのが武庫川の感想でした。
それから、「君の名は」というNHK往年の名作に引っ張られすぎで、ふだんは女子のことを
「おまえ」
よばわりしている男子が、ここぞとばかりに「君の名前は」とか連呼するのも意味不明でした。
ほな、最初からおまえ呼ばわりせず、「君」と呼べばええやんけ。
というのも、実は武庫川はむかーし、のちに妻となる嫁と一緒に
「君の名は◯◯◯◯◯」
という映像作品を作って、とある賞レースに参加して全国大会へ出場するなど、それなりの評価をいただいたことがあるのです。
ぐはは。”君の名は”、を流用することなんぞ、武庫川でもはるか昔に思いついたのじゃ。
といばりたいところですが、商業的にはボロ負け確実なので、ただの負け犬の遠吠えですな。
しかし、製作者としてはこだわりがあって、「君の名は」というキャッチーなフレーズをパクる、、、、いや、インスパイアしてオマージュして使うという場面に当たっては
「やっぱり、ここぞ!というシーンにのみ”君の名は”という言葉を使う。(借りてくる)」
ということは意識したものです。
あんなに「君の名は、君の名前は!」を連呼されたら、萎えるやんけ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
いけませんね。悟りを開いたとあろうものが、すばらしい作品にケチをつけるなどもってのほか。
ここはニコニコとほほ笑みを浮かべながら、そっと筆をおきましょう。
もちろん、お正月は嫁と二人で、そのあと
「聖☆おにいさん」(映画版)
をまったりと観たことは言うまでもありません(笑)
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