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2018年11月2日金曜日

自己肯定感は後からでも身につけられる!



 まいどおなじみ、みなさんの愛されキャラ、武庫川散歩です。


 最近、似ている有名人を教えてくれるアプリというのがあって、試してみたら



「木村拓哉」「グレイのTERU」


さんに似ていると言われました。 そんなことは絶対にない!、ないぞ!





 さて、今日は、解脱してからめっぽうメンタルが強くなって、もはや鋼のように体の一部が硬くなっている武庫川さんが、とても納得できる記事があったのでご紹介しましょう。




(あまりにも久々の下ネタなので、昔のブログ記事を知らない人は、どん引くかもしれませんが、こういうスタンスで実は毎回書いているつもりです)






プレジデントオンラインさんより

「メンタルが強めな人にある3つの超感覚」
https://president.jp/articles/-/26608



 話によると、なんでも「メンタルが強い」人には、普通の人よりも突出している「超感覚」なるものがあるらしいです。



  どうやら武庫川も、超人の域に達してしまったのかもしれません。



 その感覚、どんなのかというと、簡単にまとめます。



○ 首尾一貫感覚 これがあると、メンタルが強くなる。


具体的には次の3つ。



1)  だいたい、人生は想定の範囲であり、なんとなく先がこうなるだろうわかる感覚。



2) いろんなことがありそうだけれど、たぶんなんとかなるんじゃないか感覚。



3) 起きることは、自分の人生にとって意味があったり、価値があるという感覚。




 ものすごく平たく書きましたが、こうした3つの感覚をもって生活している人は、メンタルが強いのだそうです。




 武庫川は、本来中学生ぐらいの時まで、「ストレスで胃潰瘍になったり」「皮膚がボロボロに剥けたり」「自分は最期は自殺するんだ」ぐらいのチキン野郎だったのですが、なんどか訪れる解脱のチャンスによって



「この世に恐ろしいもんは何もないぜー!」


的なスーパーハートになってしまいました。



 そこに至る中で、上に示されていた3つの感覚は、しだいに自分で身につけてゆけたように思います。






 武庫川は、「人間関係」「仕事関係」「生活関係」「子育てなど」において、


「この先はまあ、こうなるだろうなあ」


という先を見通せる感覚を持っていて、まず予測は外れません。









 かつ、何か問題が起きても


 「まあ、なんとかなるだろうな」


という感覚が強くあります。それは、自分に対しての自身でもあり、経験則でもあります。





 もっと面白いことには、この記事には書いていない、ちょっとひねった感覚も合わせもっています。





 それは「人生には思いがけないことが起きる」という感覚です。



  先を見通せる話と一見すると矛盾するように思われるかもしれませんが、この2つの感覚は共存していて、


「ある程度先を見通せるんだけれど、そこに思いがけないことが起きたとしても、それまでもさらに想定の範囲内である」


みたいな感覚があるのです。


 たとえば、何かの準備をしていて、9割がたOKなんだけれど、「それでも、人生には思いがけないことがあるから、その裏までかいておこう」みたいな、そういう思考です。






 そして、すべてのことはたとえ悪いことであっても良いことであっても「すべては自分の経験値であったり、物語の一ページとなって組み合わさっている」という感覚があります。




 このあたりは、元々小説家志望だったので、



「人生における出来事は、すべて小説のネタである」



と思っている部分が強いのかもしれませんが(苦笑)






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 さて、そんなメンタル強めの武庫川のことなんぞは、みなさんにはちっとも関係がないので、いよいよここからが本題です。



 多くの人は、弱いメンタルやチキンハートに悩んでいると思いますが、ムコガワさんのような「強いメンタル」というのは、後からでも身につけることができる!ということが大切です。



 ムコガワさんの場合も、最初からメンタルが強かったわけではありません。



 実際には大学生時代ぐらいから、メンタルが強くなる方向へ変化があったのですが、 その具体的な方法は、



「小さなものでもいいので、成功体験を増やしてゆく」



ということに尽きます。これが大きく効きます。



 ただ、「自分では自分が成功していること」やあるいは「他者よりも上回っていたり、恵まれていること」に気付くことは難しいので、よくよく


「周囲や他者を観察して、他者の身に自分を置き換えたり、社会全体を教養的に俯瞰して見る」


ということも大切です。



 つまりは、多くのことを



「主観ではなく客観で捉える」



ということでしょうか。そうすると、自分の不幸なる境遇よりも、社会全体の中での自分の立ち位置のようなものが見えてくるわけですね。






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 この技術は、ある意味においてはほんとうに「技術」でもあるので、私が弟子に対して話をするときには、


「あなたにはこんなことができるよね」


「あなたはここが他の人と違って面白いよね」


「あなたはこれが成長したね」


と明確に本人が気付きやすいようにサポートしています。




 うちの弟子のハガネちゃん(ひさびさ登場。気になる人は↓をチェック)





なんかは、やはり学生時代は随分と自信のなさや不安感にさいなまされたようですが、最近はいろいろ揺れ動きながらも、自分で前向きに動くことがとてもできるようになったと思います。




出家女子がやってきた!
https://satori-awake.blogspot.com/2017/03/blog-post.html
 




 ただ、実践していて思うのは、自己肯定感を自分ひとりで身につけるのは、技法的にもやっぱり難しいときがあるのかなあ、ということです。



 自分は自分をなかなか客観的に見られないので、そうした役回りをしてくれる友人や師匠がいるとずいぶんと違うのかもしれません。




 どういう方法がよいのかな、と私もずっと研究しています。




2016年12月13日火曜日

さみしさ とは何か ~どうして人はグレるのか~




 先日からとある事情で『寂しいとはどういうことなのか』についてずっと考えています。



 これはとても簡単な話のようでいて、実はかなり奥深い問題なので、さすがの解脱者・武庫川散歩であっても、



「ああ、それはこれこれこういうことだよ」



とさらりと回答できずに、珍しく思索にふけっている次第です。



 実を言うと、解脱者ムコガワは、少年時代から明るく元気でさわやかであったものの、その内面においては、基本的に孤独を愛する文学少年であったので、



「寂しいという不安にかられたことがない」



稀有な人生を送ってきました。ええ、ええ天性のボッチくんだったのです(^^



 実際、結婚した今の嫁はんからは、私の数少ない友人と実際に交流があることを知って、


「あんたに友達がいるなんて驚いた」


と言われたほどで、基本的には交流関係はとても薄い人間だと自覚しています。




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 しかし、一方でこの「寂しさ」「さみしいという気持ち」をどのように受け止めてよいかわからずに、 思春期の多くの時期を



 悶々として過ごしたり、あるいは


 グレてしまったり、



する人もたくさんいます。彼らにとっては、この得体の知れない「さみしさ」は、恐怖と畏怖そのものであり、自分でも処遇することのできない


 内なるモンスター


のようにふるまう脅威だったりするわけです。





 さみしさとは一体なんなのか。その正体を突き止めることができれば、あるいは「さみしさ」ゆえに苦しんでいる



 世界中の少年少女たちを救う



ことができるかもしれないのです。




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 発達心理学の分野では、この「寂しさ」の正体を



 親から受ける無条件の愛着



の不足であったり、欠如として考えている説もあります。



 なるほど、生まれたときから親によって無条件の愛を注がれることで、自分の中に



 自己肯定感



が生まれ、それがうまく形成されなかったり、欠如したときに「寂しさ」を覚えるというのは、わかりやすい考え方だと思います。



 しかし、仮にそうだとしても、それのみですべてを説明することは難しいように思うのはなぜでしょうか。


 成長期において、なんらかの成果を挙げたり、たくさんのものを手に入れたり、成功体験を積み重ねても「寂しい」と考える人はたくさんいるし


 両親が愛情を注いでいたとしても、その愛情の中身を子供なりに判定して「あいつらの愛は、正しくない」という見方をするものもたくさんいます。


 そもそも、親だって時には子供を否定する気持ちになるものです。夜泣きするとか、うんこが臭いとか、ゲロ吐かれたとか。勘弁してくれよ、と思った瞬間だって、確実にあるのです。




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 さて、「寂しさをあまり覚えない」ムコガワさんの個人的な話で言えば、ムコガワさん的には、



 他者との関わり度合いなどは、あまり寂しさの指標と関係がない



という感覚を持っています。



 つまり、”誰かがかまってくれるから寂しくない”とか”誰かがかまってくれないから寂しい”という類のものではなく、そこに他者がいようといまいと、あまり関係がないような感覚があるのです。



 そうすると、つまり、先ほどは「自己肯定感」において寂しさを説明しようとしましたが、


「これこれが出来たから(他者が肯定したから)自分を肯定できる」とか


「こういう成功体験があるから、自分を肯定できる」
 
といった話とは、実は別の次元なのではないか、とも仮説が立てられるわけです。



 これがもし別の次元の話だとすると、


「成功体験を積み重ねても、さみしいものはさみしい」


という人がいることを、説明できることになり、話が合致してくるわけですね。


 

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  さて、私の知り合いは、どちらかというと「さみしさ」を感じるタイプの人なのですが、その人物におもむろに


「さみしさとは何か」


について尋ねると、とても興味深い答えが返ってきました。



 ちなみに、この人は、両親から愛情を注がれなかったか?といえば、たぶんしっかり注がれているし、愛されて育っていると思うのですが、それでも根っこの部分に「さみしさ」が横たわっている人であったりします。


 とすれば、その「さみしさの正体」はどこにあるというのでしょう。その答えを聞いてみましょう。




『生きるとか死ぬとか、そういう端的なものではないけれど、この世界のあやふやさや、宇宙の終わりなどについて、思ったり考えていると、体感としてとても寂しい感覚が襲ってくる』


という答え。



 ムコガワも、おなじくこの世界のあやふやさについて考えているのに、なぜか真逆なこの答え。



 とても興味深いと思いませんか?




 これを心理学的に見れば、



「死の恐怖の変化形。つまり、自分も含めて認知しているこの世界が無くなるということについてのどうしようもない不安と恐怖が、さみしさとなる」


みたいな解釈もできるのかもしれません。



 ところがムコガワの場合は、真逆で、


『あやふやで、消滅するはずの世界の中にある自己のありありとした現実感が、世界が儚ければ儚いほど浮き彫りになって生き生きとしてくる』


みたいな感性があります。だから寂しくない。



 ああ、なるほど、先の感覚が「死の象徴」であるとすれば、こちらは「生の象徴」なのかもしれませんね。





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 私の数少ない友人の1人が、


「花というものの美しさ」


についていろいろと考察している話を聞かせてくれたことがありますが、花というのは、死の象徴であり、かつ生の象徴でもあります。



 一生に一度だけ、死を目前に竹の花が咲くように、本来花というのは、自分の死に対するアンチテーゼとして存在します。



 とすればそれは死の予兆であり、象徴なんだけれど、しかしながら、あまりにも美しく生き生きとした姿で見せ付けてくる花は、逆説的に



「いのちの証、象徴」



でもあるのです。






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 このように考えると、さみしさというのは「儚さや死という世界に取り囲まれながら、いかに自分の生を実感できるか」という部分に関係してくるような気がします。



 それが、ごくごく幼少の頃に、何らかの形で「植えつけられる」のか「勝手に生じる」のかはわかりませんが、形成されてくるわけです。恐ろしいことに!



 そして興味深いことに、親から愛情を注がれても、おそらくは「儚さや死という世界の先」を見てしまうこどもたちはたくさんいるのでしょう。


 言語や体験で言われたり、与えられなくても、自分たちもそのセカイの中にいるのだから、彼らは


「感じ取り、気づく」


ことができるのかもしれません。



 その時に、彼や彼女なりの心にストンと落ちるような理解や体験を得たものは、そんなことは心の奥に忘れてしまってその後の人生を過ごせるのでしょうが、



 その気付きが恐怖となり、それが引っかかっているまま


のものは、得体の知れない寂しさとなって、残り続けるのかもしれないのです。










































2016年10月6日木曜日

自己肯定感を持つにはどうすればいいのか ~幸せな人生送るための方法~



 いわゆる先進国における「民主主義」とか「個人主義」の理論的源泉が、キリスト教にあることは、何度かこのブログでもチラチラ書いていますが、このことは実はとっても重要なので、知らなかった人は覚えておきましょう。



 簡単にこの理屈を説明すると


「あなたは神様から命をもらったので、誰がなんと言おうと最初から神様からの贈りものなので尊い存在なのですよ」


ということです。これに関連して「才能」のことを英語で「ギフト(贈り物)」と言ったり、めっちゃ天才みたいな子を「ギフテッド」と呼ぶのも同じ理屈ですね。



 さて、この理屈で行くと、私たちは神様の被造物であり、神の子なので尊重されるべきであり、また


「生まれながらの権利(人権)やら、政治政策にコミットするだけの理由やら、幸せになるべき義務」


みたいなものが最初から備わっていると考えるのが、民主主義やら個人主義のルーツということになるわけです。



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 で、上の説明を読んでから、




自己肯定感と子どもについての話(けっこう毛だらけ猫愛だらけさんのブログ)
http://nenesan0102.hatenablog.com/entry/2016/09/28/054353




を読んでいくと、いろいろ興味深い観点が浮かび上がってくると思います。

(上記記事はニャートさんの紹介で知りました)



 まず、一番最初に気付くポイントは



■ 自己肯定感がある、あるいは早い段階で肯定感を持つと、その後の人生においてポジティブに生きられたり、あるいは成功感覚を持って生きられる可能性が高い。



ということでしょう。


 それから、記事やらそのネタ元になっているもう一つのポイント



■ 自己肯定感がないということは、親に愛情を注がれずに育った場合が多く、そのためまた自分が子どもを持つ際にも、愛情を持てなくなる可能性がある。



ということも見えてきます。



 本来この2つは全く別の問題なので、一緒くたに考えるとごっちゃになってややこしいのですが、この問題を考えるにあたっては、いくつかのバラバラの事象を寄せ集めながら検討してみようと思います。



~~~~~~~~~


 

 さて、学校教育の究極の目的、というのは、意外と知られていないのですが、実は「知識を与える」とか「人間関係を学ばせる」とかではなくて、本筋本論は


”成功体験をさせる”


ということにあります。


  勉強すら、この大きな目的の中にある小項目に過ぎない、と言ってもいいくらい、この成功体験というのは大事なことです。



 たとえば、小さなドリルを3問とか5問とか解いて、センセイに花丸をもらうという作業がわかりやすいのですが、これは



「やってみる、わかる、とける、できる」


という成功体験をさせる一つの方法論に当たります。



 逆上がりができるようになる、とか、みんなで組み体操をするとか、夏休みに工作をさせて完成品を提出させる、とか、すべては


「成功体験」


のためにやっていると言っても過言ではありません。


 なぜ、成功体験が重要かといえば、先の話とおんなじで「成功体験の積み重ねが、自己肯定感を後から生じさせる効果的な方法である」ということを教育者は知っているからです。



 しかし、余談ですが、成功体験ばかり与えても「失敗」を知らないと、その子どもは天狗になるか、いつかポキンと折れてしまいますので、実は、成功体験の中は


「難易度の高いもの(成功しなくてもOKなもの)」


を混ぜておくことが効果的だったりします。




 なので、特に勉強ばっかりやってきて、その分野では「成功を重ねてきた人」がいても、人間関係やら、他の分野で壁にぶち当たるとメンタルになってしまうことが起きるのは、失敗体験をうまく重ねていないからでもあるわけです。



 このへんの匙加減が難しいことは、覚えておく必要があるでしょう。




 ちなみになぜ成功体験が教育上重要かというと


「困難に出会っても、成功体験のベースがあるから耐えられたり、乗り越えられたりできる」


からです。


「前もできたから、これもやれそうだ。やれる!」


ということが何よりも力を持つのです。





~~~~~~~~~~




 さて、またこの話を踏まえながら組み立ててゆきますが、


■ 家庭環境に問題があることによって、自己肯定感を育みにくい子どもが存在することはあり得るだろう。



ということが最初の話。けれども、



■ 家庭以外の学校などの場で自己肯定感を育むことは可能で、つまり後から自己肯定感をアップさせることは出来うる。



ということも理解できると思います。




 で、ここで気付いてほしいのですが、いっちばん最初の「神様からのギフト」とかキリスト教的な観念との比較において


「神から与えられた(先天的に設定されたもの)としての自己肯定」


という概念がある一方で、実は


「親に刷り込まれたり、学校で学んだりと、後天的に後から自己肯定を生じさせること」


が可能なんだ!という点が、今日の話の一番のミソということになるのです。




 まだ、わかりにくいので噛み砕きますね。




 神さまが自己肯定に繋がる何かを天界から与えてくれた、という説はたしかに心地よいし、なんか凄そうなのですが、実は神様なんかいなかったり、キリスト教を信じていなかったり、進化論主義者だったりしたら



「天から与えられた自己肯定なんか、そもそも存在しない」


ということに気付かざるを得ません。



 だとすれば、自己肯定を生み出す手段は全部



「親がそう言ったからそれを信じた、とか。宗教がそう言ってるからそのつもりになってた、とか。学校の勉強やら部活の試合に勝って身に着けた、とか」

 =

”すべて後から形成された感覚である!”



  ということになるわけです。



 このへんはアドラー心理学にも通じる話で、アドラーは


「トラウマなんか存在せーへんのじゃ!いつまでもグチグチ言い訳しやがって!」
 
(かなり、意図的に改悪した口調)


と言っている通り、 仮に毒親に何かを刷り込まれたとしても




「幸せなる自己肯定感は、後からいくらでも育むことができる」



という救いに繋がると思うのです。





~~~~~~~~~~



 さあ、ここからです。


 証明したとおり、「自己肯定感とそこから生まれる幸せ」は後からいくらでも育むことができる!ということは確かに朗報ですが、 その手法が、



『たとえば学校教育のネタで説明されたように、成功体験がその秘訣なのだったら、ボクやワタシはこれから成功を積み重ねるなんてたぶんできないだろう』



と、自己否定感の強いメンタルちゃんは、確実に萎える!ことが予想されます。



 その成功体験に向かって、「頑張る気力」すら湧いてこないかもしれません。



 ★たぶん、このあたりが引きこもりやニートを生じさせる原因に繋がるのでしょうね。




 しかし、安心してください!


 解脱者は何も、「成功体験の積み重ねだけが自己肯定を生む」とは言っていません。



 なんとそのヒントは最初に出しているのです!!



 もう、わかりましたね?



 キリスト教と同じように



「あなたは自己肯定するべき愛される存在である」



ということを、他者が宣言するだけでも、(実際に神様なんていなくても)効果があるということが判明しているのですから、これは



使える!!!



はずではありませんか?



 この実例は多々あります。



 グレていた不良が、熱心な先生に出会って変化したとか、恋人が誠意を込めて接してくれたことで変わったとか、メンターに出会ったとか、みつをみたいな言葉に衝撃を受けたとか。



 「後から自己肯定は育むことができる」



という説明どおりのことが実際に起きているわけです。



 ただ、唯一の難点は、


「自分で自分を自己肯定する作業はとても難しく、他者からの援助があったほうが、はるかに即効性があり、効果も高い」



ということでしょうか。



 だから引きこもりやニートは、自己解決が難しくなってゆくのです。




~~~~~~~~~~


 というわけで、武庫川散歩は、この技術を応用して「自己肯定感を育む」プログラムを開発しようと思います。


 で、キリスト教の素地のない日本人にもすんなり入るような



「だからあなたはこのセカイで生きている価値がある」



という実のある言葉をみなさんにお届けしようと思っています。



 内緒ですが、既に一部では実験的にこの取り組みをやっているのですが、今のところ



「目からうろこが落ちた」


とか

 
「人生観が変わった」


と、好評を頂いています!




 ご興味のある方は、ぜひ武庫川までメールをください。




★ 武庫川経由の方は無料でやりますが、別の名義ではちょっと切り口を変えてビジネスとしてやってますので1000円だけ貰ってます(笑)


 1000円で人生観が変わるなら、安いもんでしょ?