2016年8月25日木曜日

性行為は愛と暴力どちらに基づくか 〜拝啓 ニャートさま〜



 昨日、武庫川にとってはとても興味深い記事を書いておられる「ニャート」さんのブログを紹介したところだが、実は私がとても関心を寄せた記事があったので、今日はまじめにその話をしておこうと思う。



 一橋を出てニートになりました
 http://nyaaat.hatenablog.com/
 



 その記事というのは、今回の武庫川の記事のタイトルにも使わせていただいた



「性行為は愛と暴力のどちらに基づくか」
 http://nyaaat.hatenablog.com/entry/love-violence



というかなり重たい、かつ大事な話である。



 ニャートさんは、女性のようなので、「夢見がちでややメルヘンな女子」だった過去の自分目線からこの話を書いておられるが、武庫川は当然男性なので、男性の目線から論を立てていきたいと思う。



 ニャートさんはおそらく、武庫川のブログをこれまで読んでいないと思われるので、基本的にこのブログは「超真面目で、超かたくるしい話を、下ネタとおそらくはセクハラの類に偽装して書かれた変なブログ」であることをご存知ないと思われるので、いつものノリは封印して、真剣な「きりっ」とした眼差しで書こうと思うが、それはレディに対する礼儀というものであろう。



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 ニャートさんの書いている基本的な筋道はこうだ。


1) 少女マンガなどの中には、理想化された男女の100%の愛というものがある。

2) 一方、エロ本や男性誌、男性向け小説には、暴力的な性の描写がある。

3) では現実の男女の営みは、どれくらいの割合で愛と暴力が混在するのか。



 この考え方は、とてもよくわかる。奇しくも、つい昨日、うちの弟子筋の一人から似たような話をされたので、私は自分のこととしてこの問題を真剣に考えるようになった。


 弟子(といっても、ほんとうに師弟関係があるわけではないが、話の流れ上いつも私が指南役で、相手が聞き手になる関係ぐらいに思っておいていただきたい)は、現役の女子大生であるので、まだまだこの俗世の「いろんな意味でいやらしい、汚らわしい」社会の実態を想像でしかしらない存在である。


 また、彼女がこれまた奇しくも「自分は、大人の社会というのは『良きこと』を目指すことが善であり、また多くの大人や社会は実際に善であると思っていた」という意味のことを言っていたので、これはニャートさんの言うところの


「漫画やアニメの理想化された愛の世界」


と本質的には同じだと考える。




 さて、そんなまだまだ理想化されたセカイの側にいる女子大生の弟子からすると、武庫川がいわゆる


「いい話」「役にたつ話」「この世界の本質を突いた話」


をするのに対し、同時に、


「下ネタで茶化したり、アホなことを言ったり、まるで悪人であるかのように偽ったり」


することとの間で、 それが同一人物によって成されているということの理解が、イマイチ納得いっていないのだと思われるのである。



 彼女からすれば、どこまでが本当の武庫川であり、どこまでが演じられた武庫川なのか、その境界を読み取るのが難しいのではないか、と思う。



 もちろん、男女に限らず、学生から社会へ出ていこうとするいわば後期思春期の人間は、「大人になったフリ」や「大人を理解したフリ」をしたいのがこれまた世の常なので、


「武庫川さんはそうやって、アホなことをわざとやっているんですね」


と、表向きは理解したような言説で「武庫川の矛盾を納得しよう」とするのであるけれど、その実はギャップに


「一抹の恐れ」


を抱いているのではないだろうか。



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 話がブレそうになっているが、引き戻しておこう。


 武庫川が希代の解脱者で、聖人君子なのか、それともただの変態なのかは彼女には絶対にわからない。


 それは武庫川の内部の問題であって、武庫川自身にも、もしかしたら二面性が潜んでいるかもしれないし、ニャートさんの論の立て方に添えば、


「50%の聖人と50%の変態でできている」


ことだってありうるわけだからだ。



 個人的な話をここで書くのは恐縮だが、最終的には弟子の女子大生にとっては、選択肢は3つしかない。


1) 武庫川が本当は聖人であり、変態は仮の姿だと信じ込んで接する。

2) 武庫川は本当は変態であり、拒絶すべきだと距離を置く。

3) そのままの武庫川をそのまま受け止めて、どっちもアリな人なんだと接する。



 さあ、選択せよ(笑)




 ・・・冗談は横に置いておいて、 一番リアルに近いことを言えば、


「人間というのは、どのような割合においても清濁併せ持つ存在であり、そうして生きてゆくのが大人だ」


というのが正解に近い。



 だからニャートさんへのひとつの回答にもなるが、


「性には愛も暴力性も、いろいろなぐちょぐちょな感情や感覚が混載しているのだけれど、それを感じ味わうのが人生というものの機微なのではないか」


ということも、言えるかもしれない。





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 さて、それはそれとして「わかったような大人の回答」をしてみたが、武庫川はもっと違う観点で、ニャートさんの話を考えている。



 武庫川には疑問があるのだ。


 (解脱者だって疑問くらいあるわい)




 それは、性の暴力性に直結する話なのだが、どうして人間は自分より劣っていると判定した異性に対して、暴行しようとするのか、という問題である。


 たとえば、Aという国がBという国に攻め入り、Bという国を支配するような状況になると、ほとんどといっていいほどA国の男性がB国の女性を性的に暴行するという事例が発生する。


 沖縄米軍基地問題もしかり、韓国の従軍慰安婦問題もしかりだが、


「征服者という暴力に基づく性衝動」


というのは、たしかにこの世界に存在するのだ。


 これがどうして武庫川にとって疑問かと言うと、以下のことを考えてみてほしい。



1) 征服による性衝動は、そこに確実にAからBへの蔑視・さげすみの観念が存在する。

2) しかし、男性にとって本来は自分のDNAを残すことは、できるだけ”良い子孫”を残したいはずではないのか?

3) そのために胸の豊かな女性が好まれるとか、男性の本能には「よき異性」を求める指向が備わっているはずであるのに

4)なぜ、自分より劣った者だと認識した相手に対して、劣情するのか。



この流れが、まったく説明できないのである。



 良き遺伝子を残す、ということが本来であるとするならば、男はいつも


「良家のお嬢様か、豊満な体の元気な女子」


を選択し、それに欲情しなくてはならないのだが、実際はまったく違う!


 たとえばロリコンだとか、そういうのも含めて、


 大抵の場合は、男は自分よりも「劣っている」と認定した異性に対して、暴力性と支配性を発揮するのだ。


 これは甚だ矛盾するのではないか?



 このことは、ニャートさんが心のどこかで不信感を抱いているように、


「性には、その根底に暴力性が潜んでいる」


ということの、一種の証明になってしまうのかもしれない。



 私は個人的には、「それならなぜ、子孫のDNAが劣るであろうと想定される形で、本能が動くのか」を解明したい気がするのである。


 そこに潜むのが、恐ろしい”魔”なのか、それともあっと驚くような遺伝子の策略があるのか、科学の発展に期待したいところである。







 

 

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