2016年5月21日土曜日

「ハーバードの人生が変わる東洋哲学」なる本が出るらしい。 ~あなたの人生を大きく変えますスペシャル~


ハーバード大で熱狂的に当たった講義といえば、やっぱり


「マイケル・サンデルの白熱教室 ~これからの正義の話をしよう~」


が記憶に新しいですね。日本でも講義番組が大ヒットしました。


 で、今回はその二番煎じ、というわけではありませんが、「東洋思想」でひとネタやってくれるようです(笑)


 ちょうど、早川から出ている


「ハーバードの人生が変わる東洋哲学」(マイケル・ビュエット/クリスティーン・グロス・ロー)


のカンタンな紹介があったので、それを引用しながらお話を進めて参りましょう。



 ”ハーバードの学生が大熱狂!必ず人生が変わる「東洋哲学」白熱講義エリートはなぜいま孔子や老子に惹かれるのか?”  現代ビジネスより
 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48694 



 まあ、簡単に言えば、現在私たちが生きているセカイの価値観は「西洋思想、それもキリスト教プロテスタンティズム」に支配されていて、それに対するアンチテーゼとしての「東洋思想、この本の場合は中国の老荘思想」をぶつけてみよう、ということです。



 この話は、奇しくもつい先日、このブログでもお話したところなので、当ブログのコアなファンにとっては、ちょうどよいおさらいになることでしょう。


 <参照>

セカイ系解脱者(笑)が解き明かす、この世界の真実! ~セカイは実はシンプルなんだ!~ 

 http://satori-awake.blogspot.jp/2016/05/blog-post.html



 解脱者は、このセカイのすべてを理解する。 ~世界は、とっても単純でカンタンだった!~

http://satori-awake.blogspot.jp/2016/05/blog-post_12.html


 
 先日の武庫川の話では、西洋思想はミクロな視点で、東洋思想はマクロな視点だ、みたいなことをさくっとご説明したのですが、そのあたりのもうちょっと詳しいことが、現代ビジネスさんの記事にも出ていたので、解説をしておきます。



 まず、現代人というものは、ほとんどが


「自分には、進むべき道のような真実の生き方があって、それに向かって、なおかつ善で良き方向に努力して歩いてゆくべきである」


ということが当然だと思い込んでいますが、そうした思考は、実はキリスト教、それもプロテスタントの発想だ、というところから物語はスタートします。

 実際の自分は、「理想の状態にはなかったり、ほど遠かったり、苦労し悩んでいたりする」んだけれども、仕事や家庭や生き方全体において”こうありたい、こうあるのが理想なんだろうな”という漠然としたイメージがある、というのが普通だとみんな思い込んでいるわけです。


 ところがこうした思想は、カトリックからルターと同じように宗教改革で飛び出したカルヴァン派が主張した「人は神に選ばれるものとそうでないものが最初から決まっていて、人は神のために理想的に働き、生きるべきである」という考え方に影響を受けている、というのです。


  まあ、冷静に考えると「救われるものと救われないものが決まってるんなら無駄じゃん。わしはたぶん無理」と思うのですが、そこはホレ。もともとエホバ神に選ばれたと思っているユダヤ人たちの宗教からはじまった選民思想のキリスト教ですから


「ボクは、ワタシはきっと神に選ばれてる、だからちゃんと生きなきゃ」


とみんなが思う、というのがミソなのです。




 というわけで、現代人の万人は、西洋資本主義と民主主義をベースに生まれ育っているので、日本においても(神様こそどこかへ行ってしまったものの)


「こうあるべき理想的生き方と、それに向かって努力すべき人間像」


を勝手に規定してしまっているわけです。




 ところが、東洋思想になると、全く逆の視点を持つことになります。


 今回たまたまハーバードで扱われたのは、中国の哲学(孔子や孟子、老子など)ですが、別にそんなたいそうな人物を持ってこなくても、あるいは深い仏教の知識がなくても、私たちは既に、東洋思想の素地をちゃんと持っています。



 わかりやすい例を挙げましょう。


 理想的な生き方や、そうすべき人格があるってのはわかるけど、


「にんげんだもの」 みつを


そうそう完璧じゃないよね。


 ・・・これなんか、東洋的思想そのものです。理想像をいきなりぶっこわしているんだけれど、理想的でない自分も肯定しちゃうという、スゴ技に他なりません。


 哲学者でなくても、日本人の感性にはもともとこういう東洋思想が根付いていますから、たとえば、金子みすずの詩なんかをちょこっと持ってきても、すぐにわかります。

 

  海の魚はかわいそう。
  お米は人につくられる、
  牛は牧場で飼われてる、
  鯉もお池で麩を貰う。

  けれども海のお魚は
  なんにも世話にならないし
  いたずら一つしないのに
  こうして私に食べられる。

  ほんとに魚はかわいそう。


 「お魚」という詩ですが、これなんかまさしく人間と魚が相対的に描かれています。西洋思想だと、この場合は「人は救われるのか?それとも魚の魂が救われるべきか?」というややこしい命題になってしまうことがすぐにピンとくるでしょう。

 あるいは、「いやいや、人は神に選ばれた存在なので、魚は人に食われてもそれはよいのだ」とか、「いやいや、魚だって他のものを捕食しているので、罪深き存在なので食われてもいいのだ」とか、そんなことをどんどん屁理屈でつけていかないと成り立たなくなってくるのです。



 ところが、いくら理論付けたり、理想を語っても実態としてあるのは、

「お魚さん、いただきます。ありがとう、そしてちょっとごめんね」

というただそれだけのことで、それは翻って、自分たち人間も、ちょっとしたことで殺められたり、不幸になったりするかもしれないけれど、それもまた人生だよね、ということになるわけです。



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 さて、この本では以下のようなネタが書かれているそうで。



●自分探しをするな
●“ありのままの自分"などどこにもいない
●強くなりたいなら徹底的に弱くなれ
●自然を賛美しすぎるな
●がんばっても報われるとはかぎらない
●“ポジティブ"がよいとはかぎらない




これらのネタを見るだけでも、無常観がひたひたと押し寄せきそうな感じがします。


残念ながら、この本では仏教思想が取り上げられていないので、そこが物足りないのですが、興味があればどうぞ。



 ちなみにすでに解脱している武庫川は、今さらこの本を読んでもなーんとも思いませんが、なにか?
  







 


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