2019年12月23日月曜日
救われる技術 ~幸せを掴むための技法~
まいどおなじみ稀代の解脱者、あ・な・た・の武庫川散歩です。
2019年の年の瀬も近くなっておりまして、本業の仕事は、暇です。営業マンがそんなことを言っていてはいけないのかもしれませんが、なんといっても消費増税後の冬場ですから、うちの業界に限らず、どこもかしこもひどい状況ですね。
こんなときは一休み御休憩は3980円から、と一休さんも言っています。
あわてない、あわてない。じらさない、じらさない。
・・・・・・とまあ、あいかわらずエロいことを言っていますが、落語のまくらのようなものでございまして、このブログではお約束のネタですから、平にご容赦ください。
本人はいたってまじめにやっております。
さて、しばらくほったらかしにしていた、twitterでの、特に宗教2世の人たちについて考えよう、のコーナーをしばらくやっておりまして。
私がそのむかーしむかし、あるところでやっておりましたエホバの証人の2世の方々が、いろいろ苦労なさっている様子を見ていると、ささやかながら手助けできることがあればいいなあ、と思う次第です。
そんな中で
「
宗教2世をやめるのは早い方がいい。
10代でやめたらほとんどその後の影響なく幸せになれる
20代だとちょっと時間がかかったり周囲に恵まれたら大丈夫
30代だと恨みつらみのほうが多くなり復活に時間がかなりかかかる
」
みたいなことを呟きましたら、かなり反響がありました。
宗教2世の方々には思うところがあったのでしょうか。
それと同時に、経済力がないと親から離れにくいとか、そういったリアルな問題もいろいろ出てきたわけですが。
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ツイッターでは140字しかなくて、あんまり誤解を招いてはいけないので書いていないのですが、実は
「救われる」
ということは、平等でもないし、意外と大変なことだったりしますので、今日はそのお話をしておきたいと思います。
上のツイートでもそうですが、これをぱっと読んで性格の悪い人だと
「なんじゃい。アフラフォーだともう助からんっちゅうんかい!」
と激怒なさるかもしれません。 はっきりとは回答しませんが、ええまあ、そういう部分もあるんですね。
仮に何かの宗教にどっぷり使っていて、60歳になって放り出されても、どうしようもないでしょう、ということです。ほんとにそうなんですよ。
救急救命では「トリアージ」という概念がありまして、要するに助かる可能性のある人から、選別して差別して治療に優先順位をつけるということです。
宗教からの脱却も同じで、60歳の人を救うより、10代の子を救ったほうが、未来があるなんてことになってしまいます。つまり、
救いは平等ではない
のです。
救われる、ということは、ブッダやイエスではない人間の世界においては、「平等ではない」ということを覚えておくことは重要です。
それがわからないと、救われるほうも
「あいつはあんなに救われてるのに、あたしはこれだけしか救われていないからずっこいわ」
という感覚に支配されてしまい、本当ならあなたも救われているのに、それをきちんと認められない、というマイナスが生じてしまうのです。
救われるのに差異があり、差別があるかもしれないということは、「手に入れられる幸せにも、人によって違いや差異や差別がある」ということでもあります。
これまた同じ話で、「人が得られる幸せは、平等ではない」のです。これも大事です。
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救われたり、幸せを手に入れる際、それが平等ではないとすると、実は
「救われる技術」「救われる側の能力」
みたいなものがあるんだ、ということも知っておいて損はないと思います。
こういうことを書くと、また「そんなん差があるのはずっこいわ!」と言い出す人がいるんですが、まあそういう人は
「救われない」
ので、そっとしておきましょう。とても悲しいことですが、ずっこいずっこい言っている人は、なかなか救われないし、幸せになれないのですね。
なんでそうなってしまうかと言うと、幸せや救いというのは、
「自分が何を得ているか」「自分が何をプラスとして受け取ったか」
なので、 自分が手にしたラッキーやハッピーなことに対して、素直に喜ぶことができる人は、それらを積み上げてゆくことができるわけです。
小さな喜びや救いを積み上げると、いずれ大きな幸福へと繋がります。
ところが、自分に対して天からのギフトがあったり、なんらかの救いがあったにも関わらず、他人のほうがずっこいわ、ずいずいずっこいわ!としか思えないと、せっかくのギフトは加算されてゆきません。
むしろ、不満ばかりが積みあがってゆくので、ちっとも幸せにはなれないのです。
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つまり、救われる技術、幸せになる技術というのは、自分の身の周りに落ちている小さな砂粒のような「よきこと」を見つけて、拾って、貯めておける技術ということになるでしょう。
宗教2世が若くして離反するほうがいいのは、毎日わたしたちは何かを得てゆくわけなので、宗教から得るものよりも、自分の明るい未来に向かって外界から何かを得るほうがいいに決まっているからなのですが、年齢が進むにつれて
「自分が受けてきた恨みつらみ」
がどんどん積みあがってゆきますから、それをカウントしている間は幸せにはなれないのです。
宗教2世さんのツイートなどを拝読していると、けっこうこのパターンは多くて、
「自分が受けてきた宗教的仕打ちを、今も昔も恨みに思っている」
人はたくさんおられます。かなしいことですね。
それをずーっと、ずーっと、ずーっと思ったり考えたり、ツイートしたりラジバンダリしておられる方が多いのですが、きっと明日もあさっても、永遠にそうなのかもしれません。
それを不幸と呼ぶわけですね。
そうした恨みつらみや苦悩が、今は最大値・最大限吐き出していても、次第にそれが減って、1年後にはすっかり外の世界のお話に染まりましたとさ!
というのは、幸せです。
もちろん、受けた仕打ちや体験と言うのは、時間や期間にも連動するので、大変な目にあった時間が長ければ、そこから立ち直るのにも時間がかかることでしょう。
武庫川の私的計算では、
「うけた仕打ちの期間の分だけ、復活には時間がかかる」
と思っています。 ちょうどおなじくらいの期間が、救いには必要だったりするのです。
ということは、40年間ひどい思いをしてきたり、40年間なんらかの宗教に染まってきた場合は、そこから抜ける頃には下手すりゃ死んでる、ということにもなりかねません。
だから、離反するにしても、幸せを見つけるにしても早ければ早いほうがいいのですね。
この文章をみて絶望する人もいるかもしれませんが、それでも今日気付いて生き方を修正するほうが、明日気付くよりも絶対によいので、あえて書いちゃいました。
てへぺろ。
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