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2017年12月19日火曜日

正義のゆくえと告発のゆくえ ~正義に力はない、ってほんと?~



 とある女性のセクシャルハラスメントの告発と、その周囲の反応が過熱しておりますが。


 ふだん、不特定多数へ向けて、セクハラまがいの発言をブログ内で繰り返しているワタクシとしては、深く深く感じ入るところです。



 と、まあこれ以上、セクシャルな件について語ってしまうと、いろいろと墓穴を掘ってしまいそうなので、墓穴に入らずんば居士を得ず、ということで居士たるものあえて墓穴に入らないように念入りに注意をしておきましょう。


 え?虎穴?おケツ?


・・・・・・↑こんな感じでごめんなさい。






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 動揺隠せず切れ味の悪いボケからスタートしましたが、はあちゅうさんがどういう方か知らないので語る言葉を持ち合わせておりませんが、セクハラとそれに対する女子の思いというのは、すでに名作


「告発の行方」



にて、1980年代に既に議論が提示されていますので、まずはこの映画のDVDでも見てください。


 ジョディ・フォスターが、「名優ジョディ・フォスター」になった映画、とも言えますし、「なれた映画」とも言えます。「なってしまった映画」かもしれません。


 個人的には、まだうら若いフォスターちゃんがこの映画に出なかったとしたら、その後の人生の過ごし方そのものも、違っていたかもしれないと思えるほど、



「ジョディ・フォスターたる存在を形成させた映画」



であったかもしれません。知らんけど。



 映画を見ていない人には全然わからない発言だと思いますが、はあちゅうさんがらみのセクハラ問題をうんぬんする前に、1989年公開ですから、今から約30年前にどんな問題提起があったかぐらいは知っておいてよいかと思います。





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  さて、今日は、この話題からすこーしだけ逸れて、


「何がしかの問題を告発した人が、よく不利益をこうむることが起きるけれど、それがなぜか」


ということについて話をしておこうと思います。これは解脱者ならではのすばらしい視点でものを言いますので、セクハラうんぬんは別にしてお考えくださいね。



 さて、この20年ぐらいの間に、大きな内部告発事件がいくつかあって、その告発をした人や、された会社などがどうなったかは、すでに結果が出ています。



 具体的な事例については↓をご参考に。



 内部告発者の誇りと悔い ~事件後の日々を追って~
 https://news.yahoo.co.jp/feature/629






 結論からズバッと言えば、


「告発した人は一瞬ヒーローのような扱いを受けるが、そののちどん底の責め苦に遭わされる」


というのが、告発の行方の答えです。これは善悪関係ないところでの事実です。




 2017年の日本では、正義に基づいて告発した当人が、まさかの逆風に合うことや、逆に酷い目に合うことは、可能性が高いどころではなく、「そうなるのが必然」とでも言えるくらいの事実なのです。





 なので、セクハラ問題で言えば、伊藤詩織さんについても、はあちゅうさんについても、その告発内容が「正義に基づくもの」であったとしても、彼女たちにもかなりの逆風がブーメランとして帰ってくるでしょうし、すでに来ていると言えるでしょう。




 そのため、結果的には、どのような告発であっても、現在のところ告発者は「討ち死に」を覚悟させられます。加害を加えたり、非道を行っている相手も倒せるかもしれないが、自分も社会的に死ぬんだ、くらいの気概を求められる事態が起きているのが、事実だというわけです。




 なぜこうした事態が起きるのか。解脱者には明快にその理論がわかります。 今日は、それこそ何が正しい、何が間違っているという善悪の議論を抜きにして、なぜこんな不可思議なことが起きるのかをご説明しましょう。





1) まず、すべての人は「力(フォース)」を持っていて、それを自分のために行使しようとします。このフォースには、善悪はありません。よいことにも使えますが、悪いことにも使えます。実力や能力や権力といったものは「フォース」という概念で把握したり、考えたりできるのです。



2) たくさんの権力を持つ人は、フォースをたくさん有しています。会社の上司や経営者は、一般の社員よりもたくさんの実力や権力を持っていますから、100倍や1000倍くらいのフォースを持っていると思ってかまいません。なお、ここには人格のあるなしも無関係です。人格者がフォースをたくさんもっていて、悪人はフォースが少ないとかも関係なく、すべての人が「フォースをたくさんもっているか、あまり持っていないか」に分けられます。




3) フォースそのものには色がついておらず、善でも悪でもありません。ですが、良いことにも使えるし、悪いことにも使えます。

 たとえば、部下のおねえちゃんのおっぱいを触るためにフォースを発動させることもできるし(←悪いこと)、部下のおねえちゃんの処遇や立場を引き上げるためにも使えます(←よいこと)




4)企業経営や運営、会社員としての仕事、あるいはライバル会社との競争など、社会における大半の活動にはフォースが使われます。専業主婦同士のマウントにも使われるし、ツイッターの影響力にもフォースが関係してきます。

 たとえばフォロワーが多ければ、それは案外単純に「たくさんのフォースを持っている」と捉えることもできるでしょう。

  そして、ほとんどすべての社会活動は、「フォースを集め、フォースを使い、フォースで相手のフォースを凌駕する」ということで成り立っています。

 たとえば、A社の持つフォースが大きければ、B社より仕入れ値段を下げさせることが出来て、安くモノを売ったり、シェアを広げたりできます。





5)告発をするということは、このフォースについて「ある人物や企業が、フォースを悪いことに使っています」とバラすことです。ただ、これは、小学生のAさんがBさんに対して「いっけないんだ~、いけないんだ~、先生に言うてやろ~」というレベルとはわけが違います。

 小学生のAさんとBさんが持っているフォースは、単位で言えば10くらいで、どちらもおなじ10とか11とかのフォースですから、AさんがBさんを告発しても、フォース対フォースの戦いは、ほぼ互角です。

 ところが、企業や上司は、あなたよりも1000倍とか10000倍のフォースを持っていますから、その大きさのフォースを悪事に使われると、こっちはたった1000分の1のフォースしか持っていないので、太刀打ちできません。





6)大きいフォースを持っている相手というのは、そのフォースをもちろん良いことにも使えるので、悪事をした自分をかばうために、周囲に言うことを聞かせるためにも使えます。

 これは悪事を隠すためなので、一見すると悪いことですが、第三者から見ると、自分の条件をよくしてくれることなので「良いこと」として捉えられます。具体例を挙げるならば、”告発者を排除する代わりに、あなたの処遇を上げてやろう”と言われれば、第三者から見ると、自分にとっては「良いこと」に見えますよね。





7)ということはつまり、告発者と被告発者は、正義の大小で戦うのではなく「フォースの大小」で戦うことになるわけです。

 すると当然、告発者のほうが、たいていは「フォースの所有量がそもそも少ない」ので、負けてしまうことになります。




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 これが、基本的な告発の構造で、「告発のゆくえ」は、「フォースの大小で決まる」と言ってよいでしょう。


 我々は、不義を見つけると


「正義は我にあり!」


とつい思ってしまいます。もちろん、それでも全然いいのですが、


「フォースは我のほうがあり!」


でなければ、返り討ちにあうわけです。



 では、どうすれば告発を成功させられるのでしょうか。それは、”自分のフォースを増やすこと”に他なりません。

 今回の出来事で言えば


#metoo


のハッシュタグの物量と、話題に同調してくれる人数の多さがフォースとなるわけです。




 はあちゅうさんの場合は、多数の「正義への同調」というフォースを集めることに成功しました。しかし、自分を攻撃する「逆のフォース」もたくさん生まれてしまい、それに返り討ちを食らっている最中でもあります。




 セクハラはいいのか悪いのか、という正義の大小ではなく、「フォースを集められたほうが勝つ」「逆フォースに耐えられたら勝てる」という事態に陥っているのが、現状ですね。





 正義そのものには、実は力はありません。




 正義が集めてくる「フォース」に力があるので、まるでドラゴンボールのように


「オラにみんなの元気を分けてくれ!」


とパワーが集ってきた時にこそ力を発揮する、というわけです。


 めっちゃ正義、バリバリ正義、誰がどういおうと正義、があったとしても、そこにぽつんと横たわっているだけでは、正義は発動しないのはそのためです。




 正義を発動させ、執行するにはまずフォースをたくさん集めたほうがいい。




 そんなことを教えてくれるのが「踊る大走査線」でした。



 室井さんはなぜ偉くならなくてはいけないのか。



 室井さんの生き様こそが、



正義の執行よりも先に「フォースの収集」こそが大事だ



ということを教えてくれるのですね。








 

2016年9月18日日曜日

【解脱者、セカイを語る 3】 キミたちが思い描いた理想は、まやかしで誤りだ! ~セカイは必ず破滅へ進む~




 前回のお話は、「セカイの文化文明の発展は、ピークを迎えている」ということでした。


  私たちは、「成長し、より良くなり、より発展し伸びることは正しいし、正義だ」と考えてきましたが、ピークを迎えたが故に、



「思っても見なかったことがわかった」



という場面に遭遇していることも事実です。



 2つの例を挙げましょう。



 長生きすることは良いことで、すばらしいことだと私たちは思い続けてきました。


 ところが、いざ長寿世界一になってみると、フタを開けたら介護の問題やら、医療費の高騰やら、寝たきりやら認知症やら、


 長生きすることがピークまで行ったことで判明した弊害


がどんどんと増えてきていることに気付かされています。


 これに対する答えは


 スウェーデンにはなぜ「寝たきり老人がいないのか」(現代ビジネス)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/45510


という記事を読めばすぐにわかります。




 簡単に言えば、「長生きは善ではない、適当なところでポックリ逝くのが真の幸せだ」ということなのです。


 発展し、伸び続けることは善ではなかったのです。それよりも、子孫を残して次の代へ早く繋ぎ、子孫を繁栄させることのほうが大事だった、といいうわけです。





 もう一つの例は「核」の利用です。


 最強の兵器、核兵器に行き着いてしまった今、この兵器はまともに使われることはありません。

 放射能による影響を含めて、「とんでもないこと」になるのがわかっているからです。


 それどころか、原子力発電所から出たゴミを埋めるだけで


 10万年管理


しなくてはならないことまでわかってきました。



 ちなみに10万年といえばホモ・サピエンスが現世人類へと進化した期間と全く同じです。



 人類の全ての歴史をかけてまで、「核」を利用するべきなんだろうか?


というものすごい問いがそこにあるのですが、セカイはみなそれに目をつむっているのです。



 
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 この2つの例以外にも「これまでに良いとされていたことが、実は悪かった」ということは山ほどあります。


 それほどまでに、善悪というのは定義できない難しいものなのです。



 

 さて、それでは今日の本題に入りましょう。前回の終わりに、これからの時代は「ハルマゲドンで末法だ」ということをお話しました。第一回では「宗教に絡んだ対立が深まる」ということもお話しました。



 そしてこの第三回では、



 これから起きるであろう、世界の動乱



について語る、と予告していましたね。いよいよ、そのお話をしましょう。




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 私達が思い描いていた理想の姿、「セカイ平和・平和なセカイ」とはどんなものだったでしょうか?


 ワタクシ武庫川は今日のタイトルで、「理想はまやかしで誤りだ。そして破滅へ進む」ということを大々的に書きましたが、果たしてそれはどんな意味なのでしょうか?



 現在の日本の教育では、「世界はグローバル化していて、若者はこれから世界に出てどんどん活躍して欲しい」とか、「世界中がみな仲良くして、平和な世界を作っていこう」とか、そういう理想論が今日も語られています。


 しかし、現実は、ちょっと違います。今世界で起きているのはその理想とやや異なった現象なのです。



 ある国の人間が、別の国の人間を自国に迎え入れる時は、そこにかならず「そいつは使えるかどうか」ということが裏に隠れています。


 アメリカには面白い制度があって、日本人であるあなたがアメリカで働きたいときに、まず「優秀で何らかの技能があるからアメリカで活躍したい」と考えたとしましょう。すると、アメリカではこんな審査をするというのです。


「もし、アメリカに、同じ技能を持つ人間がいて、国内で人材が事足りる場合は、就労を認めず入国させない」


という審査です。



 わかるでしょうか?あなたが「使える人材であればOKだが、そこらへんにいるアメリカ人でもいけるなら、アウトだ」ということなのです。



 この考え方はとても大事ですから、覚えておきましょう。



 異国で働くということは、すべて根底にこの考え方があり、これがグローバルであることの真実なのです。


 逆に言えば、ヨーロッパで起きている移民問題は、これの変形バージョンだといえるでしょう。


 つまり、こうです。


「あなたが、国内の人間よりも格安で使える人材なら、来ていいよ」


ということ。それが真実です。


(ちなみに、日本に出稼ぎや研修生で来ているアジア人の給料はおなじ仕事をしている日本人の3分の1です)



 なので、「グローバル社会」とか「他の国の人と仲良く」といった表向きのことばの裏には、「海外や外国人から搾取し、格差を生む」という実態が隠れている、ということなのです。



 こうした問題が、「移民問題や英国のEU離脱」などへと繋がってゆくのです。




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 ではここで、もし仮にセカイが「理想主義者たちの理想どおりになったとしたら」ということを妄想してみたいと思います。


 理想と現実が異なるから、グローバルなセカイはうまくいかないのでしょうか?それとも、やっぱりセカイはうまくいかないのでしょうか。


 「世界のみんながグローバルな社会になって、みんなが活躍できるセカイ」


が実現したと仮定しましょう。


 そのセカイは、たとえば


「アメリカには、白人と黒人とヒスパニックと中国人と日本人とアジア人とインド人が同じくらいいる社会」

ということになります。


(これは、意外と実現していますね。アメリカはもともと移民社会ですから、そうなります)

 
 そして、そのセカイは

「アフリカにも、白人と黒人とヒスパニックと中国人と日本人とアジア人とインド人が同じくらいいる社会」

で

「フランスにも、白人と黒人とヒスパニックと中国人と日本人とアジア人とインド人が同じくらいいる社会」

で

「日本にも、白人と黒人とヒスパニックと中国人と日本人とアジア人とインド人が同じくらいいる社会」

で、スウェーデンも、スイスも、バチカンも、インドも中国もフィリピンもぜーんぶ、


 「白人と黒人とヒスパニックと中国人と日本人とアジア人とインド人が同じくらいいる社会」


になる、つまり人種は均質化してゆくというセカイがやってくるということなのです。



 アメリカは一応それで成立しているし、EU各国でも同じようなことが起こっています。


 先進国は「それが一種の理想だ」と思っていますから、日本にも「もっと移民を受け入れて少子化対策をして、成長を維持するべきだ」という論調の人はたくさんいます。



 現に、フランスには黒人がたくさんいます。リュック・ベッソンの映画でTAXIの主人公を演じたサミー・ナセリという俳優さんは、アルジェリア系移民の息子です。

 フランスは6600万の人口のうち、700万人が移民系ですから、10分の一は既に異なる国からの来訪者が国民になっています。


 日本は1億3千万の人口のうち、200万人が外国籍ですから、1.5%くらいなので、まだ実感としてわからないだけです。



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 しかし、どの国家においても世界中の人種民族が混和して生活するようになれば、「フランスもイタリアもイギリスもみんなおんなじじゃん」ということが起きてしまいます。



 だからそうなる前にかならず「フランス人は自分たちの結束を高めて他者を排除し」「イタリア人は自分たちの結束を高めて他者を排除し」「日本人は自分たちの結束を高めて他者を排除」するようになりはじめます。


 かならず、そうなります。


 そうした傾向を、いわゆるナショナリズムと呼ぶのです。



 現に、今まさにセカイはその方向へ向かっていて、理想どおりどころか「各自の出自による対立」が深まり、争いが起ころうとしている、というわけです。




 よって、人類のグローバルな世界平和は成立しません!



 これはとっても大事なことなのです。



 さて、対立が深まり、破滅へと向かっているセカイですが、その対立にはかならず「軸」となるものが根底に横たわっています。


 これまでに


「宗教」という軸

「格差」という軸

そして、今回「人種や民族」という軸


についてちらりと触れました。



 しかし、セカイを形作っているのは、それよりももっと重要な「軸」であることがわかってきました。



 このセカイを突き動かしている軸とは、いったい何なのか。



 そして、その軸を把握すれば、セカイの動向が一目瞭然に分かり、あなたがこのセカイでどう生きるべきかがわかるという強固な軸です。


 次回は、そのお話をすることにいたしましょう。




 
 





































2016年7月28日木曜日

相模原大量障害者施設殺人事件について 〜解脱者が考える正義とは何か〜

 日本の犯罪史上、類まれというかおそらくは初めてなのではないかとも言われている相模原の障害者施設殺人事件についてですが、この事件について何の視点も置かないというのはさすがにセカイに対して失礼だと思うので、解脱者なりの言葉を書いておこうと思います。


 もちろん、たくさんの方が亡くなっているわけですから、心から痛ましく思います。


(なので、今日は真剣な眼差しで書きます)



<正義とは何か>


 今回の事件が、日本でかなり珍しい事件だと言われるのは犯人が「犯人なりの正義」をあえて大上段に振りかざしてそれを公権力にまで宣言して実行した、という点にあるのではないでしょうか。


 かのオウム事件においても、内部では「これは正義の戦いだ」という認識はあったでしょうが、事前に政府に通告してテロを起こしたわけではありませんし、池田小事件や秋葉原事件などは、「加害者の個人的な屈折」を無差別に振りかざしただけで、今回のように

「健常者である職員の命に危害は加えず、障害者のみを刺殺する」

という意図的な「(犯人なりの)正義における分別」

 は、なされていませんでした。



 とすれば、私たちは必然的に「正義って何なんだ」ということに、嫌でも着目せざるを得なくなります。



 奇しくもつい最近


ストーカーは正義である
http://satori-awake.blogspot.jp/2016/05/blog-post_27.html


などでも、この話を取り上げたし、あるいは欧米を震撼させているテロ事件などでもそうなのですが


「私たちの一般常識として考えている正義と異なる別の”正義”がたしかに存在する」


ということに、これからは嫌でも向き合わねばならない時代なのだと思います。



 こうした難しい問題に、ふつうの人は


「はなっから思考を中断して、存在を抹殺してしまう。あるいは見ないふりをする」


という行動を取ります。


 具体的に言えば、今回の事件についても


「そんな優生学的な発想はナチスと同じだから間違っている」

とか

「そもそも刺青や大麻をやっている時点で話にならない」

とか

「イカれた奴はみな死刑にすればいいんだ」

とか、とりあえず、何がしかの処理ができたようでいて、実は何の根本的解決にもなっていない言説を繰り替えすわけです。



 しかし、よく考えてみてください。


 ある人たちは、優生学は否定するけれど、妊娠中絶は大量に行います。あるいは、着床前診断などで、遺伝子に問題があれば妊娠そのものをとりやめる夫婦もたくさんいるわけです。


 この夫婦と、今回の事件の犯人の根底に流れる「正義は同じ」です。

「障害者は、この社会で生きるには大変で可哀想である」という思想に基づいて、夫婦は最初から殺人を犯しているのですから。



 この全く同じ正義に基づく議論が、今回の事件に関連して行われることはないでしょう。


 それは突きつけられると、産科医や不妊治療や、あるいは高齢出産や、女性の社会進出といったたくさんのジャンルや組織やシステムに陰を大きくする問題だからです。


 だから、みな、今回の容疑者については「最大限悪く言いまくり、それでおしまい」にすれば、見て見ぬふりができるわけです。




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




 解脱者は、そもそも正義を認めません。


 障害を持つ人は生まれるし、その方たちが社会において生きづらいことも事実でありましょう。

 だからと言って価値があるとかないとかそういう問題ではありません。


 そもそもこの世は無常です。わたしたち健常者も「価値があるというフリをしているだけで、価値なんてない」のです。


 それが証拠に、すべての人は平等に死にます。だれもが死ぬということは、つまりはそういうことなのです。


 よって、武庫川は、今回の犯人が行ったことは完全に間違っていると宣言できます。


「可哀想なのは、障害者なのではない。あなただったのだ」

「生きづらいのは障害者なのではない。あなた自身だったのだ」

「価値がないと感じられるのは、障害者なのではない。あなたそのものだったのだ」


ということを、彼が気づいていれば、慟哭し泣き叫んだかもしれませんが、 この世の無常を悟り、別の生き方をみつけたことだろうと思います。



 彼は、間違ったことに「彼の正義に執着」しました。そもそもこの世に「正義なんて存在しない」のに、それに執着したことが彼の根源的な誤りであったと思います。




 わたくし武庫川も、慟哭し、泣き叫んだ思い出があります。この世に意味があり、価値があると信じていた昔の自分が悟りを得たとき、


「ああ、この世界には実は何も意味などなかったんだ!」


との気づきに泣きました。天地がひっくり返るような心のざわめきがありました。



 
 この世界に価値などありません。



 亡くなった19人の命は、犯人1人の命で代替されるかもしれませんが、そうすると被害者の命の価値は19対1になってしまいます。


 そんなことが正義なのか?と思うくらい、正義なんてないのです。


 犯人の一族郎党19人探し出して、全員殺せば、命は償われるのでしょうか?


 それも無意味な話です。


 何をどうやっても、話が合わないのは、この世界における正義そのものが、空想に近いくらい儚いものだからなのです。


 
 

2016年5月27日金曜日

ストーカーは正義である! 〜ストーカー事件が、絶対になくならない理由〜



何度となく繰り替えされるストーカーによる殺傷事件。

今回も一人の女性が刺傷されたり、ましゃ(福山)の家に女が忍び込んだり、と悲劇が繰り替えされているのだが、



 なぜ、ストーカー事件は何度でも起こるのか! ーその答えは、ストーカーは正義だからである!


 
ということは、一切報道もされないし、指摘されることはない。





 というわけで、解脱系社会派記事をお届けしている当ブログとしては、


なぜ、ストーカーは正義なのか!?


を炎上覚悟でご説明申し上げようと思うのである。





 ちなみに、最初に断っておくが、このブログの主は、悟りを開いた解脱者(ぱっかーん)なので、誰か特定の異性に対して、


「ストーカーを行うことや、ストーキングを行うような気持ちは一切ないし、ストーカーを弁護するつもりも全然ない」


ということをあらかじめ宣言しておきたい。


 そうじゃないと、「不倫は文化だ!」と発言の一部を切り取られてしまった石田純一氏のように、本意でない発言が一人歩きして炎上してしまう恐れがあるからだ。




 そういえば、一部を切り取られてしまった弁護士がおられたが、いかがお過ごしであろうか。





 なので、炎上しないように、何度も繰り返し述べておこう!




「ストーカーは正義だ   (と加害者は思っている)」


「ストーカーは正義だ! (加害者目線では)」


「ストーカーは正義だ!!!!(と加害者は妄想している)」



 これで、ばっちりのはずである。



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 さて、悲しいかなストーカー事件は、これまでもこれから無くなることはない。なぜなら、ストーカーは正義だからである。



 一般的には、ストーカーは次のような心理パターンを取ることが多いとされている。


① 元親しい人や、親しいと思っている人から拒絶されたことによる復讐型。

② 親しくなかったり知らない人に対して、攻撃を行う憎悪型。

③ より親しくなろうとして度を越した行動を起こす親密希求型。

④ 人格障害などの病気のせい。



 しかし、こうした分類よりも着目すべきは、すべてのストーカーが「自分は正当な行為をしている」とか「自分は間違っていない」と考えている点ではなかろうか。



 そうなのである!


 ストーカーは、たとえば親しいあるいは親しいと思っていた人に理不尽な拒絶をされ、「どうして自分が悪者や忌避扱いされないといけないんだ!」と憤慨しているのである。



  ちょっと、想像していただきたい。



 あなたがこれまで友人や同僚だと思っていた女性から、


「うわ、まじキモいんだけど~。近寄らないでほしいんだけど~」


と突然言われたとしよう。 たぶん、すべての男性は、変態マゾヒスト以外の全員


「ちょ、ちょっと待て!なんで俺がそんな風に言われなあかんのや!」


と思うに違いない。


そこ!そこのあなた!それがストーカーなのです!!!!!


 ましてや、そんなことを言われると、さらにあなたは憤慨することだろう。そして、


「なんでや!ちょっとその理由とか、キモいだの言われる意味がわからんから説明しろや!」


とちょっと詰め寄ったりなんかしちゃうのである。するともう、つきまとい扱いなのだ。



 こんな状態に陥ったら、あなたはとても理不尽に思い、「自分は悪くない、相手が何かおかしい」と思うようになる。



 つまりである。



 ことの次第はともかく、ストーカーは↑のように考えていることがわかるだろうか。



 彼にとっては、自分は「正義で正しい話をしているだけで、当方が悪だなんてこれっぽっちも思っていない」ところに女子たちと完全に意見の相違があるのだ。



 このことを解決しない限り、ストーカー問題は絶対に解消しない。




 このストーカーからみた理不尽さが、外部の人間にはわかりにくいことも、話をややこしくしている。なぜなら正義は多面性を持つからだ。



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 今回のシンガーソングライター刺傷事件に対して、あるアイドルがこんな主張をした話が出ている。



「アイドルを一人の女子と見るのではなく、アイドルと見るべきだ。アイドルはあなただけのものではないし、あなただけに接しているわけではない。アイドルに嫌がらせをしているあなたはもうファンではない。アイドルは関わっているみんなで作っている商品である」


と。


 もちろん、これは正義正論である。


 アイドルはお金をもらって偶像を売っている商売なのだから、そのルールに逸脱して本当の恋愛になってはいけないとか、特別扱いしてはいけない、というのはたしかにアイドルの側から見れば正論に他ならない。



 ただ、正義正論で話を通そうとすると、今度は顧客の側にも正論が出てくることになる。


「だとすれば、アイドルはいかなる場合でも笑顔で応対すべきであり、すべての贈り物を有難く受け取るべきであり送り返すなどもってのほかである。逆に言えば、特定の個人を排除するなど、顧客に対する差別である。私はよろこんでもらおうと通いつめているだけであり、それ相応のお金も払っているし、それを嫌がらせだなんて錯誤もはなはだしいし理不尽である。」



と、ストーカーはまじめに考えている。正義はワレにあるのだ!と。




~~~~~~~~~~



 この話は、宗教とおなじである。どちらが正義かで話を戦わせれば、議論は尽きないし終わらない。あるいは議論をしようとしている人間に対して強制的に議論を打ち切れば、彼は「議論」以外の何がしかの力を持ち出そうとするであろう。


 これは国家間の戦争のはじまりも全く同じである。話し合いで解決なんかしないから、武力が飛び出すわけだ。


 


 そうすると、もしアイドルが刺されないようにしたり、恋愛でストーカーを生じさせないように防衛するとすれば



「このアイドルは擬似恋愛を楽しむ商売であって、触れそうで触れず、心が通じそうで通じないという風流さを楽しむごっこ遊びです。そのベースとなるのは、お金です。お金とハートが入り混じり、運営側の営利と、ちょっとした虚栄心と華やかさ、それに顧客の一時の誤解に基づくハートフルな気持ちのバランスを楽しむ商品ですので、のめり込みすぎにはご注意ください」


とテレビの画面やCDに書くべきであって、


「あなたとの恋愛は、たまたま最初はいいなと心が通じ合うような気持ちになるかもしれないけれど、そのうちに冷めたり心変わりもあり得るという微妙な乙女心を十分に理解した上でお付き合いください。今日はラブラブだけれども、明日にはキモいとかクサいと思ったりしちゃったり、もうマジでウザいんだけど、という変化もあるかもしれない危ういものだとわかったうえで、そんな我侭も受け止めて、つ、つきあってください!」


と言うべきなのだ。




 消費者庁の指導によれば、優良誤認を起こさないように、小さい字で隅っこにちゃんと書いておけ!となっているわけで、アイドルも商品なんだから書いておくべきなのである。




 しかし、そこはホレ。その部分をなんとかごまかしながらお金を動かしてゆきたい、というのが資本主義なので、そこにはストーカー君の正義は無視されてしまうことになる。


 あるいは、口ベタで純朴なオタク男子の心はもてあそばれちゃったりするわけである。



  先日、小学生のケンカで相手が亡くなる、という惨事があったようだが、小学生にしてみれば


「お前なんてぶっころしてやる!」


と思えば、本気で殺そうと思っていることは間違いない。それはジャイアンにいじめられたのび太も


「あいつを殺してボクも死ぬ!」


となんどもドラえもんに言いまくっているくらい、そうなのだ。




 その小学生くらいのコミュニケーション度しかない、大きなお友達が、本気で恋してしまったら、それはもう殺意だって本気に他ならない。



 私くらいの解脱者になれば




「女なんてしょせんクソ袋である」

※by 『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』 魚川祐司・新潮社





というブッタの言葉が心から理解できるため、クソ袋に本気にはならないのだが、小学生で止まっている大きなお友達には、そういう「達観」は無理なのである。




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 というわけで、ストーカー事件は今のところ絶対になくならないのだが、もし本当にストーカーをなくそうと思ったら、ストーカーが抱いている正義を破壊しなくてはいけないということだ。


「これこれこういう理由で、あなたが正義だと思っていることは、客観的にはそうではない」


ということを理解させるよう、諌めることができる存在がいなければ、彼は最後まで正義を貫こうとするであろう。



 そして、この役目ができるのは、被害者サイドについているものではない。なぜなら、正義の執行者から見れば、「被害者側からグダグダ一緒になって言うやつは、正義の反対、つまり悪」だからである。


 ということは、できればこの諌め役は、ストーカー側の人間か、もしくは中立公平な立場の人間しかいないということになる。


 たとえば、ストーカーにとっての親兄弟は、この諌め役になれる可能性があるだろう。しかし、中立な立場でこれを実現できる人間はなかなかいないのが実情だと思われる。


 たとえば裁判官か?


 たとえば民生委員か?


 たとえば卒業学校の元恩師か?



 まあ、誰もそんな役はやりたくないわな。



 だから明日もまた、誰かがストーカー被害に逢うだろう。と預言者は高らかに述べるのであった!