最近、突然このブログのアクセス数が増えているので、アセアセしている武庫川散歩です。
セケンに隠れてひっそりと生息していたのに、見つかってしまった感が否めません。
さて、今日のお話。久しぶりに本来の「悟り」についての内容です。
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これまで、このブログでいろいろと書いてきた通り、基本的に武庫川散歩の悟りというのは、
「どうせこのセカイは存在しないに等しいのだから、存在すると感じていることを楽しもう」
ということになるのですが、仏教では、前半部分だけで留まっており、後半部分について
「執着するな」
と諭します。
執着しない、というのは難しいところですね。
「捨て去れ、いますぐそこから離れろ、やれーっ!おおわだー!」
という風に、アグレッシブに「執着しない」とすると、結局は
「氏ね」
ということになります。
ところが、非積極的にだらしなく「執着しない」と捉えるならば
「どうでも、ええんちゃう?好きにしたら」
というニュアンスになります。なので、この部分をポジティブに変換すると
「楽しんぢゃえば、いいんじゃない?」(猫の恩返し風に)
ということになるのです。
武庫川散歩の悟りは、この「存在しないに等しい世界なのに、せっかく存在するように感じてるんだから、それをまったり味わおう」ということですから、
すべての与えられたものに、心地よく感謝する
姿勢になります。
「え?そんなもうすぐ帰りますからいいですよ。お茶菓子なんて、おかまいなく!気にしないでくださいよ!もう!やだなあ!」
という感謝の気持ちです。
そもそもお茶菓子が出るなんて期待していない(世界は存在しない)のに、お茶菓子が出るわけ(世界が存在するように感じてしまうボクたち私たち)ですから、
「なんだか嬉しいなあ!」でもいいし
「超ラッキー」でもいいです。
「かたじけない」でもいいので、
とにかく感謝の気持ちが湧いてきます。
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これって、実はキリスト教の発想と同じなんですよね。全ては無である、という仏教的志向パターンから現実の世界を認知すると、キリスト教的発想と似てくるというわけ。
キリスト教では、
「このセカイの全ては、神様から与えられたもの」
ということになります。これは、ユダヤ教でも、イスラム教でも同じですね。
キリスト教では、人類はアダムとイブの時点で「原罪」を犯していますので、そんな罪深い私たち人類でも神は愛してくれている、なんてすばらしいんだ!という発想になります。
まるで、浮気をしたのに、嫁はんが別れずにずっと添い遂げてくれるようなもんです。
「そんな罪深い俺なのに、嫁は愛してくれている!」
・・・え?なんか違う?
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話は逸れましたが、ようするにキリスト教的な「神の愛」というのは、人類サイドから見れば、
「私たちが生かされている喜びを味わう」
ということにほかなりません。ほらね、なんだか最初の話に似てくるでしょ?
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私たちが生きてゆくうえで、どんな宗教や考え方に寄り添って生きてゆくかは自由です。
好きにしはったらよろしおすえ
武庫川散歩的には、無からはじめてこのセカイを捉えていますが、キリスト教のように唯一絶対神から捉えてもかまいません。
ほんまに、好きにしたらええんどす。
うーん、今日はあんまりまとまらなかったのは、暑さのせいだと思います。
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