2014年8月7日木曜日

<14>キリスト教の「愛」と仏教的「悟り」 

 最近、突然このブログのアクセス数が増えているので、アセアセしている武庫川散歩です。

 セケンに隠れてひっそりと生息していたのに、見つかってしまった感が否めません。


 さて、今日のお話。久しぶりに本来の「悟り」についての内容です。


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 これまで、このブログでいろいろと書いてきた通り、基本的に武庫川散歩の悟りというのは、


「どうせこのセカイは存在しないに等しいのだから、存在すると感じていることを楽しもう」


ということになるのですが、仏教では、前半部分だけで留まっており、後半部分について



「執着するな」


と諭します。




 執着しない、というのは難しいところですね。


「捨て去れ、いますぐそこから離れろ、やれーっ!おおわだー!」


という風に、アグレッシブに「執着しない」とすると、結局は


「氏ね」


ということになります。


 ところが、非積極的にだらしなく「執着しない」と捉えるならば


「どうでも、ええんちゃう?好きにしたら」


というニュアンスになります。なので、この部分をポジティブに変換すると


「楽しんぢゃえば、いいんじゃない?」(猫の恩返し風に)


ということになるのです。


 武庫川散歩の悟りは、この「存在しないに等しい世界なのに、せっかく存在するように感じてるんだから、それをまったり味わおうということですから、


 すべての与えられたものに、心地よく感謝する


姿勢になります。


 「え?そんなもうすぐ帰りますからいいですよ。お茶菓子なんて、おかまいなく!気にしないでくださいよ!もう!やだなあ!」


という感謝の気持ちです。


 そもそもお茶菓子が出るなんて期待していない(世界は存在しない)のに、お茶菓子が出るわけ(世界が存在するように感じてしまうボクたち私たち)ですから、


「なんだか嬉しいなあ!」でもいいし

「超ラッキー」でもいいです。

「かたじけない」でもいいので、


とにかく感謝の気持ちが湧いてきます。


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 これって、実はキリスト教の発想と同じなんですよね。全ては無である、という仏教的志向パターンから現実の世界を認知すると、キリスト教的発想と似てくるというわけ。


 キリスト教では、


「このセカイの全ては、神様から与えられたもの」


ということになります。これは、ユダヤ教でも、イスラム教でも同じですね。


 キリスト教では、人類はアダムとイブの時点で「原罪」を犯していますので、そんな罪深い私たち人類でも神は愛してくれている、なんてすばらしいんだ!という発想になります。



 まるで、浮気をしたのに、嫁はんが別れずにずっと添い遂げてくれるようなもんです。


「そんな罪深い俺なのに、嫁は愛してくれている!」


・・・え?なんか違う?


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 話は逸れましたが、ようするにキリスト教的な「神の愛」というのは、人類サイドから見れば、


「私たちが生かされている喜びを味わう」


ということにほかなりません。ほらね、なんだか最初の話に似てくるでしょ?


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 私たちが生きてゆくうえで、どんな宗教や考え方に寄り添って生きてゆくかは自由です。


 好きにしはったらよろしおすえ


 武庫川散歩的には、無からはじめてこのセカイを捉えていますが、キリスト教のように唯一絶対神から捉えてもかまいません。


 ほんまに、好きにしたらええんどす。


 うーん、今日はあんまりまとまらなかったのは、暑さのせいだと思います。


 




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