ところで、仏教を学ぶ人は、どうして修行をするのでしょう。
座禅を組んだり、掃除をしたり、瀧に打たれたり、荒行をしたり。いろいろな宗派ややり方があるにせよ、何がしかの修行をして、お釈迦さまに近づこうというスタンスは仏教に共通なことのように思われます。
しかし、これまた有名な話ですが、ブッダ・お釈迦さま自身が「いろいろな修行や苦行に身を投じてみても、全部あかんかった」と確信し、「こんなことしてても無駄だ」とお思いになったのです。
ということは、ぶっちゃけて言えば、修行は無駄ということでもあります。
それなのに、世の中の仏教を学ぶ人は、やっぱり無駄と知っていても修行してしまいます。それはなぜかといえば
「お釈迦さまがやったように自分もやってみたら、悟りが開けるかも」
という期待とお手本によって、その真似をしているということになるわけです。
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というわけで、経済的解脱・経済的悟りを得るために、私たちもお釈迦さまの真似をしてみようと思います。
前回、煩悩とは消費だと言いましたが、煩悩を捨てるために苦行をするというのは、消費をしないように頑張ってみる、ということに置き換えることができるかもしれません。
消費をしない苦行、考えるだけでいろんな荒行が思いつきそうですね。
「住居を持たず、家賃を払わない」
「何も買わず、何も食べない」
「服を買わない。バッグも買わない」
「・・・つまり、全裸で野ざらし。消費をしないので、狩猟採集で生きてゆく」
・・・。
・・・。
・・・解脱うんぬんの前に、野獣やないかーい!!!
消費をまったくしない、何も買わない、というのはそういうことです。野生に従って生きてゆくということですから、荒行好きやマゾな方にはいいかもしれませんが、こんなことをいくら繰り返しても幸せにはなりそうもありません。
そう!ブッダ・お釈迦さまもそういうことを言いたいのです。
消費を捨てろ!(煩悩を捨てろ!)というのは、何も買うなということではない。
そうではなくて、そこから一歩奥深いところにある真理があるのです。それは何か?
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お釈迦さまは、そうした荒行・苦行・修行が「無駄だ」と気付いて、死に掛けて横たわっているときに、スジャータ・めいらくのスジャータ♪が現れて、一杯の乳粥を施してもらって息を吹き返します。
そして、ついに悟りを得るわけです。
経済的解脱・悟りにおける「乳粥」とは一体なんのことでしょう。経済的解脱・悟りにおけるスジャータとは何のことだというのでしょうか。
ブッダが体験したことは、「誰かに何かを与えられて、命をつないだ(元気になった)」ということでした。
経済的解脱・悟りにおいては「与えられること」と「必要なものを摂取すること」はとても大事なことだ、と言い換えることができるでしょう。
あなたには今、仕事があるでしょうか?仕事を与えられているということを思い出しましょう。
あなたには住まいがありますか?住居を与えられているということを感謝しましょう。
あなたはご飯を食べないと生きていけません。食べ物を買うことは必要なことです。
なんとなくわかってきましたか?
そうです。経済社会において「必要なものを買うこと」はけして単なる消費ではありません。経済学的には、そうしたものを買うことは明日への投資と考えられています。一日の休養と十分な栄養がなければ、次の日の労働が行えないからです。
そして、経済社会においては、親が残してくれている資産や、あなたに与えられている環境は、とても感謝すべきものです。
親が貧乏なので大学へ行けなかったり、産業が衰退して仕事がなかったりすることはどこにでもあります。
あなたは「何かを与えてもらっている」ことに気付くべきです。
さあ、これで、悟りへの下準備は整ってきました。
①108つの消費・浪費をやめる。
②必要なものは投資してかまわない。
③与えられた環境に感謝する。
この3つが、あなたを経済的悟りへと導いてくれます。
(つづく)
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