2014年10月16日木曜日

「悟り」の正体 解脱に隠された真実?!

 めっきり秋めいて参りましたが、皆様におかれましては益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。


なーんて、たまにはかしこまっちゃったりしてみましたが、性に合いませんな。


どうも、今世紀最弱の解脱者、武庫川散歩(厄年)です。




 さて、このブログのテーマは、「悟り」です。というわけで、このセカイにおいて、最弱解脱、魂の全裸を目指して日々活動しているのですが、今日は「悟りの正体」について書いてみましょう。



 結論から言いますが、悟りというものは、ものすごく不公平なものです。仏教でもキリスト教でもイスラム教でも、そもそも宗教というのは大変に不公平なもので、


「信じるものしか救われない」


という側面があります。


 誰でも救われる(可能性がある)という概念が出てきたのは、仏教では浄土系の後(悪人でもいけるよ)とか、キリスト教ではルターの宗教改革以降ということになりましょうか。




 まあ、それは横に置いておいて、この不公平な悟り、から話を進めてみましょう。




 ここで問題を出します。


”水子は悟りを得ることができるか”


 悟りというのは、結果的には不公平(悟りを得られる人と得られない人がいる)わけですが、そのスタート段階では果たして平等にチャンスがあるのでしょうか?


 人は生まれて、生きてゆく中で解脱を得て幸福になるチャンスを誰もが持っている、と仮定したいところですが、そこで先の問題がカギになるわけです。


 水子は悟りを得ることができるか、ほんの赤ちゃんが悟りを得ることができるか。そういう状態を仮定すると、


「あれ?これはどう頑張っても、水子や赤ちゃんのまま死んでしまったら『悟りを得るチャンス』がなさそうだ」


ということになりますね。


 もっと言えば、もう少し成長していても、悟りを得る前に「不慮の事故で死んでしまったら」どうしたらいいのでしょう。その死は本人の責任とは無関係なのですから、そのせいで「悟れない」「悟りを得るチャンスを失う」としたら不公平ですね。



 となると、悟りを得られる・得られないという結果論としての差の前に、そもそも「悟りを得るチャンスを得たか、得られないか」という差があるということに気付きます。


 これを突き詰めると、


「人は生まれながらにして、悟りを得られるチャンスがあるものと、そうでないものに分かれる」


ということが成り立ちますね。


 これは大変に不公平な話です。


~~~~~~~~~~~



 なんてこった!どうしてこんなにこの世は不公平なんだ!


と、怒りを覚えたあなた。そこが悟りへの第一歩です。どうしようもなく、この世はそもそも不公平である、という事実はすなわち


「無常観」


に直結します。


 そう、この世は無常なのです。どうしようもないのです。これが悟りへの前段階。


 この世がどうしようもない腐った大人たちの世界であるとするならば、尾崎くんであれば盗んだバイクで走り出すところでしょうが、そんなことをしても、やっぱり何も解決しません。



 さて、話を戻しましょう。そんなどうしようもないセカイですが、あなたが今この文章を読んでいるということは、なんと素晴らしいことに、今この瞬間不慮の事故や病で


「死んでない」


ということを示します。ラッキーですね!あなたは今死んでない!だから悟りを得るチャンスがある方の人だということです。


 悟りを得るチャンスすらない人たちがいるなかで、あなたはチャンスがあるほうの人なんです!


 まさにラッキー!


・・・これが、悟りの本質、真の姿です。


「自分には悟りを得られるチャンスがある」ということに気付くこと、それに気付いた瞬間が、「悟り」そのものなのです。


 つまり、自分には生まれながらにして幸運であったり、チャンスがあったり、与えられているものがすでにあるという、と気付くことが「悟り」の本質なのです。



 まだ、ピンと来ていない人も多いことでしょう。なんでそれが解脱なのか、と。


 先ほど説明したとおり、この世界はもともと無常です。その中でいま自分が生きているというそもそもの根源的ラッキーに気付くことができれば、それ以上のものはすべて「余剰の幸福」ですので、追い求める必要はありません。


「あなたはすでに、水子よりラッキー」


なのですから、そこを実感できたら、誰かさんのように「生きてるだけで丸もうけ」ですよね?


余剰の幸福をさらに追い求めることが「煩悩」です。あんたは、すでにラッキーなのに、まだ欲しいのか?なんて欲深いんだ!というわけですね。


「生きてるだけで丸もうけ」の境地にたどりつけば、煩悩は要りません。


煩悩を捨てる、なんていいますが、もともと「捨てる」必要なんてないのです。欲は余剰のものなのですから。


~~~~~~~~~~


 これが、解脱・悟りを得て幸福な状態になる、ということです。既に自分がある、ということをそれだけで喜びとできることが解脱した状態なのです。





 とは言え、ここからは少し別の見地でお話しますが、仏教というのは、なかなかに「金持ちの論理」ではありますね。


 考えてみてください。飢えやら戦争によってズダボロになっている貧しい民がいて、その人たちに「すべての欲を捨てなさい」と言うやつがいたら、かなりのドSです。ひどすぎます。


「ふははは、お前たちの境遇は無常なのだ~。すべて無意味で死んでしまえばいいのだ~。何も欲しがるな~。全部無駄だ~!」

と叫んでいるやつがいるのです。ひどいヤツです。



 というわけで、仏教の論理はもともと「王様の出」であるシャカの論理らしく、


「自分は既に持っている、与えられている、その幸福に気付く」


という悟りであり、それは「金持ちの論理」なのです。だから、もう何もいらないわけです。(余剰のものに執着しない)




 ところがです!



 もともと砂漠の民の宗教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教になると「食べ物がない、水がない」という地域ですので


「渇望の宗教」


と化します。


 一言でいえば「与えて欲しい!くれ!」ということです。


 救われたい!神の王国へ招かれたい!約束の地を与えて欲しい!イスラエルという国が欲しい!最後の審判で選ばれたい!


 とにかく、基本は「飢えてる」んです。


 飢えてますから、逆に「与える」ことも必要です。キリスト教が愛の宗教なのは、基本飢えてるから、持っている者が持っていないものに「愛を分け与えないとダメ」なのです。


 だって、死んでしまいます。飢えてるんだから。ちょっとぐらいやれよ、あいつにも、ということです。




 日本人は、どちらかと言えば、「すでに持っているほうのジャンル」です。海もある、山もある。魚や作物は基本的に採れるし、豊かな雨(水)がある。


 金持ちなんです。日本人は。だから渇望せずに、余剰のものはいらないよね?十分満足だよね?ということになります。



 神道の場合は、悟りによる救いや、神の救いをまったく想定していません。


「常に現世で五穀豊穣、子孫繁栄でハッピー」


な宗教です。平和でよかったですね。




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