世の中の人たちの「占い」に対する希望や需要というのが、ものすごく多いと知って、多少驚いている武庫川散歩です。
ぎょええええ。
へーほーふうん、そうなんだ。とさらっと思っていたのですが、よく考えると
「占い師」
と
「預言者」
と
「予言者」
は似ているようで、全く違うんですな。当たり前だけど、ついでに「解脱者」も仲間に入れてほしいのですが、話がややこしくなるからやめておきましょう。
ちなみに、もう一度確認しておきます。
「占い師」というのは、お箸でもトランプでも花札でもいいのですが、何か道具を使って「未来を占う」ことを実行する人のことです。
え?あれお箸じゃないの?トランプじゃなくてタロット?へーそーなんだー。
基本は占いの結果を出すのは「神様の領域」ですから、それが道具を通じて具現化され、またまたそのデータから相手にふさわしい言葉に変換して伝える、というのが占い師の主な役目です。
「預言者」というのは、神様からのお告げを預かる人です。古代政治のミコさんなんかもそうですね。
「・・・神はこれこれこう申しているぞよ」というお姉ちゃんは預言者の一種です。ついでに、聖書に出てくるモーセとかも預言者です。
「予言者」は未来のことを言っちゃう人です。
「西暦1999年の7の月に、滅びがきますよ!」とか、「30年以内に、大地震が来る確率は・・・」とか、ああ、これは違いますね。
というわけで、似ているようで3者は全部ちょっと違います。
ちなみに、私は神からのお告げは預かっていないし、別に未来予報師でもないのですが、占いくらいはできますよ。
ほれ、そこらへんにあるお花を摘んで来てですね。あの人が自分のことをどう思っているか占うわけです。
「好き、きらい、好き、きらい、好き・・・・」
女子なら一度くらい試してみた経験があるでしょう。このように「占い師」になることは別に特別に難しいことではないわけです。
==========
さて、つまらぬ前置きはこれくらいにして本題に入りましょう。ワタクシ武庫川散歩は、「絶対に当たる占い師」として有名です。なんなら、ひとつ占ってしんぜましょう。
「・・・むむ。むむむむ。わかりました。あなたの未来を占いました。あなたは確実に死にます。そう、あなたは、絶対に死ぬのですババババーン!」
少なくとも、この占いに関しては的中率100%です。・・・え?そうじゃなくて?もう少しマシなヤツ?
じゃあ、乳児死亡率がどれくらいあるかとか、同世代の終身結婚率がどれくらいあるかを基にして占ってみましょうか?
成人男性の5人に1人は結婚できません。とか。ぜんぜん行けますよ?その手の占いは得意です。
・・・・・・・。冗談みたいに言ってますが、たとえば占いの中でも手相とか、姓名判断というのは、それ専門の占い師に聞いてみてくださいな。
「あの、どうして手相は当たるんですか?」
「ふほほほ、これはなお嬢ちゃん。占いとはいえ統計学なのだよ。それはそれは何千年もの昔から、この手相の人はあーなってこーなったという記録をつけたエラーい占い師が、統計を基に生み出したものなので、だから当たるのじゃ。」
と答えてくれるはずです。そうです。彼らは統計学という科学を元にしているからこそ、占いはしっかり当たるのだと答えてくれるのです。
と、いっているそばから、お嬢さんが1人私のもとへやってきました。
「あの、どうして武庫川散歩さんの、結婚できるか占いは当たるのですか?」
「ふほほほ、これはなお嬢ちゃん。占いとはいえ厚生労働省の白書に基づいた統計学なのだよ。それはそれは戦後から歴代の統計処理班が、国民のうち結婚できた人が何人いてできなかった人が何人いたかを数えたので、だから当たるのじゃ」
というわけです。
==========
話が脱線しました。ここまできてまだ本論じゃないというのだから驚きです!
さて、気を取り直していきましょう。私は解脱者ですから、占いの結果がどうのとか、そんなちんけなことは言いません。
繰り返しますが、人はかならず死ぬのです。どんな道順を選んだとしても、最後は死ぬのです。
だとすれば、そのひとつひとつの途中のコマの良し悪しで悩んだりしてはいけません。そんなことはどうでもよろしい。
今の彼があなたにふさわしいかどうかなんて、どうでもいいのです。あなたにふさわしいのはこの僕です!!!!
就職試験がうまくいくかどうかなんてどうでもいいのです。あなたを待ち受けている上司はブラック上司なのですから!!!!
希望の大学に入れるかどうかなんてどうでもいいのです。あなたはそこで、一生を台無しにするあんな女に出会ってしまうからです!!!!!
自分がどんな生き方をしたらいいかなんてどうでもいいのです。占い師に頼ってないで、自分の力でたちあがれええええ!!!!!
・・・・はあはあはあ。
解脱者でもあり、占い師でもある預言者武庫川散歩が、神から預かってきた言葉をみなさまにお伝えしましょう。
「人生はどうせ死ぬ。いつか死ぬ。ああ、死ぬったら死ぬ。だからそれまでの間に、あなたがどんな体験をしたかがあなたの人生そのものなのです。
体験が人生そのものだとしたら、あなたは思うことでしょう。それなら、できるだけ幸せな体験をたくさん味わって死に向かいたいと。
ですが、本当にそれでいいのですか?あなたの人生は、最初から最後まで幸せな体験で満ちている、それがほんとうにあなたの人生だと言えるでしょうか?
本当にそれでいい、とあなたが頷くなら、あなたのごはんはこれから死ぬまで3食全部ケーキか甘いものです。甘いものだけを神であるワタクシがあなたに与え続けましょう。
もう、ウエッとなってもケーキです。ゲホッとなってもティラミスです。飲み物はホットココアかみかんの缶詰の汁の部分です。それでいいんですね?本当に。
ほれ、これで気付いたのではありませんか?
幸せというのは、甘いケーキのようなものです。たしかにそれは甘く、幸せのように感じられます。
しかし、幸せや甘さは、それだけで死ぬまで満足させてくれる要素ではありません。
辛いものも食べたいし、苦いものだって気になるし、ちょっぴり発酵してたり腐っていたり、グツグツ煮えていたり、キンキンに冷たくてもいいのです。
そう、人生は幸せもつらさも、さみしさとせつなさと心強さも全部抱きしめて君と歩いていこうなのです!!
誰だ、JASRACに通報したやつは。
だから、あなたが知るべき未来はたったひとつ、それはあなたがいつか死ぬということに他なりません。そして、それまでに、どんなに彩り豊かな体験をしたかが、あなたの人生の豊かさそのものだというわけです。
もちろん、辛いときも悲しいときもあるでしょう。つらさやかなしみに押しつぶされそうになる瞬間もあるでしょう。
そう、ワサビをつけすぎて「ふんごっ!!!!!」となる時のように。
そう、たまねぎを切りすぎて涙がとまらなくなる時のように。
しかし、そんな苦しみは時間が解決してくれるか、私が解決します。ズバット。
さ、さあ。はやく私の胸に飛び込んできなさい!は、早くおいでったら。いいじゃ~ないの~。以下自粛」
というわけで、ありがたい神のことばを胸に、生きていこうじゃありませんか。
2014年12月29日月曜日
2014年12月18日木曜日
☆お金がみるみる増えるキリストの教え☆ 愛が増えるとお金も増える!
砂漠の民の宗教だったユダヤ教から、全人類の幸せを願う「キリスト教」へと変化したのは、基本的には
「おまえら、戒律をしっかり守れよ。さもないと死ぬぞ」
という考えからの脱却でした。
ですので、「約束の地を求めて彷徨い歩く」感じの旧約聖書と比較して、新約聖書のイエスキリスト以降は、「もっと他人を愛しなさい」というポジティブな宗教へとグレードアップしてゆきます。
では、イエスキリストの教えとはいったいどんなものだったのでしょう。簡単にまとめてみましょう。
<1>心の貧しい人は幸いです。そういう人に天国の扉は開かれています。
<2>あなたの隣人たちを愛しなさい。
<3>こころを尽くして神を愛しなさい。
<4>神以外に、何かを誓ってはいけません。
<5>右のほほをぶたれたら、左のほほも差出しなさい。
<6>迫害する者たちを恐れず、最後まで耐え忍んだものは救われます。
<7>あなたの敵を愛しなさい。
<8>施し(善行)をするときは、人に知られないようにしなさい。
<9>富は天に蓄えなさい。
<10>誰も二人の主人(神と金)に仕えることはできません。
<11>求めよ、さらば与えられん。
<12>カエサルのものはカエサルに返しなさい。
このほかにもたくさんあるでしょうが、誰もが知っていそうな主要なイエスの教えを挙げてみました。宗教的な側面でのそれぞれの意味は、なんとなくわかると思います。
ではこれを金銭的に置き換えて考えてみましょう!いよいよ本丸です。
<1> 貧しい人は幸いです。そういう人こそお金持ちへの扉が開かれています。
・・・金持ちへの道は、金持ちだけに開かれているのではありません。貧しくても、お金持ちになるチャンスとヒントが本当は存在するのです。
むしろ、自分はお金持ちだと誤解しているプチセレブのほうが、収入より多く消費してしまい金欠になるのはよくある話です。
<2> あなたの身の回りの人たちによくしましょう。
・・・上司や先輩によく仕えている人は、チャンスを与えられる機会が増えます。なんてったって可愛いからです。上司の文句や愚痴ばかり言っている人は、おそらく昇進のチャンスをつぶしています。
・・・ご近所づきあいや、親戚づきあいも大切です。そうしたコミュニケーションがとれない人は、困った時に誰も助けてくれないでしょう。
<3> こころを尽くして金を愛しなさい。
・・・あなたは心からお金持ちになりたいと思っていますか?それとも虚栄心を満たすために「高いモノ持ち」になりたいのですか?
お金をほんとうに愛しているのなら、無駄な出費は一切しないはずです。高価なモノに変換することすら、罪悪です。こころから金を愛してみてください。
<4> 金以外に何かを誓ってはいけません。
・・・あなたは独善的な「相場のカン」のようなものに頼ってはいませんか?FXや先物取引など、バクチを打つような資産運用をしていませんか?金を心から信じるのではなく、どこかの営業マンのことばを信じていませんか?
・・・それらはすべて違います。心底信じられるのは、今そこにあるお金の動きだけです。
<5> 右の損失を出したら、左の損失も差し出しなさい。
・・・損切りを明快に示した指針です。含み損をいつまでも抱えず、切るときは切り、損であっても確定させましょう。
損が出ているのに、「まだ持ち直すだろう」といった期待に引きずられるのではなく、神の御意思のままに、「ここは損として、差し出そう」と思うことが大切だったりするのです。
<6> あなたを非難し、誘惑するものがあっても、最後まで耐え忍びましょう。
・・・「けちけちするなよ!」とか、「今日一杯いこうぜ」といった誘惑やプライドをくすぐる批難を浴びせられることがあっても、あなたはストイックにお金を愛するべきです。
<7> あなたの敵を愛しなさい。
・・・ライバルに貸しを作りなさい。同僚のいやな役回りを引き受けなさい。上司の無能ぶりをさりげなく支えてみましょう。きっとすべてはあなたに帰ってくるでしょう。
<8> 成果を挙げたことを自慢しないようにしましょう。
・・・もう、そのまんまですね。あなたの手柄でも、あくまでもさりげなく振舞うことです。
<9> 金は天に蓄えなさい。
・・・「天引き」ということばがあります。天とは、先によけておくことです。あなたの収入のうち、かならず最初に貯蓄を取り分けておき、自ら天引きしておきなさい。
・・・その残りで生活するようにすれば、確実に資産は増えるのです。
<10> 誰も金とモノとの両方に仕えることはできません。
・・・マンションを買い、車を買い、バッグを買い、といったぜいたく品を揃えることと、お金持ちになることは同じではありません。お金は使えば減るのです。
・・・モノとして所有することに満足するのか、金として所有することに満足するのか、もういちどあなたにとっての「主人」が誰になっているのか見つめなおしてみましょう。
・・・あなたは物欲に支配されているのではないですか?
<11> 求め続けなさい、そうすれば与えられます。
・・・お金が欲しい、お金とともにありたい!と願い続け求めつづけなさい。たいていの人は、「金持ちになりたい!」と一瞬だけ思いますが、もう次の瞬間には別のことを考えているものです。
・・・そのためにはどうしたらいいのか。自分は何をしていて、何をしていないのか。ストイックにお金について考え続ければ、道は開けるのです。
<12> 税金は払っとけ。
・・・もともとのエピソードは、イエスキリストが、「この貨幣にはカエサルの刻印が打ってある。つまり、このお金はローマのものなので、きちんと税として納めるべきだ」と話したものです。
・・・いくら儲けても、税金を逃れようとすると全ての権限を使って徴収されます。税の差押さえは、何者にも勝る国家権力の行使です。イエスの言うとおり、税金は払っておきましょう。
さあ、いかがだったでしょうか?
畳み掛けるようにポジティブに、イエスの言葉が響きます。あなたにも、愛に溢れたお金生活が送れそうな気がしてきませんか?
お金もちになるということは、小さな物欲を満たすためのものではありません。周りの人たちと喜びを共有しながら、かつ無駄遣いをやめて真のお金持ちを目指すものなのです。
「おまえら、戒律をしっかり守れよ。さもないと死ぬぞ」
という考えからの脱却でした。
ですので、「約束の地を求めて彷徨い歩く」感じの旧約聖書と比較して、新約聖書のイエスキリスト以降は、「もっと他人を愛しなさい」というポジティブな宗教へとグレードアップしてゆきます。
では、イエスキリストの教えとはいったいどんなものだったのでしょう。簡単にまとめてみましょう。
<1>心の貧しい人は幸いです。そういう人に天国の扉は開かれています。
<2>あなたの隣人たちを愛しなさい。
<3>こころを尽くして神を愛しなさい。
<4>神以外に、何かを誓ってはいけません。
<5>右のほほをぶたれたら、左のほほも差出しなさい。
<6>迫害する者たちを恐れず、最後まで耐え忍んだものは救われます。
<7>あなたの敵を愛しなさい。
<8>施し(善行)をするときは、人に知られないようにしなさい。
<9>富は天に蓄えなさい。
<10>誰も二人の主人(神と金)に仕えることはできません。
<11>求めよ、さらば与えられん。
<12>カエサルのものはカエサルに返しなさい。
このほかにもたくさんあるでしょうが、誰もが知っていそうな主要なイエスの教えを挙げてみました。宗教的な側面でのそれぞれの意味は、なんとなくわかると思います。
ではこれを金銭的に置き換えて考えてみましょう!いよいよ本丸です。
<1> 貧しい人は幸いです。そういう人こそお金持ちへの扉が開かれています。
・・・金持ちへの道は、金持ちだけに開かれているのではありません。貧しくても、お金持ちになるチャンスとヒントが本当は存在するのです。
むしろ、自分はお金持ちだと誤解しているプチセレブのほうが、収入より多く消費してしまい金欠になるのはよくある話です。
<2> あなたの身の回りの人たちによくしましょう。
・・・上司や先輩によく仕えている人は、チャンスを与えられる機会が増えます。なんてったって可愛いからです。上司の文句や愚痴ばかり言っている人は、おそらく昇進のチャンスをつぶしています。
・・・ご近所づきあいや、親戚づきあいも大切です。そうしたコミュニケーションがとれない人は、困った時に誰も助けてくれないでしょう。
<3> こころを尽くして金を愛しなさい。
・・・あなたは心からお金持ちになりたいと思っていますか?それとも虚栄心を満たすために「高いモノ持ち」になりたいのですか?
お金をほんとうに愛しているのなら、無駄な出費は一切しないはずです。高価なモノに変換することすら、罪悪です。こころから金を愛してみてください。
<4> 金以外に何かを誓ってはいけません。
・・・あなたは独善的な「相場のカン」のようなものに頼ってはいませんか?FXや先物取引など、バクチを打つような資産運用をしていませんか?金を心から信じるのではなく、どこかの営業マンのことばを信じていませんか?
・・・それらはすべて違います。心底信じられるのは、今そこにあるお金の動きだけです。
<5> 右の損失を出したら、左の損失も差し出しなさい。
・・・損切りを明快に示した指針です。含み損をいつまでも抱えず、切るときは切り、損であっても確定させましょう。
損が出ているのに、「まだ持ち直すだろう」といった期待に引きずられるのではなく、神の御意思のままに、「ここは損として、差し出そう」と思うことが大切だったりするのです。
<6> あなたを非難し、誘惑するものがあっても、最後まで耐え忍びましょう。
・・・「けちけちするなよ!」とか、「今日一杯いこうぜ」といった誘惑やプライドをくすぐる批難を浴びせられることがあっても、あなたはストイックにお金を愛するべきです。
<7> あなたの敵を愛しなさい。
・・・ライバルに貸しを作りなさい。同僚のいやな役回りを引き受けなさい。上司の無能ぶりをさりげなく支えてみましょう。きっとすべてはあなたに帰ってくるでしょう。
<8> 成果を挙げたことを自慢しないようにしましょう。
・・・もう、そのまんまですね。あなたの手柄でも、あくまでもさりげなく振舞うことです。
<9> 金は天に蓄えなさい。
・・・「天引き」ということばがあります。天とは、先によけておくことです。あなたの収入のうち、かならず最初に貯蓄を取り分けておき、自ら天引きしておきなさい。
・・・その残りで生活するようにすれば、確実に資産は増えるのです。
<10> 誰も金とモノとの両方に仕えることはできません。
・・・マンションを買い、車を買い、バッグを買い、といったぜいたく品を揃えることと、お金持ちになることは同じではありません。お金は使えば減るのです。
・・・モノとして所有することに満足するのか、金として所有することに満足するのか、もういちどあなたにとっての「主人」が誰になっているのか見つめなおしてみましょう。
・・・あなたは物欲に支配されているのではないですか?
<11> 求め続けなさい、そうすれば与えられます。
・・・お金が欲しい、お金とともにありたい!と願い続け求めつづけなさい。たいていの人は、「金持ちになりたい!」と一瞬だけ思いますが、もう次の瞬間には別のことを考えているものです。
・・・そのためにはどうしたらいいのか。自分は何をしていて、何をしていないのか。ストイックにお金について考え続ければ、道は開けるのです。
<12> 税金は払っとけ。
・・・もともとのエピソードは、イエスキリストが、「この貨幣にはカエサルの刻印が打ってある。つまり、このお金はローマのものなので、きちんと税として納めるべきだ」と話したものです。
・・・いくら儲けても、税金を逃れようとすると全ての権限を使って徴収されます。税の差押さえは、何者にも勝る国家権力の行使です。イエスの言うとおり、税金は払っておきましょう。
さあ、いかがだったでしょうか?
畳み掛けるようにポジティブに、イエスの言葉が響きます。あなたにも、愛に溢れたお金生活が送れそうな気がしてきませんか?
お金もちになるということは、小さな物欲を満たすためのものではありません。周りの人たちと喜びを共有しながら、かつ無駄遣いをやめて真のお金持ちを目指すものなのです。
2014年12月17日水曜日
☆お金がどんどん増えるイエス・キリストの教え☆ ~モーセの十戒でお金持ちに~
好評連載!「お金が貯まるブッダの教え」シリーズの第二弾はなんと!
「お金が増えるキリストの教え」
シリーズです。ちゅどーん!!
もともと、「経済社会というのは、無常なのである」というところから、仏陀の教えを金融生活に置き換えたのが、エコノミカル仏教でしたが、第二弾はエコノミカルクリスチャンをめざします。
もともとキリスト教というのは「砂漠の民」の宗教ですから、「何もないところから、豊かさを得る」という方向にベクトルが向いています。
このあたりは、仏教のように「捨てる」方向ではなく、むしろ「手に入れていこうぜ」というスタンスですから、
「お金を増やす」
にはもってこいです。
とはいえ、これからお話することは、クリスチャンであれば「当然知っていること」のはずですので、別に教義をねじまげようというわけではありません。
ではでは、お金に関してキリスト教がどのように語っているのか、学んで見ることにしましょう!
~~~~~~~~~
ご存知かどうかはわかりませんが、もともとキリスト教やユダヤ教の教えというのは、砂漠の民の宗教ですから
「神様のいうとおりにすれば、オアシスへ連れて行ってやるぜ」
という思想がベースです。何も無い砂漠、飢えと乾きに悩まされている荒地から、緑豊かな土地へと彷徨い歩くのが、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の基盤の部分なのです。
この「無い状態から、在る状態へと変化させること」はまるで、ないお金が増えてゆくことを連想させますよね。
さて、キリスト教の経典である「聖書」には、モーセの十戒といって、ユダヤ人が「これを守ったら、豊かな地へ連れて行ってあげるよ」と神様と交わした約束事が書かれています。
聖書の最も基本的な教えである、十戒は神様についての決まりと、人間関係の決まりの2つから成り立っています。
<1>ヤハウェ以外を神としてはいけない。。
<2>偶像を作ってはいけない。崇拝してはいけない。
<3>神の名をみだりにとなえてはいけない。
<4>安息日(休日)をしっかり守れ。
<5>あなたの父と母を敬え。
<6>殺してはならない。
<7>姦淫してはならない。
<8>盗んではならない。
<9>偽りを述べてはならない。
<10>隣人のものを欲しがってはならない。
さあ、神様にバチが当たりそうですが、そこをグッとこらえて、「神」を「金」に置き換えて考えてみましょう。
<1>お金以外を神として崇拝しないこと。
・・・有価証券?不動産?株?そういったものは「お金」とみなしてはいけません。投機的なものに迷わされ、崇拝してはいけないのです。
<2>ブランドを崇拝してはいけない。
・・・ベンツ?プラダ?シャネル?だめだめ、そんなものにお金をつかってはいけないのです。偶像です。偶像。
<3>むやみにお金の話をしないこと。
・・・ぐははは!何万儲かったぜ!とか、お金に関することは口をつぐんでいなさい。成金のように振舞わず、堅実に生きるのです。
<4>休日をしっかり取りなさい。
・・・馬車馬のように働くことだけが資産を増やすことではありません。しっかり休日をとり、心身ともに健康でありなさい。
<5>以降は文字通りそのままです。年長者を尊敬し、犯罪を犯さず、女性問題には気をつけて、他人と比べて物を欲しがらないこと!
いずれも、まっとうな生活には大切なことで、これらから足を踏み外せば経済的にも大打撃になることは疑いありません。
こうしてみると、旧約聖書には、経済的側面からみても「意外にいいこと書いてるなあ」というイメージがわいてくると思います。
そうなんです。この10の決まりごとだけでも、普通の人はやっぱりきちんと守れなかったりするわけで。
これらを守れば、堅実な資産が築けることは、ある程度わからんでもない、という感じですよね。
でも!なんだかパンチが足らないような気がしませんか?
そう、どちらかといえば、これは砂漠で飢え死にしないための教えなので、ここまでのお話は
「資産を減らさないためのポイント」
だったりするわけです。だから、まだ「お金が増える」というところまでは到達していません。
そこで、次に登場するのが新約聖書!つまりイエス・キリストの出番なのです!
(つづく)
「お金が増えるキリストの教え」
シリーズです。ちゅどーん!!
もともと、「経済社会というのは、無常なのである」というところから、仏陀の教えを金融生活に置き換えたのが、エコノミカル仏教でしたが、第二弾はエコノミカルクリスチャンをめざします。
もともとキリスト教というのは「砂漠の民」の宗教ですから、「何もないところから、豊かさを得る」という方向にベクトルが向いています。
このあたりは、仏教のように「捨てる」方向ではなく、むしろ「手に入れていこうぜ」というスタンスですから、
「お金を増やす」
にはもってこいです。
とはいえ、これからお話することは、クリスチャンであれば「当然知っていること」のはずですので、別に教義をねじまげようというわけではありません。
ではでは、お金に関してキリスト教がどのように語っているのか、学んで見ることにしましょう!
~~~~~~~~~
ご存知かどうかはわかりませんが、もともとキリスト教やユダヤ教の教えというのは、砂漠の民の宗教ですから
「神様のいうとおりにすれば、オアシスへ連れて行ってやるぜ」
という思想がベースです。何も無い砂漠、飢えと乾きに悩まされている荒地から、緑豊かな土地へと彷徨い歩くのが、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の基盤の部分なのです。
この「無い状態から、在る状態へと変化させること」はまるで、ないお金が増えてゆくことを連想させますよね。
さて、キリスト教の経典である「聖書」には、モーセの十戒といって、ユダヤ人が「これを守ったら、豊かな地へ連れて行ってあげるよ」と神様と交わした約束事が書かれています。
聖書の最も基本的な教えである、十戒は神様についての決まりと、人間関係の決まりの2つから成り立っています。
<1>ヤハウェ以外を神としてはいけない。。
<2>偶像を作ってはいけない。崇拝してはいけない。
<3>神の名をみだりにとなえてはいけない。
<4>安息日(休日)をしっかり守れ。
<5>あなたの父と母を敬え。
<6>殺してはならない。
<7>姦淫してはならない。
<8>盗んではならない。
<9>偽りを述べてはならない。
<10>隣人のものを欲しがってはならない。
さあ、神様にバチが当たりそうですが、そこをグッとこらえて、「神」を「金」に置き換えて考えてみましょう。
<1>お金以外を神として崇拝しないこと。
・・・有価証券?不動産?株?そういったものは「お金」とみなしてはいけません。投機的なものに迷わされ、崇拝してはいけないのです。
<2>ブランドを崇拝してはいけない。
・・・ベンツ?プラダ?シャネル?だめだめ、そんなものにお金をつかってはいけないのです。偶像です。偶像。
<3>むやみにお金の話をしないこと。
・・・ぐははは!何万儲かったぜ!とか、お金に関することは口をつぐんでいなさい。成金のように振舞わず、堅実に生きるのです。
<4>休日をしっかり取りなさい。
・・・馬車馬のように働くことだけが資産を増やすことではありません。しっかり休日をとり、心身ともに健康でありなさい。
<5>以降は文字通りそのままです。年長者を尊敬し、犯罪を犯さず、女性問題には気をつけて、他人と比べて物を欲しがらないこと!
いずれも、まっとうな生活には大切なことで、これらから足を踏み外せば経済的にも大打撃になることは疑いありません。
こうしてみると、旧約聖書には、経済的側面からみても「意外にいいこと書いてるなあ」というイメージがわいてくると思います。
そうなんです。この10の決まりごとだけでも、普通の人はやっぱりきちんと守れなかったりするわけで。
これらを守れば、堅実な資産が築けることは、ある程度わからんでもない、という感じですよね。
でも!なんだかパンチが足らないような気がしませんか?
そう、どちらかといえば、これは砂漠で飢え死にしないための教えなので、ここまでのお話は
「資産を減らさないためのポイント」
だったりするわけです。だから、まだ「お金が増える」というところまでは到達していません。
そこで、次に登場するのが新約聖書!つまりイエス・キリストの出番なのです!
(つづく)
2014年12月11日木曜日
<15>"人間、イエスキリスト" と 神は存在するのか
21世紀になって、「人間・イエスキリスト」の実像にスポットが当たることが特に多くなってきたように思います。
”人間・イエスキリスト”という視点は、文字通り、これまでのカトリック的な
「神とイエスと精霊は三位一体である」
という価値観でもなく、あるいはキリスト教原理主義者的な
「イエスは神によって使わされた預言者であり、救世主である」
という価値観でもない、
「1人の宗教者、人間として生きたキリストの思想と行動」
という人間的なイエスの側面に注目するものです。
もちろん、イエスキリストの真の姿を追い求める姿勢は、聖職者の中にも歴史的にあったし、聖書学者や歴史学者たちも、純粋に研究を進めてきました。
ところが、長いヨーロッパの歴史観・宗教観の中で歴史的事実としてのイエス像と信仰的なイエス像をどう折り合いをつけて解釈するかは、実際にはなかなかすんなりとは解決してこなかったわけです。
聖職者がイエスについて真面目に考えると、それは時に「異端として排除」されたり、聖書学者は聖書がベースであるがゆえに「とってつけたような解釈」をせざるを得なかったり、歴史学者が発表したデータは教会や信者からの批判に晒されたりするのが、これまでの常でした。
従って、
”イエスキリストは、一介の人間であった”
という視点は、その仮説を抱くことすら、不敬な罪なのではないかという観念が、少なくとも20世紀まではまだまだ一般的なイメージであったように思います。
しかし、厳密な歴史学者はともかく、いわゆる一般の人たちにも「人間イエス」について考えさせるきっかけとなったのは、やはり
ダヴィンチ・コード
という小説と映画によるものが大きいと言えるでしょう。
この物語では、イエスキリストに妻と子がいて、いかにも人間的に子孫をつないでいる。またその事実を宗教的にはカソリックが異端として隠そうとし、またその事実をひっそりと守ろうとするものがいる、という展開でミステリーが進行しました。
ダヴィンチコードが、単なるフィクションであるのか。あるいは事実を踏まえた物語であるのかは、さまざまな書評が出ているので繰り返しませんが、少なくともこの物語を通じて
「人間らしいイエスの姿」
をもう一度追求したい、という人類の興味が再燃したことだけは間違いではないと思います。
==========
人間的なイエスの姿の概略を知りたい人は、
橘玲さんの書評
http://diamond.jp/articles/-/63202
がわかりやすいのでお勧めします。
似たような話はどこにでも転がっていますので、ここでもざっくりと人間イエス像の概略をまとめておきましょう。
以下に書くのは、神の化身ではない、宗教家としてのイエスの人間的あゆみです。
「イエスという人は、何か理由があってマリアの私生児のような形で生まれ、父親の子ではないということが知られていました。
彼は約30歳になる頃まであまり記録に残るような活動をしていませんでしたが、当時腐敗した神殿系のユダヤ教をよしとせず、野に出てより神に近い(と彼らが考えている)宗教活動を行っていたユダヤ教原理主義者のヨハネに弟子入りし、洗礼を受けます。
ヨハネたちは「律法を守ることが目的になってしまっている」その時代のユダヤ教を批判し、「神への純粋な信仰を取り戻す」ことをテーマに活動していましたが、やがてイエスはその思想を一歩推し進め、腐敗した現在のユダヤ教と直接対決する「行動的」なアクションを起こすようになりました。ヨハネ派からイエス派を創設したともいえます。
イエスの教えというのは、簡単に言えば「神に帰り、神の王国を待て」というものでしたが、イエスのファンたちからすれば、イエス自身が神の預言者であるかのような期待感を持って迎え入れられたため、当時の主流派ユダヤ教徒からは嫌悪されることになりました。
そこで、旧来のユダヤ派は、当時ユダヤを支配していたローマ帝国に「あいつは、クーデターを考えている新しい王となろうとしている危険人物だ」と訴えることでイエスを排除しようとします。
結果、イエスは政治犯として十字架刑になり、彼の死後、「イエスは復活した、だからやっぱり彼は神の子だったんだ」という伝説が生じることで宗教化がいっそう進んでゆき、現在に至ります」
上記のような人間イエス像は、キリスト教信仰者にはやや拒絶的な話ではありますが、イスラム教信者にとっては、
「その後、より新しい預言者としてムハンマドが使わされた」
という意味においては、イエスは神そのものでなくても全然OKということになるわけです。
実際にイスラム教においては、預言者モーセのような存在として、預言者イエスが人として位置づけられているからです。
==========
しかしながら、政治的・経済的に混迷を極める国際社会において、こうした形で「イエスの神聖」を否定したり疑問視することで、私たちはより一層
「では我々は何を信仰して生きるべきか」
という疑問を突きつけられることになっています。
イエスにこだわらないのであれば、ヤハウェといった「ユダヤ・キリスト・イスラム共通のそもそもの神」への信仰に再度目覚めることになり、それは現在のイスラム社会の注目に繋がっているわけです。
たとえば、欧米の若者にとって、キリスト教的信仰観に疑義が生じることがあれば、あるいはより原理的な宗教へと気持ちが向かうことはなんら不思議ではないと思われます。
しかし、武庫川散歩個人のことを言えば、私がキリスト教への疑問を感じたのはそもそもの
「聖書に登場する神そのものの姿勢」
についてでしたので、キリストの否定をすなわちヤハウェ神への回帰とつなげることは、大変問題があると考えたのでした。
これまた簡単に言えば、旧約聖書の神・アブラハムの神は
「ユダヤ民族に約束の地を与える。その地にはびこる異教徒や異民族はことごとく焼き払いなさい」
という姿勢を持つ神であり、これを日本人である武庫川散歩が心から信奉するにはかなり無理があると言わざるを得なかったのです。
これまで、当ブログにおいて「神はいったいどんな存在なんだ?」ということを自問してきたのは、こうした難問を解決するためのプロセスだったわけです。
==========
というわけで、21世紀の世界においては、人間イエスキリスト像を軸にしながら、
「新しい・究極の宗教観」
というものがどうしても求められる時代だと考えます。
また簡単に言いますが、
「それなら、じゃあ本当に正しいこのセカイの姿はどうなってるんだ!」
という純粋な人々の気持ちを納得させる「答え」が必要なのではないでしょうか。
というわけで、次回は「究極の宗教とは」というお話をしたいと思います。
・・・あ、今回全然ボケなかった。(^^;;
”人間・イエスキリスト”という視点は、文字通り、これまでのカトリック的な
「神とイエスと精霊は三位一体である」
という価値観でもなく、あるいはキリスト教原理主義者的な
「イエスは神によって使わされた預言者であり、救世主である」
という価値観でもない、
「1人の宗教者、人間として生きたキリストの思想と行動」
という人間的なイエスの側面に注目するものです。
もちろん、イエスキリストの真の姿を追い求める姿勢は、聖職者の中にも歴史的にあったし、聖書学者や歴史学者たちも、純粋に研究を進めてきました。
ところが、長いヨーロッパの歴史観・宗教観の中で歴史的事実としてのイエス像と信仰的なイエス像をどう折り合いをつけて解釈するかは、実際にはなかなかすんなりとは解決してこなかったわけです。
聖職者がイエスについて真面目に考えると、それは時に「異端として排除」されたり、聖書学者は聖書がベースであるがゆえに「とってつけたような解釈」をせざるを得なかったり、歴史学者が発表したデータは教会や信者からの批判に晒されたりするのが、これまでの常でした。
従って、
”イエスキリストは、一介の人間であった”
という視点は、その仮説を抱くことすら、不敬な罪なのではないかという観念が、少なくとも20世紀まではまだまだ一般的なイメージであったように思います。
しかし、厳密な歴史学者はともかく、いわゆる一般の人たちにも「人間イエス」について考えさせるきっかけとなったのは、やはり
ダヴィンチ・コード
という小説と映画によるものが大きいと言えるでしょう。
この物語では、イエスキリストに妻と子がいて、いかにも人間的に子孫をつないでいる。またその事実を宗教的にはカソリックが異端として隠そうとし、またその事実をひっそりと守ろうとするものがいる、という展開でミステリーが進行しました。
ダヴィンチコードが、単なるフィクションであるのか。あるいは事実を踏まえた物語であるのかは、さまざまな書評が出ているので繰り返しませんが、少なくともこの物語を通じて
「人間らしいイエスの姿」
をもう一度追求したい、という人類の興味が再燃したことだけは間違いではないと思います。
==========
人間的なイエスの姿の概略を知りたい人は、
橘玲さんの書評
http://diamond.jp/articles/-/63202
がわかりやすいのでお勧めします。
似たような話はどこにでも転がっていますので、ここでもざっくりと人間イエス像の概略をまとめておきましょう。
以下に書くのは、神の化身ではない、宗教家としてのイエスの人間的あゆみです。
「イエスという人は、何か理由があってマリアの私生児のような形で生まれ、父親の子ではないということが知られていました。
彼は約30歳になる頃まであまり記録に残るような活動をしていませんでしたが、当時腐敗した神殿系のユダヤ教をよしとせず、野に出てより神に近い(と彼らが考えている)宗教活動を行っていたユダヤ教原理主義者のヨハネに弟子入りし、洗礼を受けます。
ヨハネたちは「律法を守ることが目的になってしまっている」その時代のユダヤ教を批判し、「神への純粋な信仰を取り戻す」ことをテーマに活動していましたが、やがてイエスはその思想を一歩推し進め、腐敗した現在のユダヤ教と直接対決する「行動的」なアクションを起こすようになりました。ヨハネ派からイエス派を創設したともいえます。
イエスの教えというのは、簡単に言えば「神に帰り、神の王国を待て」というものでしたが、イエスのファンたちからすれば、イエス自身が神の預言者であるかのような期待感を持って迎え入れられたため、当時の主流派ユダヤ教徒からは嫌悪されることになりました。
そこで、旧来のユダヤ派は、当時ユダヤを支配していたローマ帝国に「あいつは、クーデターを考えている新しい王となろうとしている危険人物だ」と訴えることでイエスを排除しようとします。
結果、イエスは政治犯として十字架刑になり、彼の死後、「イエスは復活した、だからやっぱり彼は神の子だったんだ」という伝説が生じることで宗教化がいっそう進んでゆき、現在に至ります」
上記のような人間イエス像は、キリスト教信仰者にはやや拒絶的な話ではありますが、イスラム教信者にとっては、
「その後、より新しい預言者としてムハンマドが使わされた」
という意味においては、イエスは神そのものでなくても全然OKということになるわけです。
実際にイスラム教においては、預言者モーセのような存在として、預言者イエスが人として位置づけられているからです。
==========
しかしながら、政治的・経済的に混迷を極める国際社会において、こうした形で「イエスの神聖」を否定したり疑問視することで、私たちはより一層
「では我々は何を信仰して生きるべきか」
という疑問を突きつけられることになっています。
イエスにこだわらないのであれば、ヤハウェといった「ユダヤ・キリスト・イスラム共通のそもそもの神」への信仰に再度目覚めることになり、それは現在のイスラム社会の注目に繋がっているわけです。
たとえば、欧米の若者にとって、キリスト教的信仰観に疑義が生じることがあれば、あるいはより原理的な宗教へと気持ちが向かうことはなんら不思議ではないと思われます。
しかし、武庫川散歩個人のことを言えば、私がキリスト教への疑問を感じたのはそもそもの
「聖書に登場する神そのものの姿勢」
についてでしたので、キリストの否定をすなわちヤハウェ神への回帰とつなげることは、大変問題があると考えたのでした。
これまた簡単に言えば、旧約聖書の神・アブラハムの神は
「ユダヤ民族に約束の地を与える。その地にはびこる異教徒や異民族はことごとく焼き払いなさい」
という姿勢を持つ神であり、これを日本人である武庫川散歩が心から信奉するにはかなり無理があると言わざるを得なかったのです。
これまで、当ブログにおいて「神はいったいどんな存在なんだ?」ということを自問してきたのは、こうした難問を解決するためのプロセスだったわけです。
==========
というわけで、21世紀の世界においては、人間イエスキリスト像を軸にしながら、
「新しい・究極の宗教観」
というものがどうしても求められる時代だと考えます。
また簡単に言いますが、
「それなら、じゃあ本当に正しいこのセカイの姿はどうなってるんだ!」
という純粋な人々の気持ちを納得させる「答え」が必要なのではないでしょうか。
というわけで、次回は「究極の宗教とは」というお話をしたいと思います。
・・・あ、今回全然ボケなかった。(^^;;
2014年11月29日土曜日
プラナリアを二つに切ると、魂もふたつになるのか
めっきりくっきり寒くなってきましたね。こんな日はほっこりずっぽりねっとりと暮らしたい武庫川散歩です。
さて、ネットを徘徊していたら、こんな面白そうなお話を見つけました。
『プラナリアって切って二匹にしたら魂も二つになるの?』
http://world-fusigi.net/archives/7657113.html
いやあ、なかなかすばらしい視点です。そもそもプラナリアという生き物は、2つに切ったら2つとも元の形に再生してよみがえると言う
復活
ができる生き物です。ああ、まるでキリストのようですね。
2つに切ったら2匹になる、4つに切ったら4匹になる、8つに切ったら・・・・。けしてネズミ算的に増えるわけではありませんが、よく考えたらいったいいくつまで分割可能なのでしょうか?
ウィキペディアによると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%A2
100分割くらいまではいけるそうです。なんという神の被造物!!!
・・・まあ、そういう謎な生き物が存在しているのは、創造主の設計なのだから受け入れなきゃ仕方ないわけですが、はて?魂はどうなるのでしょうか?
最初の引用元では、いろんな人が好き勝手言ってますが、まあふつうに考えたら、プラナリアを2つに分けたら
プラナリアの意識は2つになる
でしょうね。AプラナリアとBプラナリアは好きなようにそれぞれ動くし、それぞれ一個体として存在してゆけることでしょう。
そういう意味では、魂は2つになっても全然OKです。
みなさんの議論の中には、面白いヒントが隠れています。
『じゃあ、クラゲはどうなってるの?』
とか
『男と女がこどもを作るってことも不思議』
とか
『クローン人間だったら?』
とか
いろんな事例を考えると、答えが見つかりそうな気もします。
武庫川散歩的には、「一卵性双生児の卵が分裂するときに、それぞれの意識も分裂し独自化するんだから、魂やこころやいのちはそこで分割されることはなんら不思議ではない」と思います。
もし、あなたの細胞からクローン人間ができたとしても、そいつは勝手な意識を持つ他人(赤ちゃん)であり、あなたではけしてありません。そんなもんです。
ということは、意識や魂や心みたいなものは、それが機能するハードウエアの上に乗っかってるんだ、ということも見えてきますね。
なので、私は「魂や心や意識が肉体とは別に存在していて、宙を飛んだりする」なんてことは、これっぽっちも思いません。なんだバカやろう。
肉体が滅びると意識も滅びます。魂も滅びます。みんな死んじゃえばいいのよ。なーんて(笑)
==========
しかし、この話を考えている最中にすごいことを思いつきました。そうそう、そういえば、わたしたちの命はいったいどこからやってくるのでしょうか?
さっきもちらりと「男と女がうんぬんかんぬん」という話がでましたが、私たち人間は、男性の命と女性の命が合体して新しい赤ちゃんが生まれるように設計されています。
ここのところをもっと切り込んで考えてみましょう。
<仮説1>
精子と卵子には「いのち」が宿っており、「こころ」や「たましい」や「いしき」が宿っている。そもそも霊性も宿っているし、私たち生物レベルの生命性も元から有している。
<仮説2>
精子と卵子それぞれ単体では「いのち」は宿っていない。二つが合体してはじめて「いのち」や「たましい」や「いしき」が発生する。霊性みたいなものは存在せず、あくまでも合体時がスタート。生命性は受精卵から始まる。
<仮説3>
精子と卵子には、霊性だけが備わっていて、合体することでそこから「いのち」や「たましい」や「いしき」が発生する。
軽ーく挙げてみましたが、こんな考え方が思いつきそうです。他にもあるかもしれません。
さあ、いのちやこころやたましいはどこからやってくるのでしょうか。
==========
そもそも精子や卵子は生きているのでしょうか?確かに、体から離れて受精できないまま数日が経つと機能を失いますので、「生きている」に近い存在であることは確かです。
この「生きている」(動いている)ということを「霊性」みたいに捉えることはなんとかできそうです。
しかし、「生きている」けれど、「こころやいしきやたましい」を持っているとは言えなさそうです。
「いや、精子と卵子は心・意識・魂を持っている」
と主張するあなたがいたとしたら、そいつは超殺人鬼です。
なぜなら、そいつが男性だとしたら放出された何億もの「心・意識・魂」を持つ精子を受精させずに見殺しにしているわけですから、大量殺戮です。
そもそも、1匹しか受精できないという仕組みは、神が設計したわけですから、神こそ大量殺人鬼ということにもなります。
女性だって一緒です。生涯500個くらいの卵子を放出するわけですが、人生で500人も子供を生んで、すべての卵子を受精させた人はこれまでにいません。
ということは、女性はみな殺人鬼だということになってしまいます。
・・・というわけで、精子と卵子は「動いている」という意味で霊性を持っている感じはあるけれど、ヒトとしての生命性は持っていないとするほうがよさそうです。つまり、精子と卵子は(意識体としては)生きてはいない、と。
☆厳密な話をすると精子は「生きている」のですが。一個の細胞であり、細胞として活動でき動いていますので生きています。自分で持っているミトコンドリアからエネルギーを供給されて動きます。
・・・ほら、難しくなってきたでしょ?
簡単に言えば、精子や卵子は「細胞」ですから、クローン人間のもとになったいち細胞のようなものと同等ということになります。
もし毛髪の細胞からクローン人間が再生できるとしたら毛髪みたいなものということになるでしょうか。
しかし、毛髪は生きているしヒトの一部ですが「ヒトのこころ・いしき・たましい」を持つものとは認識されていません。
だから毛髪を殺しても倫理的に大丈夫なのです。
生きているということと、「ヒトとしてこころ・いしき・たましいを持つ」ということは別だとわかりますね。
==========
こうして精子・卵子殺人事件をもとに考えてゆくと、私たちのいのちは2段階になっていることがわかります。
「生きている」ということは、「こころ・いしき・たましい」よりも下のレベルでなにやら生きて動いているものらしいということがまず存在し、
その上に「こころ・いしき・たましい」といった生き物・ヒト・生命体らしい活動が起きているらしいということですね。
心や意識は、第二段階で発生するものなので、私と息子が「生きている」レベルでつながっているから血縁関係があり、存在しているのに、「意識はまったく別物」ということが可能になっているわけです。
ここで、プラナリアのことが正しく判明しました。プラナリアちゃんは、切られた時点で「生きている」レベルでは二つに分割されても成立します。だから元はおんなじ命なわけです。
しかし、意識や心は分割後それぞれ独自性を持ちますから、別物です。
もっと平たく言いましょう。
命は共通だけど、意識や心は独立している。
これが生きているということの真実です。
そして、もっと面白いことに、共通した命だったはずなのに、その基盤となるボディ(肉体)が分裂したとたんにそれぞれが別の意識や心を持つということがわかりましたから、
心や意識、魂
というものは、勝手に増える。勝手に分かれる。勝手に発生する。ということになります。
ちょっと難しいけど意味わかります?
もしあなたの手がちょん切られて、そこから細胞がうまく増殖してヒトが再生されたとしましょう。そしたら、そいつは、あなたじゃないのに
「なんか勝手に意識を持って自分で考えたりし始める」
ということなんです。あなたじゃないのにそいつは~ハッハーア!♪
彼はどんな記憶を持っていて、どんな性格で、どんな話をして、どんなヤツなんでしょうね。すごく気になります。
プラナリアAくんとBくんではそれが起こっているわけですから、神様の設定としては「あってもおかしくない」わけです。
==========
そうすると、今度は「あなたやわたしを形作っている意識・心・魂とは何に由来するのか」ということを考えなくてはいけません。
これまでの記憶やメモリー・経験があなたをあなたらしくさせているのでしょうか?
腕から生まれたあなたのクローンは、記憶や経験を有していればあなたに似ているかもしれませんが、もしその部位を持たずに再生されたなら別人の人格なのでしょうか?
うーん、マッドサイエンスですねえ。
長くなってきたので、ここから先はまた別の機会に。
さて、ネットを徘徊していたら、こんな面白そうなお話を見つけました。
『プラナリアって切って二匹にしたら魂も二つになるの?』
http://world-fusigi.net/archives/7657113.html
いやあ、なかなかすばらしい視点です。そもそもプラナリアという生き物は、2つに切ったら2つとも元の形に再生してよみがえると言う
復活
ができる生き物です。ああ、まるでキリストのようですね。
2つに切ったら2匹になる、4つに切ったら4匹になる、8つに切ったら・・・・。けしてネズミ算的に増えるわけではありませんが、よく考えたらいったいいくつまで分割可能なのでしょうか?
ウィキペディアによると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%A2
100分割くらいまではいけるそうです。なんという神の被造物!!!
・・・まあ、そういう謎な生き物が存在しているのは、創造主の設計なのだから受け入れなきゃ仕方ないわけですが、はて?魂はどうなるのでしょうか?
最初の引用元では、いろんな人が好き勝手言ってますが、まあふつうに考えたら、プラナリアを2つに分けたら
プラナリアの意識は2つになる
でしょうね。AプラナリアとBプラナリアは好きなようにそれぞれ動くし、それぞれ一個体として存在してゆけることでしょう。
そういう意味では、魂は2つになっても全然OKです。
みなさんの議論の中には、面白いヒントが隠れています。
『じゃあ、クラゲはどうなってるの?』
とか
『男と女がこどもを作るってことも不思議』
とか
『クローン人間だったら?』
とか
いろんな事例を考えると、答えが見つかりそうな気もします。
武庫川散歩的には、「一卵性双生児の卵が分裂するときに、それぞれの意識も分裂し独自化するんだから、魂やこころやいのちはそこで分割されることはなんら不思議ではない」と思います。
もし、あなたの細胞からクローン人間ができたとしても、そいつは勝手な意識を持つ他人(赤ちゃん)であり、あなたではけしてありません。そんなもんです。
ということは、意識や魂や心みたいなものは、それが機能するハードウエアの上に乗っかってるんだ、ということも見えてきますね。
なので、私は「魂や心や意識が肉体とは別に存在していて、宙を飛んだりする」なんてことは、これっぽっちも思いません。なんだバカやろう。
肉体が滅びると意識も滅びます。魂も滅びます。みんな死んじゃえばいいのよ。なーんて(笑)
==========
しかし、この話を考えている最中にすごいことを思いつきました。そうそう、そういえば、わたしたちの命はいったいどこからやってくるのでしょうか?
さっきもちらりと「男と女がうんぬんかんぬん」という話がでましたが、私たち人間は、男性の命と女性の命が合体して新しい赤ちゃんが生まれるように設計されています。
ここのところをもっと切り込んで考えてみましょう。
<仮説1>
精子と卵子には「いのち」が宿っており、「こころ」や「たましい」や「いしき」が宿っている。そもそも霊性も宿っているし、私たち生物レベルの生命性も元から有している。
<仮説2>
精子と卵子それぞれ単体では「いのち」は宿っていない。二つが合体してはじめて「いのち」や「たましい」や「いしき」が発生する。霊性みたいなものは存在せず、あくまでも合体時がスタート。生命性は受精卵から始まる。
<仮説3>
精子と卵子には、霊性だけが備わっていて、合体することでそこから「いのち」や「たましい」や「いしき」が発生する。
軽ーく挙げてみましたが、こんな考え方が思いつきそうです。他にもあるかもしれません。
さあ、いのちやこころやたましいはどこからやってくるのでしょうか。
==========
そもそも精子や卵子は生きているのでしょうか?確かに、体から離れて受精できないまま数日が経つと機能を失いますので、「生きている」に近い存在であることは確かです。
この「生きている」(動いている)ということを「霊性」みたいに捉えることはなんとかできそうです。
しかし、「生きている」けれど、「こころやいしきやたましい」を持っているとは言えなさそうです。
「いや、精子と卵子は心・意識・魂を持っている」
と主張するあなたがいたとしたら、そいつは超殺人鬼です。
なぜなら、そいつが男性だとしたら放出された何億もの「心・意識・魂」を持つ精子を受精させずに見殺しにしているわけですから、大量殺戮です。
そもそも、1匹しか受精できないという仕組みは、神が設計したわけですから、神こそ大量殺人鬼ということにもなります。
女性だって一緒です。生涯500個くらいの卵子を放出するわけですが、人生で500人も子供を生んで、すべての卵子を受精させた人はこれまでにいません。
ということは、女性はみな殺人鬼だということになってしまいます。
・・・というわけで、精子と卵子は「動いている」という意味で霊性を持っている感じはあるけれど、ヒトとしての生命性は持っていないとするほうがよさそうです。つまり、精子と卵子は(意識体としては)生きてはいない、と。
☆厳密な話をすると精子は「生きている」のですが。一個の細胞であり、細胞として活動でき動いていますので生きています。自分で持っているミトコンドリアからエネルギーを供給されて動きます。
・・・ほら、難しくなってきたでしょ?
簡単に言えば、精子や卵子は「細胞」ですから、クローン人間のもとになったいち細胞のようなものと同等ということになります。
もし毛髪の細胞からクローン人間が再生できるとしたら毛髪みたいなものということになるでしょうか。
しかし、毛髪は生きているしヒトの一部ですが「ヒトのこころ・いしき・たましい」を持つものとは認識されていません。
だから毛髪を殺しても倫理的に大丈夫なのです。
生きているということと、「ヒトとしてこころ・いしき・たましいを持つ」ということは別だとわかりますね。
==========
こうして精子・卵子殺人事件をもとに考えてゆくと、私たちのいのちは2段階になっていることがわかります。
「生きている」ということは、「こころ・いしき・たましい」よりも下のレベルでなにやら生きて動いているものらしいということがまず存在し、
その上に「こころ・いしき・たましい」といった生き物・ヒト・生命体らしい活動が起きているらしいということですね。
心や意識は、第二段階で発生するものなので、私と息子が「生きている」レベルでつながっているから血縁関係があり、存在しているのに、「意識はまったく別物」ということが可能になっているわけです。
ここで、プラナリアのことが正しく判明しました。プラナリアちゃんは、切られた時点で「生きている」レベルでは二つに分割されても成立します。だから元はおんなじ命なわけです。
しかし、意識や心は分割後それぞれ独自性を持ちますから、別物です。
もっと平たく言いましょう。
命は共通だけど、意識や心は独立している。
これが生きているということの真実です。
そして、もっと面白いことに、共通した命だったはずなのに、その基盤となるボディ(肉体)が分裂したとたんにそれぞれが別の意識や心を持つということがわかりましたから、
心や意識、魂
というものは、勝手に増える。勝手に分かれる。勝手に発生する。ということになります。
ちょっと難しいけど意味わかります?
もしあなたの手がちょん切られて、そこから細胞がうまく増殖してヒトが再生されたとしましょう。そしたら、そいつは、あなたじゃないのに
「なんか勝手に意識を持って自分で考えたりし始める」
ということなんです。あなたじゃないのにそいつは~ハッハーア!♪
彼はどんな記憶を持っていて、どんな性格で、どんな話をして、どんなヤツなんでしょうね。すごく気になります。
プラナリアAくんとBくんではそれが起こっているわけですから、神様の設定としては「あってもおかしくない」わけです。
==========
そうすると、今度は「あなたやわたしを形作っている意識・心・魂とは何に由来するのか」ということを考えなくてはいけません。
これまでの記憶やメモリー・経験があなたをあなたらしくさせているのでしょうか?
腕から生まれたあなたのクローンは、記憶や経験を有していればあなたに似ているかもしれませんが、もしその部位を持たずに再生されたなら別人の人格なのでしょうか?
うーん、マッドサイエンスですねえ。
長くなってきたので、ここから先はまた別の機会に。
2014年11月18日火曜日
久しぶりに中島義道 「私の嫌いな10の言葉」
どうも。最近は仕事が忙しくてサボって昼寝をする間もない武庫川散歩です。こんなにしっかり働いてしまうと、ボーナスが増えてしまいそうで、おおこわい。ボーナスこわい。
さて、最近当ブログのアクセス数がちょっと平坦になってきたので、刺激を入れるために「中島義道」ネタを投下することにしました。
戦え!といえばラーメンマン(古い)ですが、戦う哲学者と言えば中島義道です。彼の著作に
「私の嫌いな10の言葉」
という本があるらしいことを知りました。さっき。その10のセリフとやらは、
1 相手の気持ちを考えろよ!
2 ひとりで生きてるんじゃないからな!
3 おまえのためを思って言ってるんだぞ!
4 もっと素直になれよ!
5 一度頭を下げれば済むことじゃないか!
6 謝れよ!
7 弁解するな!
8 胸に手をあててよく考えてみろ!
9 みんなが厭な気分になるじゃないか!
10 自分の好きなことがかならず何かあるはずだ!
なんだそうですが、すぐ脱ぐ解脱者こと武庫川散歩がちらりと見れば、ああなんだ単純なことじゃないか、と思いました。
中島大先生は、こうした言葉の影にかくれている「一見もっともらしいけど、実際はどうやねん」的な側面についてその本質を暴いておられるそうですが、なぜ、これらの言葉が「正義のように見えて偽善」なのかは、超簡単に暴き出すことができます。
というわけで、私の持っている妖怪ウォッチの照射により、上の言葉に潜む本心を暴いてご覧にいれましょう。
~~~~~~~~~~
「相手の気持ちを考えろよ!」
→ 本音 「俺の気持ちを重視しろや」
「ひとりで生きてるんじゃないからな!」
→ 本音 「俺が助けてやってるねん」
「おまえのためを思って言ってるんだぞ!」
→ 本音 「俺の言うことを聞けや」
「もっと素直になれよ!」
→ 本音 「はやく俺の言うとおりにしたらええねん」
「一度頭を下げれば済むことじゃないか!」
→ 本音 「俺に歯向かうな」
「謝れよ!」
→ 本音 「俺に謝れよ」
「弁解するな!」
→ 本音 「俺の理論が間違ってるってのか」
「胸に手をあててよく考えてみろ!」
→ 本音 「俺に逆らうと損だということに気づけよ」
「みんなが厭な気分になるじゃないか!」
→ 本音 「俺がいまお前にむかついている」
「自分の好きなことがかならず何かあるはずだ!」
→ 本音 「俺が知ったことか」
~~~~~~~~~~~
一見正義正論のように見えることばは、「主体を隠す」というワザによってそう見えているだけ、ということが多々あります。
「■■しろよ、常識だろう?」とか「みんなそう思ってるよ、当たり前じゃん」とか「それが普通の大人やで」といった言説は、一見正しそうな
世間一般の合意
のような主体がありそうに思えます。しかし、たいていの場合、上のようなシチュエーションに遭遇したら、
「イスラム圏では常識ではない」「ヒンズー教の人はそう思ってない」「ヨーロッパの普通の大人は違う」ことが大半です。
ましてや、関西での常識と関東での常識は違うし、1940年代生まれの常識と1980年代生まれの常識は異なるのが普通です。
ということは、そこの世間一般の合意なんてないわけです。もし日本中が一般的合意に基づいて世論形成されているのだとすれば、
自民党と民主党に分かれるはずがない
ことにも気付くべきです。あたりまえじゃん。
というわけで、上の例では、それらしいことを言うやつの心の中をビームで照射してみたわけですが、この本音を理解すれば、
ああ、なるほど
と納得がいくというものです。
ちなみに、上の青文字を読んで「魚屋のおっさんのうた」を思い出した人は、きっと1970年代に青春を過ごした人だろうと想像できます。
なんのこっちゃわからないよいこのみんなは、お父さんに聞いてね。けしておかあさんに尋ねてはいけませんよ!
さて、最近当ブログのアクセス数がちょっと平坦になってきたので、刺激を入れるために「中島義道」ネタを投下することにしました。
戦え!といえばラーメンマン(古い)ですが、戦う哲学者と言えば中島義道です。彼の著作に
「私の嫌いな10の言葉」
という本があるらしいことを知りました。さっき。その10のセリフとやらは、
1 相手の気持ちを考えろよ!
2 ひとりで生きてるんじゃないからな!
3 おまえのためを思って言ってるんだぞ!
4 もっと素直になれよ!
5 一度頭を下げれば済むことじゃないか!
6 謝れよ!
7 弁解するな!
8 胸に手をあててよく考えてみろ!
9 みんなが厭な気分になるじゃないか!
10 自分の好きなことがかならず何かあるはずだ!
なんだそうですが、すぐ脱ぐ解脱者こと武庫川散歩がちらりと見れば、ああなんだ単純なことじゃないか、と思いました。
中島大先生は、こうした言葉の影にかくれている「一見もっともらしいけど、実際はどうやねん」的な側面についてその本質を暴いておられるそうですが、なぜ、これらの言葉が「正義のように見えて偽善」なのかは、超簡単に暴き出すことができます。
というわけで、私の持っている妖怪ウォッチの照射により、上の言葉に潜む本心を暴いてご覧にいれましょう。
~~~~~~~~~~
「相手の気持ちを考えろよ!」
→ 本音 「俺の気持ちを重視しろや」
「ひとりで生きてるんじゃないからな!」
→ 本音 「俺が助けてやってるねん」
「おまえのためを思って言ってるんだぞ!」
→ 本音 「俺の言うことを聞けや」
「もっと素直になれよ!」
→ 本音 「はやく俺の言うとおりにしたらええねん」
「一度頭を下げれば済むことじゃないか!」
→ 本音 「俺に歯向かうな」
「謝れよ!」
→ 本音 「俺に謝れよ」
「弁解するな!」
→ 本音 「俺の理論が間違ってるってのか」
「胸に手をあててよく考えてみろ!」
→ 本音 「俺に逆らうと損だということに気づけよ」
「みんなが厭な気分になるじゃないか!」
→ 本音 「俺がいまお前にむかついている」
「自分の好きなことがかならず何かあるはずだ!」
→ 本音 「俺が知ったことか」
~~~~~~~~~~~
一見正義正論のように見えることばは、「主体を隠す」というワザによってそう見えているだけ、ということが多々あります。
「■■しろよ、常識だろう?」とか「みんなそう思ってるよ、当たり前じゃん」とか「それが普通の大人やで」といった言説は、一見正しそうな
世間一般の合意
のような主体がありそうに思えます。しかし、たいていの場合、上のようなシチュエーションに遭遇したら、
「イスラム圏では常識ではない」「ヒンズー教の人はそう思ってない」「ヨーロッパの普通の大人は違う」ことが大半です。
ましてや、関西での常識と関東での常識は違うし、1940年代生まれの常識と1980年代生まれの常識は異なるのが普通です。
ということは、そこの世間一般の合意なんてないわけです。もし日本中が一般的合意に基づいて世論形成されているのだとすれば、
自民党と民主党に分かれるはずがない
ことにも気付くべきです。あたりまえじゃん。
というわけで、上の例では、それらしいことを言うやつの心の中をビームで照射してみたわけですが、この本音を理解すれば、
ああ、なるほど
と納得がいくというものです。
ちなみに、上の青文字を読んで「魚屋のおっさんのうた」を思い出した人は、きっと1970年代に青春を過ごした人だろうと想像できます。
なんのこっちゃわからないよいこのみんなは、お父さんに聞いてね。けしておかあさんに尋ねてはいけませんよ!
2014年10月29日水曜日
あの世は存在するのか
めっきり寒くなってきましたがいかがお過ごしでしょうか?あなたの心をほんのり暖める武庫川散歩のお話の時間ですよ。
でも、あまり長い時間当ブログに触れていると低温ヤケドすると思うので、気をつけて!
さて、今日はモザイクまで超越した解脱者である武庫川散歩が、「あの世」はあるのか、について語ってみたいと思います。
なぜ、突然あの世の話になるかというと、最近タヌキが車に轢かれて仕事場の近くの前の道路際で
九相図
状態になっており、それを毎日変化を見ながら、「ああ、この世は無常なり。南無武庫川散歩、南無武庫川散歩」とついつい唱えてしまうからです。
ちなみに、南無武庫川散歩というのは、勝手につくった言葉です。あしからず。
ああ、九相図を知らない方もおられるでしょう。説明しておきます。
ウィキペディアより 九相図
うええええ!おええええ!ぎょぺーーーー!
となる人は、解脱には不向きですので、ヤホーのトップページまで戻ったほうがいいと思います。
ちなみに、うちの会社の前のタヌキは、いまレベル8まで来ています。かなりスカスカになってしまいました。約1週間の出来事です。
というわけで、通常の仏教徒であれば
「成仏してたも。南無阿弥陀仏南無妙法蓮華経」
と念仏のひとつでもとなえるところですが、あれ?よく考えれば仏教の輪廻転生では、信心をしないものは畜生に生まれ変わるんだっけ?
ダメです。成仏しません。残念っ。
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というわけで、仏教における成仏やあの世の概念はともかくとして、ワタクシ武庫川散歩の説くところの「あの世」はどうなっているのか、というお話を改めてしておきましょう。
結論からズバっと言います。
この世もないって言ってるんだから、あの世もないに決まってるやないかボケーッ!!!
というのが公式見解です。ちょっと熱が入って小汚い言葉を使ってしまいましたが、お許しください。
あの世なんてありません。死んだものが行き着くところなんて存在しません。
死んだあとはなーんにもありません。ましてや天国も地獄もありません。
ちなみに、ここでいろんな宗教の「あの世」についての考え方をまとめておきますが、
<仏教>
基本輪廻転生するって言ってんだから、またこの世に戻ってくるわけで、一時的にあの世っぽいところで三途の川を渡って閻魔様とご対面とかするとかしないとかを経ようが経まいが、
やっぱりこの世に何かとして生まれ変わる
という思想ってことは、来世ってつまりこの世のことなんだっけ?
という状態です。(一時的なあの世説を取るのが、仏教ですな)
そして、そういうぐるぐる状態を完全に離脱したら、ふわーんふわーんとした真の解脱状態へ行くことになります。輪廻からも解き放たれてるというわけですね。
<キリスト教とイスラム教>
天国と地獄があって、信じるものだけ天国へいけて、それ以外の異教徒はみな地獄へ落ちることになっています。
もうこうなると、どっちの宗教に入ると「当り」なのかという一種のバクチと化していますが、嬉しいことにどの宗教宗派の確率が高いか、
競馬予想屋
のように、いろいろと教義を説明してくれる神父やら牧師やらがいるので、聞くのはタダです。
まあ、究極的には、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教もおなじ神様を信仰しているので、そういう意味ではどっちでもいいのかもしれません。
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さて、本命大穴かきわけて登場の「武庫川散歩」のあの世ですが、何度も言いますが、そんなものはありません。
未だかつて、あっちのセカイとこっちのセカイを行き来した人間はおらず、
「死にかけて臨死体験」
ぐらいした人はナンボでもいるかもしれませんが、
「いっぺん死んできた人」
はこの世にいらっしゃらないのです。いっぺん死んで、「あの世」がこうだったよ、ああだったよ、と説明してくれた人がいない、ということがとても大事です。
丹波哲郎氏はあの世のエキスパートですが、残念ながら、いっぺん死なずに語っておられますので、公正な目で判断すれば基準をクリアしていません。
私の知っている「いっぺん死んできた人」は2人ぐらいはいるのですが、
イザナギ
と
キリスト
(イザナギ・・・奥さんをおっかけて黄泉の国へ行ったけど、蓋しめて帰ってきた)
(キリスト・・・処刑されたけど3日後に蘇った)
だけです。彼らは神様なので、人ではありません。残念。
嘉門達夫さんのネタで、「見たんか!」というギャグがありますが、「あの世がある」と主張する人には「見たんか!」と突っ込みたくなるのは関西人のサガです。
・・・とまあ、観念的な話だと相手方との主張とは堂々巡りなので、武庫川散歩らしく、さらっとカッコよく決めてみましょう。
まず、武庫川散歩の解脱的には、「人間が思考するということそのものが物理科学の原理によって引き起こされている」としています。
考えること、感じること、意識。そういったものすべては電子であったり原子であったり、そういうものの働きによって成り立っているということですね。
そこから翻って「神というのは意識をもつ存在ではなく、むしろ物理科学の事象そのものの領域に近い」と説明しているわけです。
だとすれば、あの世がもし存在するなら、「あの世は物理科学的に定義できうる空間」だということになります。
あれ?
物理科学的に定義できる空間があるとしたら、それはこの世そのものじゃん!
ということになり矛盾します。
だから、あの世はない、と結論づけるのですが、世の中には奇特な人がいて、
「あの世というのは、M78星雲のあのあたりにあってな」
と真面目に信じている方もおられます。宇宙空間の物理的な一部があの世に相当するのではないか、という比較的まともな発想です。
しかし、そうなると死んだ人の何かは、M78星雲まで物理的に移動するわけで、それは肉体を離れて目にみえないぐらいの何かになっているわけですから、つまり
「地球から宇宙空間へ放出されるチリのように小さなもの」
ということになります。
スペースデブリか!!!!!
(宇宙空間を漂う、ゴミ)
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さて、そうなると今度は「あの世に行くのは霊魂であって、物質ではない」と言う人が出てくるでしょう。
霊魂というのは、何か。うーん。もやもやっとふわふわっとしたもので、でもそれが元々人だったりするわけで、でも、肉体は離れているので喋ったりはできなくて・・・そう!意識!意識なんだよ!
とその人たちはよく言います。
肉体は滅びても、意識は残りそれが飛んでゆく!というわけですね。
・・・だから、さっき「意識は物質に由来するじゃん」とワタシが説明したのに。
そうすると、やっぱり物質が飛んでゆくとかそういう堂々巡りな話になってしまいます。
おう!ディスイズ輪廻(ぐるぐるまわっている)
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なぜ解脱者である武庫川散歩が、こんなに「あの世がない」ということを力説するかと言うと、
「みなさんに、充実した生を送ってほしいから」
に他なりません。
今流行のアドラー心理学風に言えば
「あの世に逃げるな、今をしっかり生きろ!」
ということです。
人生はRPGみたいなもので、電源を切ったら終わりです。
100歩譲って、電源が切れてもプログラムはROMの中に書き込まれているとしましょう。
つまり、肉体は滅びても霊魂が残っていて、それがROMのように消えないとしようじゃありませんか。
だとしても、その意識やら霊魂やらは一切動きません。電源を入れない限り、動くわけがないんです。
書かれているプログラムは、ただの文字の羅列と記号にすぎません。
そんな存在は、あなたの二回目の来世での人生とはまったく関係なく、ただそこにあるだけです。
つまり、
あなたの「あの世」はただ、そこにあるだけで、動くこともないし感じることもないし、永遠に止まっているところ、それが「あの世」だというわけです。
・・・そんなもの、求めるな!!
そんなもんに逃げるな!!!
永遠に止まってることを「死ぬ」っていうんだ!!!
生きろ!!!(byもののけ姫)
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