昨日は雪が降っていたと思ったら、今日はあたたかく穏やかな日和でわけがわかりません。北海道ではものすごい寒波だったそうですが、今日の本州はのほほんとしています。
こういうのを気象の専門用語で
ツンデレ
というそうです。
あ、違いますね「気性」の専門用語でした。
こんにちは、あなたの心の隙間をお埋めします。武庫川散歩です。ドーン!
そういえば、と突然本題に入りますが、本当に「そういえば」と思い出したことがあります。それは、
「私、昔うつ病になったことがあったんだった」
という完全に忘れていた記憶です。
なぜ、そんなことを思い出したかというと、どうも最近親類縁者友達などに「うつ病っぽい」「うつ傾向があるらしい」という人が増えているからです。
某いとこは「白血病で死ぬ!死ぬ!」と言いながら、いつまでも元気に生きてます。彼女は実のお父さんのお葬式にも出ないで、スーパーでパートをしているそうです。「いらっしゃいませー!にこっ」
某友人は「あなたしかわたしのことを理解してくれる人はいないの!」と言いながら、そうやって得た友達といつも大喧嘩をして二度と口をきかなくなるという活動を繰り返しているし、
また別のいとこは、親が大企業の偉いさんに上り詰めた財産で、毎日ニートを楽しんでいるそうです。
あ、うつ病じゃないですね。どちらかといえば「ボダ(境界例)と引きこもり」の話でした(わはは)
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さて、そんなどうでもいい人たちのことはほっといて、うつ病で困っている人がたくさんいる、心の病が増えている、ということに、まじめに向き合ってみたいと思います。
そこで、さっきの話です。そういえば、私も昔うつ病になったことがあったのだった!と久しぶりに思い出してしまったのです。
幸か不幸か、悟りを開いてしまってからというもの、「ほとんど、というより全然悩みというものがなくなった」ので、そういうネガティブな感じの記憶も完全にふっとんでしまいました。
ところで、私がうつ病を発症したのは、概ね二十代半ばのことでしたが、その理由は至極簡単です。
当時私は3人くらい別々にお付き合いしている女性がいて、簡単に言えば、
三股(またぞうじゃないよ)
をかけていたのですが、そのうちの恋人の一人に別れを切り出されて、耐えられなくて発症したのです。
なんてアホな男だ!最低だな!
と愚弄され、罵詈雑言を浴びせられそうですが、事実だから仕方ない。そうです。アホで変態でも、そんなことで心の病になってしまうというのだから恐ろしい!
自業自得でいい加減でわがままでも、心の病は襲ってくる!
生真面目で我慢強い人、規則や規範を大切にして自分を押し殺す人にだけ「うつ病」はやってくるのではないのです!
そうした愛欲生活の果てに出家の境地に至ったのは、古くは「源氏物語の光源氏」やら、瀬戸内なんとかさんやら、偉大な先人たちがたくさんおられます。私も恐れながらその末端に加えていただきたいものです。
なーんて、嘘か本当かわからないような話は横に置いておいて、本題に入りましょう。
ストレスからうつ病や心の病を発症する理由というのは、ものすごく簡単です。
過労や、異常な勤務状況によって体の症状をメインにしながら発症するものとは少し違うかもしれませんが、心理的なものはほとんど
「自分がこうであったほうがいい、と望む状態から異なる状況に置かれること」
が多くの「心の病の原因です。
こうであったほうがいい、という状態は、状況や人の環境・性格によって大きく差があります。
某人物のように、3人の女性とおつきあいしている状況が「ベストもしくはベター」だと感じている人にとっては、それが2人になることは、「耐え難いストレス」になる場合もあるでしょう。
医者にならなくては!と思っている人が、なれなかった場合もそうです。
金持ちでイケメンな男性と若くして結婚したいけれど、自分はもう30歳越えでまだ婚活中な人も。
・・・・・・まあ、この3人の場合は、そもそも我がままかもしれませんが、それでも当人にとっては過剰なストレスであり、死にそうなんです。
逆に、
自分は悪くないのに、上司がものすごく悪いやつで、全部責任を取らされる、とか
姑がとにかくあたしをいびる、とか
彼氏が浮気を繰り返して、いつもお金を借りて返さない、とか
本人のせいではないのに、状況によって死にそうな場合もあるでしょう。
でも、その人が悪いとか悪くないとかは、この問題には本質的に関係ありません。とにかく、
「こうであるのが理想、という状態からの逸脱」
の格差の差が大きい場合と、期間が長い場合に「心の病」は訪れるわけです。
なので、うつ病を解決する方法は簡単です。
「こうであるのが理想・こうであったほうがいい」という前提を取り除けば全て解決するのです。
このやり方は、医学的には「認知療法」といいます。苦しんでいる人が、そもそも「こうあるほうがいい」と思っている前提が、誤解や拡大解釈、高望みなどであれば、それを修正する、という方法ですね。あるいは、独りよがりだった視点に、別の見方を加えてみる、などの方法が用いられます。
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サイバーパンク解脱・エンターテイメント解脱においては、そもそも「こうであるほうがいい」という価値尺度そのものを破壊します。
簡単に言えば、「このセカイが存在しないのに、『こうであるのが理想もくそもない』」と一喝するわけです。
仏教における「すべてのものはしょーもない!(無常)」と言ってることはほぼ同じでしょう。
そういう意味では、うつ病から逃れるための「悟り」は、サイバーパンク解脱でも仏教でも、別にどっちでもかまいません。
お好きなほうをどうぞ。
ただ、仏教の悟りと、私の悟りの違いは、仏教が全ての感覚を放棄しようとするのに対して、私は「別に最初から備わっているものを放棄しなくてもいいじゃん」というところです。
このへんについては、まだ当ブログには書いていないことなので、ぼちぼちどこかで書きます。
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