2014年3月6日木曜日

<12>命の価値は平等ではない、ということは?

 平凡な毎日に、ちょっとした心のもやもやをお届けしている武庫川散歩です。どうも。


 さて、2008年に、「個室ビデオ店放火事件」というのがありまして、今日裁判でその事件の最終判決が出たそうです。

 人の死に関わることなので、今回は小ネタやギャグをセーブしながらお届けします。あしからず。



 ニュースではこんな風に出ていました。

 ”個室ビデオ放火、死刑確定へ=16人死亡、上告棄却―最高裁”
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140306-00000074-jij-soci


 事件の概要は、個室ビデオ店で自殺しようとした男が、実際に個室内で火をつけたら、えらいことになってしまって

 20人も死傷

した、というもの。

 自殺するなら、一人で死ねばよかったのに!とみんなが心の中で思ったこの事件。さすがに放火は重罪であり、また結果論として20人を殺傷したら、そりゃ現代日本の法治基準では

 死刑

というのはそうなるでしょうな、ごもっともです。


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 ところで、今回この話を取り上げたわけですが、私は

死刑廃止論者でもないし

冤罪の可能性をうんぬん

したいわけでも全くありません。


 むしろ刑罰のほうでなく、この男の行動に着目しています。

 むかしから「ジャイアンにいじめられたのび太」

「あいつを殺してボクも死ぬ!」

と何度も叫んでいますが、あれです。あれ。あの話をしたいのです。


 ”あいつを殺してボクも死ぬ”という行動は、原因や理由はどうあれ、結果的にはあいつのいのちとボクのいのちはほぼ等価です。

 なので、それが正義か悪かはとりあえず横においておいて、この行動を実行されたら

勝ち目はない

ということになります。


 ストーカーのお兄ちゃんが愛しい女性につきまとって殺した挙句、自殺してしまう事件が続発していますが、これを止める術はありません。

 刑法によって、ストーカー殺人を死刑にしたところで、このお兄ちゃんからすれば「あいつを殺して俺も死ぬ」ですから、ストーカー殺人を思いとどまるインセンティブにはならないからです。

 よって、自分も死ぬ気で殺しに来られたら、これを防ぐ方法は少なくとも法的にはない、ということになります。


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 さて、今の例ではいのちの対価は1対1でしたが、これを1対複数にすると「自爆テロ」になります。

 爆弾を抱いたテロリストが、自分も死ぬ気で大勢の人がいるところへ突っ込むパターン。あるいは、車で人々を撥ね飛ばしながら連続殺傷した挙句自殺するパターン。

 これらの場合、テロリストならびに犯人のいのち1に対して、殺される被害者のいのちは数倍から十数倍に膨れ上がります。


 これも、法的には防ぐ方法はありません。そして、その責を死んだ犯人に負わして償わせることも、現行法ではほとんどできていないのです。


 ※ちなみに、ストーカー殺人を法的に思いとどまらせる可能性のある方法がちょっとだけあります。

 それは、犯人の一族郎党みな市中引き回しの上、打ち首獄門に処すという方法です。

 親きょうだい、親類縁者みな粛清されるとなれば、いのちの対価がかなり不平等になるため、一人の女性を殺すことはなんとかあきらめるかもしれません。



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 「一人の命は地球よりも重い」なんて名言があるそうですが、私に言わせれば嘘八百で、虚言にもほどがあります。

 上記のように数式にあてはめてみれば、すぐにわかることです。命の価値は平等ではないのです。

 ということは、論理的には、命の価値は無い、ということになります。

 
 ある一人の王様が、1万人の国民に無慈悲な粛清を命じたとしましょう。その場合は、命は1万分の1人の価値しかなくなります。

 その王様の命の価値が1万倍あればようやく等価になりますが、残念ながら王のいのちもひとつですから、1万人の命の価値は、ほとんど微々たるものになってしまいます。


 まあ、そんな寂しい話はこれくらいにして、ひとつだけ平等なことがあるので、そのハッピーな話を最後にしておきましょう。


 命は、実は平等です。そうです!平等だったんです。

 そう、死だけは、確実に平等にあなたにもわたしにも訪れます。全ての人に平等にやってきます!

 
 ちゃんちゃん。
 




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