どうも。皆さんの心のスキマをお埋めする武庫川散歩です。ドーン!!
ちなみに、一昨日 「笑ゥせぇるすまん」の喪黒福造の声をやっていた大平透さんが亡くなったそうで、ご冥福をお祈り申し上げます。
さて、本日は
心の病もうつ病もメンヘラもカンタンに治る
という触れ込みでタイトルをつけましたが、 本当にそんなことがあるのでしょうか?
ワタクシ武庫川の場合は、解脱しておりますから、心の病もうつ病もメンヘラも、もはや無関係です。
悟りを開けば、そうした俗世の迷いごとからはすっかりさっぽりもっこり解放されるわけですが、誰もが悟りをいますぐ開けるわけではないので、困ったものです。
もちろん、心の病を引き起こす原因は、精神的なもの以外に、
「物理的な原因で起きるもの(体の不調そのものが引き起こすもの)」
や
「栄養素などに起因するもの」
などもありますから、ここでは、話をわかりやすくするために
「精神的な認知のありようやストレスによって引き起こされる心の病など」
に一旦絞ってお話をしようと思います。
いわゆる精神的ストレスの根本原因は、何度かこのブログでも触れていますが、単純化すれば
「正義のゆらぎ」
に他なりません。この場合の正義とは、世間において正しいこととか常識的な正義ではなく、
「あなたが良い、正しいと思っている状態や理想的な状態」
のことを指します。
「あなたが良い、正しいと思っている状態と現実の時分を取り巻く現象が合致していないときに、あなたの正義はゆらいで、精神的な変調をきたす」
わけです。
この話は繰り返しになりますが、
「友達がいるほうが良い状態だろうと認識しているのに、そうではない現状」とか
「楽しく仕事ができる環境が理想だと思われるのに、怒鳴られてばかりの環境」とか
「高い能力を持っているほうが望ましいと考えているのに、アホでどうしようもない自分」とか
「恋人や家族がいるほうが幸せだろうなと思うのに、孤独なわたし」とか
設定上のあなたの「正義」に対して現実が「そうではない」とリアルな事実を突きつけてくると、あなたの心は折れてゆくわけです。
これがたとえば、
「ものすごく嗅覚が発達していて、人間全員動物臭を感じてしまうからむしろ一人にしてくれな人」とか
「ものすごいマゾで、先輩の女性社員に怒られるたびにおしっこチビっている妄想男子」とか
「アホのさ○た」とか
「リアルドールと生活をともにしたいマニア」とか
だったら、 上記とまったくおなじ環境におかれても「彼の正義」は全然ゆらがないので、まったくもって幸せに生きることができるわけです。
~~~~~~~~~~
まあ、でもこの記事を読んでいるあなたは、そこまで変態ではないと思うので、なんとかして自分の課題や問題点を克服して、理想の正義に自分を近づけたほうがいいのではないか?なんて考えちゃったりしちゃうわけですね。
でもまあ、はっきり言っておきますが、それはどだい無理です。
友達がいないのに友達は向こうから勝手にやってきてはくれません。もしあなたをめがけて友達がやってくるとしたら、それはカルト宗教の勧誘か、おそらく何かを売りつけようとしているに違いありません。
あなたの上司はこれまで毎日怒鳴っているのに、どうして明日から彼が怒鳴らないわけがありますか?あさっても来週も来月も怒鳴っているに違いないのです。
アホのさか○さんに、「努力して、宇治原さんになれ」というのは酷です。それは拷問のような仕打ちです。
まともな妙齢の男女ですら恋人がおらず、合コンにいそしんでいるというのに、合コンもセッティングできないあなたに恋人ができるわけがないでしょう。
~~~~~~~~~~
ちがうちがう!みんな方向性を根本から間違っているのです!!!
あなたは、あなたを取り巻く諸問題を解決したら、自分は幸せになれると考えています。それは大きな間違いです。
そんなものはひとつ解決しても、別の問題が出てくるのです。
仮に恋人ができても、デート中にスマホばっかりいじって自分を見てくれないと嘆くのは目に見えています。
結婚しても子供ができないとか、姑にいじめられるとか、次々難問は押し寄せます。
だ・か・ら
自分をとりまく正義のゆらぎに対して、自分やまわりを正義の方向に修正しようとするのは無駄ですからやめたほうがいいのです。
では、どうしたら幸せになれるのか。心の病を解消することができるのでしょうか?
仏教的な考え方をすれば、「そうした悩みの種になるものを全部捨てちゃいな!」ということになります。
「正義という設定や、こうありたいこうあるべきという欲望を捨てろ」
というわけです。
でも、それがカンタンにできるなら、この世は全員解脱者ばかりで、なーんにも欲望がないふわふわした人たちで満たされているはずです。でも、現実は違うし、誰もその境地に到達することができないから困っているのです。
そこで、究極の秘法をあなたに授けましょう!というわけです。
どんなに弱い人間でも、どんなにしょーもない人間でも、心の病を一発で治すことができる魔法のアイテム、それは
「優越感」
です。それが一番早い即効性のあるアイテムなのです。
優越感は、一見すると「何か、持ってはいけない悪いもの」のように思えるかもしれませんが、実はそんなことはありません。
病気の人を見て、「ああ、自分はまだ幸せだ」とか、戦争のニュースをみて「平和は大事だ」とか、そういう「下を見て生きる」ことで、人は
「現状の自分が、まだマシである」という意味において「足ることを知る」
ことができるのです。
だから、ここは大いに活用して、まずは下を見て生きてみましょう。話はそれからです。
しかし、何も
「ああ、仕事場はひどいけれど奴隷でコロッセオにほり込まれるよりはマシだ」とか
「恋人はいないけれど、性器を切除されたわけじゃないので、自分でまだ楽しめる」とか
「アホだけど認知症じゃなくて良かった」とか
「漫画という友達がいるじゃないか」とか
そこまで卑屈になれと言っているわけではありません。
ちがう!それも大きく違います!
魔法のアイテム、優越感には、もうちょっと有効な使い方があるのです。
たとえば、いろいろ満たされないけれど、「わたしには可愛い絵が描けるから、それでなんとか自分を保てる」とか、「youtubeで歌をアップしていて、10万回再生された」とか、そんなしょーもないと自分でもわかっていることだけでも、そのちょっとした優越感はあなたを支えてくれるのです。
それを、素直に大事にしましょう。鼻でリコーダーが吹ける特技だってかまいません。
あなたがちょっとした優越感、そして「自分だけができる小さな喜び」を持っていることが、あなたを幸せへと導くのです。
話は飛ぶように感じるかもしれませんが、宗教というのはこの「優越感」を極限までシンプルにつきつめて、信者をとりこにします。
どういうことか。
「わたしだけが、あるいはわたしたちだけが、真実の神を崇拝している。だからわたしたちだけが、現世もしくは来世で救われるんだ」
という優越感こそが、宗教の本質です。
だから、自爆テロだって行えるのです。彼らは「この世を儚んで自殺をしている」わけではありません。
「自分は、この世の誰よりも神のために命を投げ打っている」
という優越感と自尊心が、自爆を恐れさせないのです。
そんな行為を、他人は「しょーもないことだ」と言うかもしれません。それは、あなたの小さな優越感が、他者からみれば「しょーもないこと」なのと同じです。
でも、あなた自身は、その小さな優越感をうまく活用して、幸せになればいいのです。
このアイテムは、ほんとうにしょーもないけれど、大きな力を秘めているのですから。
ちなみに、解脱者武庫川は、
「このセカイのすべてを、全部知ってるもんね!理解しちゃったもんね!悟っちゃったもんね!」
という超しょーもない優越感によって、満たされています。
しあわせなんだからねっ。
2016年4月14日木曜日
2016年4月11日月曜日
宗教というギャンブル。 〜あなたはたぶん、地獄に落ちるわよ。〜
宗教というのは不思議なもので、まず第一に
「それが本当・真実かわからない」
のに、
「それに対しての信仰や従順を要求する」
ということが根本にあります。
たとえばAという宗教があるとしましょう。その宗教は「信仰したり、神に従順になれば永遠の命がパラダイスで与えられます」と言っているわけです。
このとき、信者になろうとする一般の人にとって、「それが真実かどうかはわからない」ということになります。
真実かどうかはわからないんだけれども、「信仰したら、それなりの報酬が得られて、もし逆にその神に逆らったら、地獄行きなどの罰を受ける」というのがAという宗教の教義だったりするわけです。
今度は、Bという宗教があるとしましょう。その宗教は「信仰したり、帰依すれば、無限の苦しみから自由になれます」と言ってます。
そして逆に、「信仰しないものは、無限の苦しみが続く」というのがBの宗教の教義です。
もちろん、これまた「それが真実かどうかはわからない」のですが。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
とまあ、すべての宗教は、上で説明したような
「報酬と罰」
を基本としたモデルによって形成されていて、それぞれが「我々の信仰こそが、正しくて、真実であーる」と主張していることになります。
ということはですよ。
どれか一つの宗教が真実で、それ以外はハズレであり、そのどれかをうまく引き当てないと、利益は得られず、真実でない宗教を選んでしまうと罰を受ける、というのが現在生じている宗教をめぐる様相だとすれば、
「まるで宗教選びって、ギャンブルみたいやな」
と誰もが思うはずです(^^;
そしてまた、面白いことに、それぞれの主張は、「神様や宗教の本体がそう言っているわけではなくて、あくまでもその神や始祖を崇拝するファンたちがそう言っている」わけですから、
馬主が「うちの馬に賭けなよ!」と誘っているわけではなく、あくまでも「競馬予想屋がそれぞれ好きな馬をお勧めしている」のと同じなわけです。
これでは、もし唯一正しい神を選び当てた時はいいですが、そうでない場合は、目も当てられません。競馬予想屋さんと同じで、
「外れても責任を取ってくれるわけではない」
からです(笑)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ということは、神を信仰する人というのは、「自分が何か特異な体験をして神と直接対話した」と感じている人(つまり、ほぼ教祖)を除いた大半の人は、
「ただ単に、人の口車に乗っているだけ」
ということになります。だって、自ら主体的に神と関わりあっているのではないから。
教祖さまは、まあいいでしょう。何か神秘体験のようなものを得て、「自分が信仰すべき神はこの方だ!」と思えるだけの証拠のようなものや、理由のようなものを体験してそうなっているわけですから、まだ
「賭けに本人なりの勝算がある」
ということになります。
しかし、それ以外のメンバーに勧誘をうけただけの人などは、ほとんど「その神を選ぶべき主体的な選択権」を発揮しないままその信仰に引きずられているわけですから、
「神が真実かどうか、当たろうが外れようが、本人はもともと自ら神を選んでいない」
ということになるわけです。
ということは、そんな奴は、神様の目から見たら、
「自力でワシを選んでいないような奴は、地獄行きじゃ」
ということになりませんか?(笑)
なので、何がしかの宗教に熱心なそこのあなた。
確率論で言えば
1) 大当たり!その神様は本物である!
2) ハズレ!その宗教はニセモノでした!
の2パターンなのではなく、
1A) 大当たり!その神様は本物であって、よくお前は自ら考えてワシを選んだ!
1B) 大当たり!でも、人の口車に乗るだけでじっくりワシと向き合わず、そんな奴はいらん!
2) ハズレ! 本物の神じゃなかったよーん。
の3パターンだと言うわけです。
ということは、この世界には1000〜10000ほどの宗教があると言われていますが、まあ大半の信仰者は地獄行きだということになりますね(^^;
「それが本当・真実かわからない」
のに、
「それに対しての信仰や従順を要求する」
ということが根本にあります。
たとえばAという宗教があるとしましょう。その宗教は「信仰したり、神に従順になれば永遠の命がパラダイスで与えられます」と言っているわけです。
このとき、信者になろうとする一般の人にとって、「それが真実かどうかはわからない」ということになります。
真実かどうかはわからないんだけれども、「信仰したら、それなりの報酬が得られて、もし逆にその神に逆らったら、地獄行きなどの罰を受ける」というのがAという宗教の教義だったりするわけです。
今度は、Bという宗教があるとしましょう。その宗教は「信仰したり、帰依すれば、無限の苦しみから自由になれます」と言ってます。
そして逆に、「信仰しないものは、無限の苦しみが続く」というのがBの宗教の教義です。
もちろん、これまた「それが真実かどうかはわからない」のですが。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
とまあ、すべての宗教は、上で説明したような
「報酬と罰」
を基本としたモデルによって形成されていて、それぞれが「我々の信仰こそが、正しくて、真実であーる」と主張していることになります。
ということはですよ。
どれか一つの宗教が真実で、それ以外はハズレであり、そのどれかをうまく引き当てないと、利益は得られず、真実でない宗教を選んでしまうと罰を受ける、というのが現在生じている宗教をめぐる様相だとすれば、
「まるで宗教選びって、ギャンブルみたいやな」
と誰もが思うはずです(^^;
そしてまた、面白いことに、それぞれの主張は、「神様や宗教の本体がそう言っているわけではなくて、あくまでもその神や始祖を崇拝するファンたちがそう言っている」わけですから、
馬主が「うちの馬に賭けなよ!」と誘っているわけではなく、あくまでも「競馬予想屋がそれぞれ好きな馬をお勧めしている」のと同じなわけです。
これでは、もし唯一正しい神を選び当てた時はいいですが、そうでない場合は、目も当てられません。競馬予想屋さんと同じで、
「外れても責任を取ってくれるわけではない」
からです(笑)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ということは、神を信仰する人というのは、「自分が何か特異な体験をして神と直接対話した」と感じている人(つまり、ほぼ教祖)を除いた大半の人は、
「ただ単に、人の口車に乗っているだけ」
ということになります。だって、自ら主体的に神と関わりあっているのではないから。
教祖さまは、まあいいでしょう。何か神秘体験のようなものを得て、「自分が信仰すべき神はこの方だ!」と思えるだけの証拠のようなものや、理由のようなものを体験してそうなっているわけですから、まだ
「賭けに本人なりの勝算がある」
ということになります。
しかし、それ以外のメンバーに勧誘をうけただけの人などは、ほとんど「その神を選ぶべき主体的な選択権」を発揮しないままその信仰に引きずられているわけですから、
「神が真実かどうか、当たろうが外れようが、本人はもともと自ら神を選んでいない」
ということになるわけです。
ということは、そんな奴は、神様の目から見たら、
「自力でワシを選んでいないような奴は、地獄行きじゃ」
ということになりませんか?(笑)
なので、何がしかの宗教に熱心なそこのあなた。
確率論で言えば
1) 大当たり!その神様は本物である!
2) ハズレ!その宗教はニセモノでした!
の2パターンなのではなく、
1A) 大当たり!その神様は本物であって、よくお前は自ら考えてワシを選んだ!
1B) 大当たり!でも、人の口車に乗るだけでじっくりワシと向き合わず、そんな奴はいらん!
2) ハズレ! 本物の神じゃなかったよーん。
の3パターンだと言うわけです。
ということは、この世界には1000〜10000ほどの宗教があると言われていますが、まあ大半の信仰者は地獄行きだということになりますね(^^;
2016年4月9日土曜日
どうしてギャンブルはやめられないのか?! 〜驚愕の真実!すべての宗教はギャンブルだった!〜
突然ですが、みなさんはギャンブル好きですか?
バドミントンとギャンブルとどっちが好きですか?
オリンピックとギャンブルとどっちが好きですか?!!!
・・・はい、やっちゃいましたね〜。某スポーツ選手が、あろうことか違法賭博に手を出していたとかで、手を出すどころか
足が出ちゃいました(約1000万)
という状況ですが、みなさんはいかがお過ごしでしょうか?
解脱者、武庫川散歩は、今日も金銭欲とは無関係に生きております。ええ、貧しいですがなにか?
~~~~~~~~~~
さて、いつものように無駄なツカミが終わったところで、本日はギャンブルについて語ってみることにします。
幸いなことに、私の周りには、ギャンブルで身を持ち崩した人はいないのですが、この記事を見ているあなたは、
「どうやってギャンブルをやめようか」
と悩んでいるかもしれません。
よく言われるように、ギャンブルというのは基本的に、参加者が最終的には儲かるようにはできていません。
どの賭け事、ギャンブルも、基本的には賭場を開いた胴元が一定の儲けを得るようになっていますから、全参加者の拠出した総金額から、胴元の取り分を引いたその残額を再分配しているだけです。
その総金額は、参加者たちの出したお金以上には、絶対に増えませんから、そのため参加者はかならず損をするようにできているわけです。
ところが、人間というのは良く出来ていて、理屈ではそうわかっていても
「自分だけは儲かるのではないか?」
とか
「一度来た当たりの快感が、もう一度来るのではないか?」
とか、 そんな風に思いがちです。
・・・とっても、みなさんポジティブで、明るいですね!!
~~~~~~~~~~
とまあ、みんなが楽観的に楽しくギャンブルを楽しんでいれば、この世界において、それほどギャンブルは憎まれるべきものではないのですが、ところがこの「嬉しい楽しい大好き」は、いつまでも続きません。
その理由は簡単で、先ほども述べたように、総金額から最終的な支払い金額は増えませんので、実は参加者全員の手持ちのお金は、どんどん減少しているだけなのです。
だから、参加者はよそでお金をウハウハ儲けてこない限り、手持ちのお金はかならず減ってしまうので、いつまでも楽しい時間は続かないのです。
ちなみに、よそでウハウハ儲けることができた人は、ギャンブルじゃないそっちにハマるので、これまたギャンブラーたちは、「基本、負け癖のついた人たち」の集合体になってゆきます。
~~~~~~~~~~
とまあ、ギャンブルは儲からないし、参加するものはどんどん貧相になってゆくのですが、それでもギャンブラーたちはやめることができません。
それは、人間の心理としては当然のもので、
「今まで損した分を、なんとしても取り戻さなくてはいけない」
という心が、あなたをとても不安にするからです。
「てやんでえ、胴元にくれてやったぜ!明日もたっぷりくれてやるぜ!」
という人は、そもそもギャンブルにハマりません。慈善事業かなんかにつぎ込んだほうが、よっぽど感謝されますので、彼らはけして
「くれてやる」
ことに夢中なわけではないのです。
そして、面白いことに、ギャンブルで当たりの快感を得ると、「ものすごいアドレナリン」が出るので、人間はその感覚を忘れられないのです。
なので、ギャンブラーたちは、
「とっても気持ちいい」感情と
「とっても不安」な感情
にぐじゅぐじゅにされながら毎日ギャンブルにのめり込んでいるということなのです。
~~~~~~~~~~
稀代のカリスマである武庫川散歩からすると、この状況は、「支配者と被支配者の関係」や「宗教」にとてもよく似ていると思います。
有能な支配者は、アメとムチを使い分けながら、被支配者たちをコントロールしてゆきますが、その方法は、ギャンブルと似ています。
彼らの承認欲求を満たし、彼らの心を持ち上げて「気持ちよく」させることと、恐怖や畏怖、あるいは拘束などを用いながら、「不安にさせる」ことを同時並行で行うわけです。
すると、彼らはイチコロで支配者にハマってゆきます。
あるいは宗教でもおなじです。宗教においては、「信仰すれば、現世もしくは来世で救いや心の平安が得られる」と説きます。気持ちよくさせるのです。
そして、逆に「信仰を捨てたり戒律を破れば、現世においても来世においてもおまえを滅ぼす、と不安にさせる」のです。
この二つを同時並行で、ぐじゅぐじゅやりますので、信者たちはイチコロでハマってゆき、抜け出せなくなります。
宗教にハマって抜け出せない人たちの理由は、たった2つしかありません。
<その1>は、ギャンブル大当たりと同じです。
「何か、その信仰によって、気持ちよくなった体験があること」
これがミソです。
救われた気持ちになったり、実際に病気が治ったと感じたり、心が満たされたり、先輩信者に優しくしてもらったり、とそういう「気持ちいい体験」を知っています。
そのため、その宗教は良いものである、と最初に認知します。
これをギャンブルのセカイでは「ビギナーズラック」といいます(笑)
<その2>は、ある程度信仰が進んだ段階で生じます。それは、
「今まで、この宗教に入っていたので、いまさら外の世界には戻れない」
という考え方です。 あれ?これって、ギャンブル負け続けに似ていますよね!
「今までの負けを取り戻そう」とやっきになる姿と、「いまさらこの神は偽者だと言われても、これまでのあたしの信仰はどうすればいいんだ」という姿は一緒なのです(^^
そして、この2つの感情の隙間に、「信仰を捨てた報いは悪いことが起きる」というネガティブキャンペーンをぐじゅぐじゅやられるわけですから、そりゃ
普通の人は、耐えられません。(脱出不可能です)
~~~~~~~~~~~
というわけで、ギャンブルにおいても、宗教においても、そこから抜け出したり対抗しようとするには、とっても重要なポイントがあるので、覚えておきましょう。
いいですか?ギャンブルから抜け出すには「勝つ、当たる」ことではないということはわかりますね?
(でも、おろかな人は必ず、「今までの負け分を取り戻すくらい勝てばいいんだ」と考えます。愚かです)
最初のほうで話したとおり、原資や総金額で考えると、「ギャンブルではないところでお金を儲けてくること」が大事です。(つまり、正業で利益を得てくるということです)
そして、ギャンブルで「気持ちよくなる」よりも、ギャンブルではないところで「気持ちよくなる」ことが大事です。
また、「これまでの負けをいっさいカウントしない」ということもとても大事です。
なので、周囲の助けと、人との関わりときちんとした仕事で対価を得ることが、ギャンブル地獄から抜け出すためにはマスト(必要)なのですが、
孤独で人付き合いが悪く、無職で童貞
はどうやってもそのままではギャンブル地獄から抜けられませんので、南無南無です。残念ながら。
(自分で気づく、という最後のチャンスがあります。一応)
~~~~~~~~~~
さて、これを宗教に置き換えるとどうなるでしょうか。
まずは、「今までどれだけその宗教に心身をささげていても、それは損切りしてカウントしない」ということが大事です。
それから、「宗教活動の外で、その人物がしっかり承認欲求が満たされるようにする」ということが大事なのです。
なので、やっぱりこれを一人で行うのは大変です。家族や周囲の支えがないと、なかなか一人ではこの領域に到達できません。
~~~~~~~~~~
というわけで、家族が変な宗教に入って困っている方や、友人がカリスマ指導者に支配されていて、その人物にとっても感化されていて困っている方は、ぜひ参考にしてください。
とくに重要なのは、
「あなたが、その人物のことを宗教やそれらの活動外の部分で、きちんと承認することが必要」
という部分です。
「その宗教とは関係ない部分で、あなたを認めているよ」
と言ってあげないと、彼らは治りません。そこんとこ、よろしく!
バドミントンとギャンブルとどっちが好きですか?
オリンピックとギャンブルとどっちが好きですか?!!!
・・・はい、やっちゃいましたね〜。某スポーツ選手が、あろうことか違法賭博に手を出していたとかで、手を出すどころか
足が出ちゃいました(約1000万)
という状況ですが、みなさんはいかがお過ごしでしょうか?
解脱者、武庫川散歩は、今日も金銭欲とは無関係に生きております。ええ、貧しいですがなにか?
~~~~~~~~~~
さて、いつものように無駄なツカミが終わったところで、本日はギャンブルについて語ってみることにします。
幸いなことに、私の周りには、ギャンブルで身を持ち崩した人はいないのですが、この記事を見ているあなたは、
「どうやってギャンブルをやめようか」
と悩んでいるかもしれません。
よく言われるように、ギャンブルというのは基本的に、参加者が最終的には儲かるようにはできていません。
どの賭け事、ギャンブルも、基本的には賭場を開いた胴元が一定の儲けを得るようになっていますから、全参加者の拠出した総金額から、胴元の取り分を引いたその残額を再分配しているだけです。
その総金額は、参加者たちの出したお金以上には、絶対に増えませんから、そのため参加者はかならず損をするようにできているわけです。
ところが、人間というのは良く出来ていて、理屈ではそうわかっていても
「自分だけは儲かるのではないか?」
とか
「一度来た当たりの快感が、もう一度来るのではないか?」
とか、 そんな風に思いがちです。
・・・とっても、みなさんポジティブで、明るいですね!!
~~~~~~~~~~
とまあ、みんなが楽観的に楽しくギャンブルを楽しんでいれば、この世界において、それほどギャンブルは憎まれるべきものではないのですが、ところがこの「嬉しい楽しい大好き」は、いつまでも続きません。
その理由は簡単で、先ほども述べたように、総金額から最終的な支払い金額は増えませんので、実は参加者全員の手持ちのお金は、どんどん減少しているだけなのです。
だから、参加者はよそでお金をウハウハ儲けてこない限り、手持ちのお金はかならず減ってしまうので、いつまでも楽しい時間は続かないのです。
ちなみに、よそでウハウハ儲けることができた人は、ギャンブルじゃないそっちにハマるので、これまたギャンブラーたちは、「基本、負け癖のついた人たち」の集合体になってゆきます。
~~~~~~~~~~
とまあ、ギャンブルは儲からないし、参加するものはどんどん貧相になってゆくのですが、それでもギャンブラーたちはやめることができません。
それは、人間の心理としては当然のもので、
「今まで損した分を、なんとしても取り戻さなくてはいけない」
という心が、あなたをとても不安にするからです。
「てやんでえ、胴元にくれてやったぜ!明日もたっぷりくれてやるぜ!」
という人は、そもそもギャンブルにハマりません。慈善事業かなんかにつぎ込んだほうが、よっぽど感謝されますので、彼らはけして
「くれてやる」
ことに夢中なわけではないのです。
そして、面白いことに、ギャンブルで当たりの快感を得ると、「ものすごいアドレナリン」が出るので、人間はその感覚を忘れられないのです。
なので、ギャンブラーたちは、
「とっても気持ちいい」感情と
「とっても不安」な感情
にぐじゅぐじゅにされながら毎日ギャンブルにのめり込んでいるということなのです。
~~~~~~~~~~
稀代のカリスマである武庫川散歩からすると、この状況は、「支配者と被支配者の関係」や「宗教」にとてもよく似ていると思います。
有能な支配者は、アメとムチを使い分けながら、被支配者たちをコントロールしてゆきますが、その方法は、ギャンブルと似ています。
彼らの承認欲求を満たし、彼らの心を持ち上げて「気持ちよく」させることと、恐怖や畏怖、あるいは拘束などを用いながら、「不安にさせる」ことを同時並行で行うわけです。
すると、彼らはイチコロで支配者にハマってゆきます。
あるいは宗教でもおなじです。宗教においては、「信仰すれば、現世もしくは来世で救いや心の平安が得られる」と説きます。気持ちよくさせるのです。
そして、逆に「信仰を捨てたり戒律を破れば、現世においても来世においてもおまえを滅ぼす、と不安にさせる」のです。
この二つを同時並行で、ぐじゅぐじゅやりますので、信者たちはイチコロでハマってゆき、抜け出せなくなります。
宗教にハマって抜け出せない人たちの理由は、たった2つしかありません。
<その1>は、ギャンブル大当たりと同じです。
「何か、その信仰によって、気持ちよくなった体験があること」
これがミソです。
救われた気持ちになったり、実際に病気が治ったと感じたり、心が満たされたり、先輩信者に優しくしてもらったり、とそういう「気持ちいい体験」を知っています。
そのため、その宗教は良いものである、と最初に認知します。
これをギャンブルのセカイでは「ビギナーズラック」といいます(笑)
<その2>は、ある程度信仰が進んだ段階で生じます。それは、
「今まで、この宗教に入っていたので、いまさら外の世界には戻れない」
という考え方です。 あれ?これって、ギャンブル負け続けに似ていますよね!
「今までの負けを取り戻そう」とやっきになる姿と、「いまさらこの神は偽者だと言われても、これまでのあたしの信仰はどうすればいいんだ」という姿は一緒なのです(^^
そして、この2つの感情の隙間に、「信仰を捨てた報いは悪いことが起きる」というネガティブキャンペーンをぐじゅぐじゅやられるわけですから、そりゃ
普通の人は、耐えられません。(脱出不可能です)
~~~~~~~~~~~
というわけで、ギャンブルにおいても、宗教においても、そこから抜け出したり対抗しようとするには、とっても重要なポイントがあるので、覚えておきましょう。
いいですか?ギャンブルから抜け出すには「勝つ、当たる」ことではないということはわかりますね?
(でも、おろかな人は必ず、「今までの負け分を取り戻すくらい勝てばいいんだ」と考えます。愚かです)
最初のほうで話したとおり、原資や総金額で考えると、「ギャンブルではないところでお金を儲けてくること」が大事です。(つまり、正業で利益を得てくるということです)
そして、ギャンブルで「気持ちよくなる」よりも、ギャンブルではないところで「気持ちよくなる」ことが大事です。
また、「これまでの負けをいっさいカウントしない」ということもとても大事です。
なので、周囲の助けと、人との関わりときちんとした仕事で対価を得ることが、ギャンブル地獄から抜け出すためにはマスト(必要)なのですが、
孤独で人付き合いが悪く、無職で童貞
はどうやってもそのままではギャンブル地獄から抜けられませんので、南無南無です。残念ながら。
(自分で気づく、という最後のチャンスがあります。一応)
~~~~~~~~~~
さて、これを宗教に置き換えるとどうなるでしょうか。
まずは、「今までどれだけその宗教に心身をささげていても、それは損切りしてカウントしない」ということが大事です。
それから、「宗教活動の外で、その人物がしっかり承認欲求が満たされるようにする」ということが大事なのです。
なので、やっぱりこれを一人で行うのは大変です。家族や周囲の支えがないと、なかなか一人ではこの領域に到達できません。
~~~~~~~~~~
というわけで、家族が変な宗教に入って困っている方や、友人がカリスマ指導者に支配されていて、その人物にとっても感化されていて困っている方は、ぜひ参考にしてください。
とくに重要なのは、
「あなたが、その人物のことを宗教やそれらの活動外の部分で、きちんと承認することが必要」
という部分です。
「その宗教とは関係ない部分で、あなたを認めているよ」
と言ってあげないと、彼らは治りません。そこんとこ、よろしく!
2016年4月1日金曜日
人生の救いはどこにあるのか?! 中島義道の答え
毎々、哲学塾の「中島義道」さんの文章がおもしろいので、チェックしている武庫川散歩ですが、今月も新ネタがアップされていたので、ご紹介します(^^
東洋経済オンラインより
東洋経済オンラインより
哲学に「人生の救い」を求めるのは、筋違いだ
http://toyokeizai.net/articles/-/110624
・・・相変わらず面白いですね〜。今回もツカミは「哲学塾」にやってきては去ってゆく人たちの話なのですが、基本的には
「多くの人々は、哲学というものを自分が思っていたものと違うので、去ってゆく」
のだそうで。まあ、そうだろうなあ、と思います。
中島先生いわく、「個人的な悩みを解決するには、哲学は何の役にも立たない」し「悩みを解決したり軽減したりはできない」のです。
だからこそ、そうした悩みを持つ人に対しては、カウンセラーや宗教や、あるいは精神科の医者がいるのであって、哲学はそもそもそこが対象ではないのです。
仏教やら、ふだん武庫川が言っている「解脱・悟り」もそれに似ていて、「解脱や悟りを得ること」は、
あなたが今抱いている諸問題の解決とは、何の関係もない
ことは明らかです。つまり、悟りはあなたの問題に対して直接の回答にはならないし、あなたを救ってはくれません。
じゃあ、何のために悟ったり、悟りがあったり解脱が存在するのかというと、これまた簡単に言えば
「あなたの問題や人生の救いというものが、実はどっちゃでもいいということに気付く」
ために悟ったり、解脱したりするわけです。これはこれで、あなたが今抱いている問題そのものが、実はどうでもいいことだ、とするわけですから、結果としてあなたは自由にはなれますが(笑)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ちょっとだけへんてこな例を挙げて説明すると、今「不倫はいけない」ということが超話題になっていますが、「不倫をする」ということと、「側室がいる」ということは実は行為行動としては同じようなものです。
しかし、一方はいけないことで、もう一方は「時代背景や社会情勢により、べつにOK」なわけで。
ということは、そこに「問題」や「過ち」が存在するかどうかというのは、それこそ「時代によって問題視されたり、されなかったりする」ということが真実なのです。
人生の悩みも同じで、それを「悩みと捉える」から悩みなのであって「問題と捉える」から問題なのです。
もとから「そういう時代背景や事情ならOKなんじゃない?」ということだと、それは問題や悩みですらないわけで。
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まあ、中島先生の場合は、そうした問題や悩みを解決するために生きているわけではなく、むしろ「どうしてそのような悩みや問題がこの世に存在するのか、その真実を知りたい」くらいのことなわけで(笑)
これについては武庫川も激しく同意します。
さて、中島先生が人生の救いそのものを放棄なさったので、武庫川がその分頑張らなくてはいけません(^^
というわけで、梵天に「衆生を救うよう」励まされたシッダールタのごとく、武庫川散歩は今日も元気に人々の悩みを解決しております。
まあ、何かあればメールください。
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