2016年10月19日水曜日
【勝手じゃない人生相談】努力しない人を許せません!心がざわめきます! ~学歴コンプレックスを克服するためのヒント~
こんにちは、あなたの解脱者武庫川散歩です。
このブログではずーっと「勝手に人生相談シリーズ」と言って、誰にも何にも頼まれていないのに人生相談の回答をエキセントリックに放出するという荒行をやっているのですが、そのせいで
リアルでマジな人生相談
が寄せられることも増えてきました。
ちなみに、「放出」をなぜ「ハナテン」と読むかというと、なんと
弥生時代の言葉の名残!
だそうですから驚きです。
もともとは「はなちで」と読んだこの文字。その字の通り、水を放って出すところだったので「放出」なのですが、弥生時代の実際の発音は
「ぱなてぃんで」
に近かったようです。あとで「で」が消えていったんですね。
専門的な話をすると、古代のH音(エッチな音じゃないぞ!!!)は、 P音だったので、
「はなてぃんで」となるところは、古代では「ぱなてぃんで」になる
のですね。
有名な平安時代のなぞなぞに「母には二回会うけれど、父には合わないものなーんだ」というのがあります。
答えは「唇」なのですが、昔は「母」という文字を(haha)P音で発音していたので「パパ(papa・phapha)」と口にしていたのですね。
だから、母の時は唇が2回くっつくけれど、父は一度もくっつかない、というタネあかしです。
それよりも
平安時代には、ママはパパだったんだね!
ということのほうが、衝撃的ですマツコも知らない世界!
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さて。そもそも放出をハナテンと呼ぶとか、8710ハナテン中古車センターがビッグモーターだとか、
関西人にしか分からないネタ
をぶちこみまして、たいへん申し訳ございません。 今度イトウのハトヤの話でもしますから関東方面の人は待っていてください(爆笑)4126ヨイフロ。
もとい。
今日の人生相談です。
Q 『私は小さい頃から勉強を頑張ってきました。でも、体調を崩したり、DVな彼氏とつきあったせいで今は不本意なレベルのところで仕事をしているのですが、そのチームの中で私がすべて発案したプロジェクトの成果を全部別の人たちの手柄として取られてしまうようなことがあって、悶々としています。
彼女たちは、ふだんから努力をしないというか、要領の良さで立ち回ったりしているところがあって、重要な業務は私に任せているくせに、いざとなるとその責務も私だけに負わそうとしたりします。
学力の低い人たちというか、レベルの低い人たちと相容れないこの感覚に苦しんでいます』
(リアルガチ相談ですから、話の内容を改変しています)
A 『手柄など、ほしけりゃくれてやれ!それとはまったく別の問題として、あなたの心をまず解きほぐしてやらねばならんな』
ややこしいのですが、この相談にはいくつかのテーマが隠れています。それは
【1】 レベルが上な人(学力が高い人?)と低い人がいるということの事実と認知の問題
【2】 成果を出すということや、何かを生み出すということの価値について
【3】 学歴を誇る気持ちと、アンビバレントなコンプレックスの問題
という3つくらいのお話です。これらが複雑に絡み合っているので、相談者の彼女も心がざわめかざるを得ないのですが、解脱者である武庫川がじっくりと解き明かしていこうと思います。
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まず、”人間にレベルの上下はあるのか?!”ということについてお答えしましょう。
共産主義者と左曲がりの人は眉をひそめるかもしれませんが、”レベル”に何を当てはめるかは別にして、それらの上下は確実に存在します。
「足の早い人と遅い人」がいるのと同じように、「勉強が出来る人と出来ない人」もいるし、「職務遂行能力がある人とない人」もいるし、「コミュニケーションが上手な人と苦手な人」がいたりします。
そういう意味では、おなじ仕事をしていたり、おなじチームにいたりしても、「できるし、やろうとする人」もいれば「できないし、かつ恐ろしいことにやろうとしない人」も存在する、ということは、忘れてはなりません。
この時、往々ににしてよく起こりがちなパターンは
「あたしは頑張っているのに、どうしてあの人たちは頑張ろうとしないの!」
とか、
「あたしはこつこつ努力しているのに、あの人たちは上手くやってるのが許せない」
という怒りが生まれることです。
まず、こうした感情については、その根本原因はたった一つです。それは、実は他人の文句を言っているように見えて、それらはすべて「自分のこと」に目が行っているということにまず気付きましょう。
つまり、この怒り主は
「あたしが評価されるべきだ」とか「あたしに成果があるべきだ」とか、「あたしが褒め称えられたい」
という根っこの感情の表出として、そうした怒りを覚えているということなのです。
解脱者からすれば、このセカイは存在しないに等しいので
基本的には他人のことは全くもってどうでもよく関知しません。
レベルの高い人がいようが、低い人がいようが、あるいは「自分がどのレベルにいるのか」も含めて、そんなことはどうでもいいのです。
無常なるこのセカイで、レベルなるものに囚われて感情を乱すバカ
になる必要はないのですから。
しかし、このセカイの人たちは、解脱していないので、その説は通用しないため、別の理由付けが必要になります。
一番いいのは
「キミが頑張っているのは、ボクがちゃんと知っているから、気にしちゃだめだよベイビー」
と言ってもらえることなのでしょうが、私がアドバイスしたのは
「おなじ土俵の上に乗るな」
ということでした。
同じ土俵で比較対照をし続ける人生は、愚かです。そして、その土俵で評価されなかったり、損をするというのであれば、その土俵で戦わないことを選択すべきです。
自らをストイックに鍛え上げた全裸の戦士がいて、本人は努力せず全自動アーマーに頼っている戦士と戦うとすれば
「おいおい!そりゃまてよ!あっちはずるいだろう!」
とか思うのは当然ですが、そもそもそこで戦いのリングに入らないことが最善なのです。
ですから、ムキになってその土俵で「レベルの低いとあなたが見下げがちな人たち」と戦わない方法をチョイスすれば、直近の問題は解決するでしょう。
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さあ、そこで2番目の問題です。そうはいっても、仕事や組織に属していれば、それらの活動や行動が評価されるので、
「自分の手柄を(無能な人たちに)横取りされるのは許せない」
と思うことは自然なことです。しかし、現実世界ではそうしたことは良くあるし、そのことで心を痛めるくらいなら、解脱者は
「手柄などくれてやれ」
と思うのです。
さて、話は一見大きく変わりますが、武庫川はどうしても「ブルセラ」というものが解せません。
どうして女子高生のブルマやセーラー服に興奮するのかまったくもって理解不能です。
なぜなら、それは女子高生の○×△ではないからです!バババーン!
女子高生の○×△に興奮するというのならわかります。それは哲学的にいえば実存だからです。
しかし、ブルマもセーラー服も、単なる汚れた衣服以上の何ものでもないのです。
さて。(真顔)
なぜ、こんな話をしたかというと、依頼者の彼女が作り上げた成果というのは、解脱者から見れば単なる
「ブルマ」
に過ぎないということです。
偉いのは、あるいは凄いのは成果ではなく、それを生み出した彼女の存在そのものです。
価値があるのは、成果物ではなく、彼女そのものなのです。
なので、私が評価者なら、成果物ではなく彼女そのものを評価するでしょうし、彼女であればそれと同じくらいの成果は
これからなんぼでも出せる
ことは自明です。だから一つの手柄なんて、どうせ使いこなせない”きゃつら”にくれてやって、ほって置けばいいと言ったのです。
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さて、いよいよ最後の問題に入りましょう。
論理的に積み上げてゆけば、有能なる彼女にとって、周囲を気にすることなく、もっと伸び伸びと生きてくれればよいということだけなのですが、彼女がそうしたことを
「敏感に察して、かつイライラする」
のは、根底にある「学歴コンプレックス」が原因なのではないでしょうか。
学歴コンプレックスというのはやっかいなもので、学歴がない人にはコンプレックスがありません。
さらっと言ってますが、めっちゃ重要なので、繰り返します。
「アホは、もともと学歴に価値を感じないので、コンプレックスにならない」
「えーうちら、学歴とかそういうの。わかんなーい。マヂウケル~」
ということです。
わかります?学歴コンプレックスというのは
「学歴があるもの、勉強ができるものだけがかかる病」
だという衝撃の事実!!!!
これを押さえておきましょう。
この問題はすごいことに、「あるほう、持っているほうが悩んでいて、ないほう、もっていないほうは悩んでいない」という逆転現象が起きているのです。
だから「悩むのはあほらしいからやめましょう」と結論づけるのは簡単なのですが、それでは解脱者的になーんにも救っていないので、ここから武庫川がきちんと救ってお持ち帰りします。
学歴を持つ人が、学歴を誇る気持ちと、より学歴がある者を妬んだり、学歴がない者をさげすんだりするアンビバレントなもやもやした感情をもつ原因ははっきりしています。
それは、その人たちが
「それしか、自分で自分が認められるものがない」
からです。
あなた、というものを構成する要素や、あなたが「あなたらしく、あなたである」ということを主張するものを一つずつ出そうとした時に、
「学歴ぐらいしか、あなたたらしめているものがない」
から、そうなるのです。
このことの寂しさ!悲しさ!苦しさ!。
自分を誇れるものが学歴しかないというあさましさ!
それに人はおののき、感情を乱すのです。
私は、よく、弟子たちに「あなたは今は何者でもないが、何者かになることはできる」ということをよく話します。
しかし、幼稚園から大学まで、子ども達が楽に「何者かに近づく」軌道に乗れるのは
「学力かスポーツ」
ぐらいしかありません。
これは学校教育の弊害なのですが、ようは勉強と部活ぐらいしか、「自分たらしめることができる要素」が見つからないのです。かわいそうなことですが。
ちなみに、ワシは小学生からエホバの証人でしたから
「神に認められた預言者である」
と思ってましたので(オイ)、子どもたちをつかまえてはジャングルジムの下に座らせ、その上から天を指し示しながらキリストの教えを布教していたので、
「武庫川を武庫川たらしめているのは、神と信仰である」
と本気で思っているので、
何者にも惑わされない
半ズボン小学生でした。どうだ参ったかジハード少年をみくびるなよ(笑)
それは冗談ですが、武庫川は小学生入学前に、ちょっとしたことでマスコミに取り上げられたりしていて、(別に預言者としてではない)メディアでもちょくちょく触れていただいていたので、
「学校や勉強以外に価値が存在する」
ということは肌で感じていました。要するに、学校外で認められていたので、価値には幅広さがあることに気付いていたので苦しむことはなかったのです。
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学歴コンプレックスがあるすべての人にお伝えしたいことがあります。
勉強で成果が出せるのは、学校の間だけです。
仕事や社会生活においては、努力しても成果がでないことだらけで、むしろ、ダメなことのほうが大半です。
だとすれば、あなたが生きている価値は、学力以外の何かにあるのです。
それを見つけるのが、卒業後の人生の修行でもあります。早くそのことに気付いてほしいのです。
もちろん、あなたの学力は、すばらしい基礎体力であることは間違いありません。
ではその土台の上に、どんな花を咲かせるのでしょうか?
それを解脱者は楽しみにしております。
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