2016年10月7日金曜日

親子、とくに母子が「他人」であることを証明する。 ~なぜ、母はおなかを痛めて産んだ子を虐待できるのか~



 前回の記事で、ちょっとだけ毒親の話が出ました。



 大半の人にとっては「両親というものは、基本的には子どもに愛情を持って接するものである」というざっくりとした当たり前が存在すると思いますが、実は以外にそうではなくて



”どうしても子どもを愛せない”



とか



”子どもが好きになれない”



とか



”そもそも欲しくなかった”


とか、そういう事例は多々あります。



 で、そういう親たちは「でも、親たるものは子どもを愛するべきなんでしょ?」という当たり前と実感との間のギャップに悩み、なんとなくモヤモヤが募り


 また子どもをドツキかましてしまう


のが毎日だったりします。



 というわけで、今回の解脱者のありがたいお言葉は、



「子どもなんて、所詮っていうか、マジで他人」



であることを、まずは証明するところから、荒んだ親たちの心をほぐしてゆきたいと思うわけです。





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 最初に断っておきますが、ワタクシ武庫川は、虐待をする親とか、毒親とかモンスターペアレントを擁護するつもりは一切ありません。


 ただ、「時に、子どもを愛するべきという『べき論』と自分の気持ちのギャップに迷ってしまうことがある」という美人のヤングママに、


 ちょっとだけ気持ちを楽にする事実を伝えよう


というだけです。そこのところは誤解なきように。




 さて、ではなぜ武庫川は、



「親子は他人、母子であっても親子は繋がっていない」


と喝破するのでしょうか。



 そこには、上でも述べましたが、


「お腹を痛めて生んだ我が子が可愛くないはずがない」


とか


「子どもがお腹から出てくる以上、母子は一体であったはずだ」


という、一種の幻想的理想論が渦巻いていることで、それが


「そう実感できない母たちを苦しめている」


ことを、いったん取り除こうと考えるからに他なりません。



 しかし、何度も言いますが



「母子は一体でもないし、最初から最後まで隔絶たる他者であり、ぶっちゃけ、エイリアンがチューチューするみたいな寄生獣である!」



ということを知っておくのも、悪くないかもしれないのです。



 では、まず、妊娠と出産のしくみをおさらいしましょう。


誰もが知っているこの図は、お母さんの卵巣から卵子が出てきて卵管に入り、一方お父さんの精子がやってきて受精するさまを描いています。


 ここで大事なのは、当然、父親と母親からそれぞれ半分ずつDNAを受け継いだ受精卵が出来上がることと、その受精卵は



 独立して、卵管の中をふわふわしている



ということです。



 で、そのふわふわしていた受精卵は、子宮の内膜にピタっとくっつきます。これを着床というのですが、母側の粘膜に、独立した受精卵がくっつくわけですから、



 おかんの世界(母体)とこどもの世界(受精卵)は、膜二枚くらいを境目にくっついている



ということがわかると思います。膜二枚というのは、おかん側の膜とこども側の膜です。



 さて、



  これを図式化すると、おかんの世界とこどもの世界が、実はおなかの中だけれども切り離れているんだ、ということがわかると思います。



 しかし、このままでは、別個の存在が2つあるだけなので、こどもは成長できません。そこで、




 こどもはおなかから「エイリアン」みたいなのをうにょーっっと出してきて、母体の子宮に



 かぶりつく



わけですね。これが胎盤。チューチューするのが役目です。



 そして神様はそれでもうまいこと設計していて、胎盤にあるこども側の血管と、母体の血管はけして混じらないように、やっぱり膜で隔てられているわけです。



 うちの奥さんが子どもを生むときに、ワタクシ武庫川は付き添ったのですが、待っている間、



「ところで、胎盤っておかあさん側の器官なんですか?それとも赤ちゃん側の器官なんですか?」


と尋ねたことがあります。


・・・なんと!看護婦さんは全員答えられませんでした!


  一体としての胎盤と母子の絵や図は何度も見ているのだけれど、それがどちらに属するものなのかは、プロでもあまり意識していないのです。


 もちろん、産婦人科医は、理解しているでしょう。


 ちなみに、ウィキペディアに良い説明があります。


”胎児から見ると胎盤は羊膜の外側にあるが、胎児側の臓器とも言える。”


ということです。




 なので、形はエグいけれど、二人は最初から最後まで



 別個の人体であり、別個の人格



だということがわかると思います。





 というわけで、おかあさんという生き物は、お腹の中に赤ちゃんという寄生獣を抱えてチューチューされながら、それでも健気に頑張っているわけですが、一連の解説で分かるとおり、


「母子は、ある意味、けして交わらないし、相容れない存在である」


ということも言えるわけです。





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 さて、そうはいうものの、母のDNAも貰いながら、父のDNAも貰いながら子どもは存在します。


 DNAを残すという意味では、妊娠と出産ほど尊いものはありません。


 できることなら、父親にもチューチューできるように赤ちゃんが進化してくれたら公平なのですが、今のところはそうはなっていないので、これは神様に恨み言を言うくらいしかできません。



 意外と知られていないのですが、


 カンガルーと赤ちゃん


にも似たような事実があって、カンガルーはおなかの袋の中で出産されるんじゃないって知ってますか?



 カンガルーは、母体の外側にいったん産み落とされた後、



「自力でおかんの腹を登っていって、なんとかかんとか袋を見つけて勝手にその中に入る」



のです。これなんか、カンガルーの母子が、明らかに別個体であることを意味しますね。




 というわけで、DNAこそ共通なものの、母と子はイメージされるような一体感はなく、



 完全に別人



ですから、DNAが共通なきょうだいでもケンカしたりいがみ合ったり遺産争いをするように、



 母子がわかりあえない



のも、納得! というわけです。



 しかし、解脱者ムコガワは、



 わかりあえないままで良い



とは言ってません。



 別人である男と女が出会って、結婚したり家族を作るのと同じように、別人である子どもと共に



 これまた親子関係を(ある程度努力したりもして)構築してゆくものなのだね



ということを言いたいわけです。



 というわけで、お父さんもおかあさんも、こどもたちもガンバレー!






























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