2016年10月19日水曜日

『学力や学歴』とはいったい何なのか?! ”若者で弱者な”キミも目からウロコの究極の説明がこれだ!




 前回は学歴コンプレックスについて触れたので、ではそもそも


 学歴



とか


 学力



っていったい何なんだ?!ということをズバババンと解説しておきましょう。





 なぜ、ここで改めて「学力や学歴」を問い直す必要があるかといえば、

希望者全員が入れるようになった大学全入問題やらFランク大学の件

やら、

高校の学費が無料になった件

やら、

就職活動における学歴フィルター

やら、


高学歴で院までいったら仕事に就けない件
 
やら、


東大出たのに過労死


やら、それはもう「旧来の学歴や学力という概念では説明のつかないこと」がたくさん起きているので、ここらでその


真の姿


について再定義しておく必要があろうと思うわけであります。





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 さて、武庫川散歩は、実は学力や学歴については素人ではありません。


 「お前は賢いのかナンボのもんやねん!」


と言われたら、そりゃあハーバードなんて入ったこともないし、東大は「出たり入ったり」したことくらいはありますが、滞在時間数分です。


 しかし、一応関西で私学といえば4つくらいがそれなりに評価されているという風の噂ですが、その4つの大学のうちの一つを卒業していることは確かなようです。


ええい!まどろっこしいなあ。


 ルヴァンですよ。ルヴァン。YBCのルヴァン美味しいよね!



 それ以上は何も言いません(笑)



 で、実はそのあと、科目履修でちょっと別の大学へもぐりこんだり、さらに別の大学の大学院の科目履修なんかもしたので、入学だけして途中でブッチした大学も数えれば


「4つの大学や大学院に絡んだ」


ことは間違いありません。



 そういう訳なので、この解脱者武庫川も、学歴社会の申し子なのですが、後半の3つの大学は資格取得や単位が必要だったので勉強したわけで、基本的に勉強が好きな好青年だったというそれだけです。


 ちなみに、武庫川はルヴァンの某専攻を2番で卒業したので、卒論が学校に残っているそうです。1番の子は金時計かなんか貰ってましたね。



 『2番じゃダメなんですか!!!!』by二重国籍女子



 話が逸れました。



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  高校までの勉強というのは、基本的に「設定された解を探すゲーム」に過ぎません。いわゆる「答えのある問題」を解くのみです。

 ですから、その解を探すためには「たくさん情報を持っていたほうが有利」になるし、「その解き方をたくさん練習した方が有利」になるに決まっています。


 なので、覚える効率の良し悪しなどは多少あるとしても、「覚える情報の絶対量」と「練習した時間の絶対量」に、基本的には学力は比例します。


 だから環境さえゆるせば、誰でも賢くなれるし、よい大学には入れます。


 こういうことを高校生までの学校では「学力」であり、「学歴」だと捉えています。







 大学に入ると、学力の意味合いはすこし変化します。

 ここからお話することはちょっとだけ理想論ですが、大学では『新しい発見をすること』を勉強の意義としています。

 つまり、大学は学問の場なので、「昔の人たちが発見したことに追加して、若者達がさらなる発見をして人類に貢献すること」を期待しています。


 しかし、とある学生が「これは自分が発見した新しい技術や知識だ!」と思ったものが、本当に新しい発見なのかどうかを確認するためには、どうしたらいいのでしょうか?


 そのためには「先人がすでに発見した知識や情報をすべて調べてチェックすること」が必要になるでしょう。


 ですから、大学では、「先人が何を発見したか」を調べる方法を教えます。


 これが大学教育の究極の方法論です。







  そうです。大学で卒論を書くということは、そのジャンルにおける先行研究を踏まえて、「新規参入者である私は、なんとこんなことを新たに発見しちゃいました!」ということを提示する作業なのです。


 そうすると、大学という研究の場で、次々に新しい発見という成果が生まれるわけです。



 でも、これは理想論。


 実際には、大学で学生達がやっているのは、「新しい発見を目指して頑張る」目標は同じなのですが、「そこへ至るまでにいろいろタイムオーバーや、限界を迎える」ことが実態となっています。



 思い出してください。中学校や高校の授業でも、教科書のすべてのページを1年間で授業で扱うことはできませんでしたよね?だいたい先生が飛ばし飛ばしで単元を教えるか、日本史や世界史は、後ろの近現代が残ったまま3学期になっちゃう、というのが普通だったと思います。


 そう!全部はできないので、途中までになってしまうのです。



 それとおんなじで、たいていの大学生の勉強や卒論は「先人の発見したことをなぞった」ぐらいのところで終わってしまい、なかなか新しい発見にまでは辿りつかないものなのです。


 もちろん、「新しい発見」なんぞできなくても、その分野についての専門性は高まりますので、その若者がその大学を出たことは、無価値ではなく、一定の価値あるものと捉えることはできます。









 さて、ここから大学を卒業して、社会に出て企業人となったとしましょう。

 社会に出ると、研究職に就かない限りは、「既に発見されたこと」を使いこなして業務を行うことを要求されます。


  ここがすごく大事です。


 そう!たいていのことは「既に発見されている」ので、若者はそれを実行することを求められるわけです。


 わかりやすい例を挙げましょう!


 「チラシをまいて、それが成約に繋がる率」


なんてものは、既に発見されていて、 センミツなんて言われるように、0.3%以下なんですね。



 ということは、「チラシ1000枚撒いてこい!話はそれからだ!」 という事実がすでに分かっているわけですから、大学を卒業した若者は、まず先輩や上司から


「チラシ1000枚撒いてこい!電話1000件かけてこい!1000社訪問してこい!」


と言われるのです。



 ここで、大学を出た若者たちは、衝撃を受けるのです。大学までは「どうしたらチラシの成約率が上がるのか」という新しい発見をするために研究していたのですが、上司からは



「そんな発見はしなくていいから、もう率はわかってるんだから早く1000件撒いてこい!」



と言われるわけです。(勤務時間内にそれをやるか、ブラックで残業までしてそれをやるかはこの際別問題)


 ここで、若者は悶々としますよね?絶対に。



「どうして上司や会社は、新しい発見や取り組みをさせてくれないんだ!」「新しい方法や時代にあった新しいことが見つかるはずなのに、どうしてそれに取り組もうとしないんだ!」


と若者は思うのです。


 しかし、仮にそれを提案しても、上司や先輩はこういいます。



「それを考えるのは俺たちの仕事であって、キミらの仕事は1000枚チラシを撒くことだ」


と。


 これは、若者からみれば理不尽ですが、実は先輩や上司がこう言うのは一理あるのです。


 なぜなら、彼らも「先に新しいことを見つけたいと思って学んできた過去があって、先に卒業して就職したけれどそれはさせてもらえず、ようやく今それができる立場が回ってきたからです。



 彼らから見ると、それは電車の扉が開くのを整然と待つサラリーマンと同じで、



「自分たちもその順番待ちをしていたのだから、お前たちも待て」



と言いたいのです!




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 ところが、これらの論理は、先輩や上司の論理、大学で学ぶシステムも含めて全部、「セカイが右肩上がりの発展」を遂げているからこそ成立していました。


 現代は右肩下がりなので、これまでの「こうすれば売れるとか、こうすれば伸びるというこれまでの発見」では通用しなくなってきたのです。


 なので、求められているのは


「さらに新しい発見」とか「いっそう新しい発見」


なのですが、 若者は、ついこの間までその最先端にいたので



「自分になら、さらに新しい発見ができる!」「自分ならいっそう新しい発見ができるのに!」


という誤解にまみれています。



 ええ、それは誤解です。間違っています。



 なぜそれが誤解かと言うと、先に説明したとおり、「昔の若者も、今の若者も、実は先行者の後追いをしていただけで、たいていの学生は新しい発見なんてできずに終わっている」からです。



 実は、新しい発見をできる人材というのは、一部に限られているのです。


 そういう人たちは、これまでは大学へ進学できる率が少なかったので、大卒者のごく一部として主に企業や組織の中でたしかに「新しい発見」をしてきました。



 日亜化学に在籍していた中村先生が、青色LEDを発明した



なんてのは、その典型的な事例だと思います。




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 しかし、新しい発見ができる人材が一定数しかもともと存在しないのであれば、大学へ行って企業へ入って「順番待ち」をすることに意味がないと気付くこともできるわけで、わざわざ待たなくても、


「自分で早く発見したい!」


と思う者が出てきてもおかしくありませんよね?


 それが、昨今でいうところの「ベンチャー」や「起業」といったスタイルなのです。




 ところが、面白いことに、普通の人から見るとそうした「能力ある人材」が、新しい発見をしていることがカッコいいので、


「俺にもできる」


と勘違いするのですね。ですから、企業人としては、電車の列に割り込むような行為(先輩や上司に文句垂れる)をやってしまって嫌われたり、あるいは起業なんかしちゃったりして自滅するわけです。


 これはその行為の良し悪しを言っているわけではなく、そういうことが起きている、ということを示しているに過ぎません。




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 成長社会であれば、企業に入って「チラシを撒くだけの期間」を与えられても、いつかは順番が回ってきたので、後半では楽しく「自分なりの発見」をしながら企業人として生きてゆくことができました。


 ところが、衰退社会ですから、若者だって「これはチラシ配りだけで終わってしまいそうだ」ということもなんとなく気付いています。


 そういう難しい時代に突入したことは、これまた良し悪しに関係なく、そういうことが起きているという事実でもあります。



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 しかし、ここで最初のテーマに戻りましょう。


「学力・学歴・知識とは何か」


という重大問題について振り返るときがやってきました。



 いずれにしても「新しい発見」をしないと生きていくのはつらそうだ、ということはわかると思います。


  その「新しい発見」とは、具体的には、



「この難しい時代に、モノを売る方法」


だったり


「この売れない時代に売れるモノを発明発見すること」


だったり


「縮小する社会に抗って成長拡大するネタを発見すること」


だったりするわけです。


 いずれも、センミツのような「これまでにわかっている解」ではなく、それを乗り越えることが求められている難問です。正解はありません。



 もう一度、大学についての説明を思い出してください。



 新しい発見をするためには「先人がやったことを後追いして、なぞる」ことが必須でした。


 ある日ある朝、天から「新しい発見」が降りてくるわけではなく、そこに至るまでの知識を吸収しまくらなくては、新しいものなど見えてこないのです。




 だ・か・ら




「学歴や学力は、実は新しい発見をするためのスタートラインに過ぎない」




のです。どんないい大学を出ても、このセカイで生きていくのが大変なのは、その力を「新しい発見」に繋げていないからです。


 いいですか?学歴あるみなさんに警告しておきます。


「あなたがいかに勉強好きでも、いかにいい大学を出ても、大学院にまで行ったとしても、新しい発見をすることに気付かず、ただいつまでも”先人の成果を後追いするだけ”、”それを学ぶことだけで満足してしまっているだけ”であれば、永遠に学歴のないものと同じ扱いを受ける」


ということを肝に命じてください。ショックを受けてください。


 学歴に逃げても、何も新しい発見は生まれません。


 成果を出すのは、発見をするのはあなた自身の役目だからです。




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