2016年10月20日木曜日
ゴータマ・ブッダのマネタイズ ~人はメンタルと生活の両面で救われたい~
すっかり肌寒くなってきた秋の夜ですが、みなさんいかがお過ごしですか?あなたの心をあたたたたたたああ!めたいナイスミドルの武庫川散歩です。
え?北斗の拳とか知らない?ひでぶ!とかあべし!とかも? ・・・さみしいね。
さて、経済戦争によって文明と秩序が脅かされ、ブラックが支配する弱肉強食の世の中で絶望しているみなさんのために、武庫川散歩は日夜戦っているのでありますが、この世は無常ですので
「お前らは(ある意味)もう死んでいる。っていうか俺も?」
の精神で頑張っているところであります。
さて、武庫川散歩はどちらかというと筋肉ムキムキのケンシロウというよりは、
ハートさま(笑えよ~。ここしか笑うとこないぞ~)
に近い怠惰な体ですが、心優しい勇者だと思い込んでいます。ぜひ心の眼でワタクシを見てくださいませ。
ところで、日夜、解脱者・救世主として活動する中で、仮にここに一人の心に迷いを抱えた美少女がうずくまっているとして、
彼女をどうやって救えばよいのか
ということについては、解脱者とはいえ悩み深いと言わざるを得ません。
その美少女が、メンタルに問題を抱えているのであれば、武庫川は多少のおべっかと口車と、カウンセリングの技術を持って、それなりに彼女の心を和らげることくらいはできるでしょう。
しかし、だからと言って、明日からの彼女の毎日の生活、そう!経済的な生活を救うことは、実は意外と至難の業なのです。
たとえば、彼女が、鬼畜生のように酷い両親の元から逃げ出してきた哀れな被DV女子であったとしても、18歳未満であれば衣食住を確保して保護しちゃったりなんかすると、誘拐扱いになってしまいます。
公的な機関に援助を求めても、彼女に自発的なSOSの意思やその表示ができなければ、彼女を保護した援助者はほとんど力になれなかったりもします。
同じことは、別に20歳を過ぎた大の大人であってもそうで、町の占い師さんや新興宗教の宗教家が「仮に一時彼女のメンタルに手助けができた」としても、その後の人生が立て直せるまでその生活のバックを支えるということは、かなり難しいと言わざるを得ないでしょう。
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江戸時代なんかには、DV夫から逃げてきた妻が駆け込んだら、「とりあえずなんとかしてくれる」縁切り寺(駆け込み寺)のようなものがありました。
縁切り寺の凄いところは、門を入ったらその瞬間外界とはシャットアウトされることになっているので、
「メンタル面での、DV夫からの救い」
も得られるし
「その寺で生活するという当面の経済的救い」
も得られるようになっていて、物心ともになんとかしてもらえるところが素晴らしいと思います。
DVなんかの場合は、可愛そうな女子たちが一時的に逃げ込めるシェルターのような施設が現在もありますから、駆け込み寺のように物心ともに救われる瞬間はあるのでしょうが、
「仕事でパワハラを受けてメンタルをやられた女子」
に対してのシェルターなんかはありませんから、 メンタル方面でのカウンセリングは仮に受けることができたとしても、
その後の生活援助なんて、誰もしてくれない
のが実情で、生活保護なんかを申請しようにも、手続きに手間がかかり、仕事が出来ないこと等証明しなくてはならないという色々なハードルがそこには横たわっているのです。
だいたい、メンタルをやられて仕事をやめているのに、経済援助がされないというのは、絶望以外の何ものでもありません。
なので、心優しい解脱者さんとしては、
「メンタルに対するケアと経済的ケアは常に表裏一体だ」
と考えるようになりました。
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そこで今回のテーマなのです。(前置きが長い)
”ゴータマブッダのマネタイズ”
というビジネス書新刊みたいなタイトルをつけましたが、けっこう真面目なんです。
ようするに、仏教集団しかり、キリスト教しかり、あるいはイスラムにおいても
「どのように、信仰者は物心両面で救われたのか」
を問い直そうというわけです。それぞれの宗教の初期教団の姿を見れば、彼らが信仰的生活(メンタル生活)と、経済的生活(日々の暮らし)をどのように両立させてきたのかについて、何かわかるかもしれない!と考えました。
<その1 仏教のマネタイズ>
仏教教団というのは面白くて、実は、サンガという集団生活体を作って経済的には生き延びようとします。
いわゆる出家信者の集まりなのですが、釈迦・ブッダはそのサンガの経済的運営は
「お布施(寄付)」
によってなされるべきだと考えました。 つまり、労働するのではなく、サンガの外側の社会の人たちから施しをもらって生きることをシステムとして設定したのです。
出家するということは、俗世の持ち物をすべて捨ててくることでもあったので、サンガのメンバーである僧たちは、身体を包む最低限の布(それが袈裟にあたる)と、托鉢の鉢(ごはんをもらうお椀)だけを持って、あとは宗教生活に没頭していました。
そこにあるのは、メンタルの救いと、最低限の経済生活ということになります。
仏教の思想は、欲を持たないことなので、すべてを寄付に頼って、自分からは欲しないというスタンスはある意味整合性が取れているのですが、これが実現できたのは、当時のインドで
「聖者や貧しいものには施しをするものだ」
という概念が一般常識として定着していた、ということがあります。
こういう思想は意外と世界中にあって、「落穂拾い」の絵にかかれているように、全部収穫しないで貧者のために作物を残しておくとかは、当然だったのですね。
しかし、生活保護バッシングなどの酷い現代日本では、「メンタルに問題を抱えたものが、施しで生きる」なんてことは、おっそろしくて成立しそうにありません。
その意味では、ブッダのマネタイズを応用することは、とりあえずは難しそうです。
<その2 キリスト教のマネタイズ>
初期キリスト教というのは、実は職業人の宗教で、そもそもイエスキリストは、
「大工の息子」
で有名なくらい、大工さんなのです。 それからイエスの12人の弟子・使徒のうち、わかっているだけでも
「5人くらいは漁師」
なので、 基本的に彼らは職業集団だったと言えそうです。
簡単に言えば、「手に職を持っているので、信仰生活に没頭していても、最低限は食える」ということですね。
これは大変にうらやましいことです。メンタルをやられて会社を辞めても、なんらかの技術や腕を持っていることで、なんとか食べることくらいはできる、というスタンスは理想的です。
実はカソリックになってからも、修道院では「牛を飼って乳を売る」とか「菜園を耕す」とか、「パンをこねる」とか、労働的活動をやっていました。
北海道のお土産に「トラピストクッキー」なる美味しいお菓子がありますが、これはもともとトラピスト修道院で作られていたものだ、というのが有名ですね。
<その3 イスラム教のマネタイズ>
一番強力なのはやはりムハンマド氏だと思います。なんてったって商人の生まれで、世界を又にかけた隊商貿易のリーダーがスタートですから、ホリエモンやら孫正義が宗教を起こしたようなものです。
そして、隊商貿易では、利害関係のある敵が物資を奪いに来たり、通行が妨げられたりもするので、当時の自然ななりゆきとして武装することになりましたから、軍事指導者としてのムハンマドの姿もありました。
まるで武装した孫正義ですね。
もちろん、最終的には自分の力が及ぶエリアで君主としても仕事をしたので、国家元首という見方もできるでしょう。
ついに独立国を持った孫正義です。
ムハンマドは商売人で軍人で政治家であり、そのエリア内部の人は、物心共に影響を受けた、ということになるわけです。
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こうして考えると、心が傷ついた弱き乙女が、なんとか物心ともに救われる方法があるとすれば、やはり「会社や組織に属さずに、手に職のようなものを持つ」ということが大事なのではないか、と考えます。
公的な組織や機関が、助けを差し伸べてくれる(布施に頼る?!)のであればそれにこしたことはありませんが、
それを待っている間に力尽きる
ことのないように、意識を改めたほうがよさそうです。
それから、修道院のように集団・チームでそれをやってもいいのですが、できれば「何かを作って売る」(小さな商売でよいので)ことができないかを考えたほうがよさそうですね。
武庫川散歩は現在、メンタルの救いと経済的な救いが両立できるようなパッケージを考えようとしています。
え?それってマルチじゃないの?って?!
うーん。だとするとマルチは良く出来てるなあ・・・。
メンタルをアゲアゲにしてモノ売りまくるってのは、たしかにそういうことかも・・・。
いやいや、武庫川は解脱者なのでもう少し清貧なことをやります(苦笑)
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