2016年9月27日火曜日
「死にたい」 自殺未遂50万人の衝撃 〜50万人の闇と苦悩を解脱者は救えるのか〜
いつもなら、ツカミのギャグをかましてから本文に入るところですが、今日も真面目にギャグなしでいきます。
今日配信の日経ビジネスの記事に衝撃的なニュースが掲載されていたので、このモヤモヤはぜひともブログに書かねばならない、と思い筆を取りました。
自殺未遂50万人の衝撃
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/092300070/
ITメディアビジネスにも、おなじデータが載っていましたが、調査の元ネタは日本財団のようです。
4人に1人が「本気で自殺したい」
http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1609/08/news129.html
これまで一般的には、日本の自殺者は、年間約3万人とされてきていました。しかしその中には「変死」扱いが除かれているので、実際には
「10万人〜15万人程度は自殺者がいるのでは」
とも推定されています。
いずれにしても、実際に自殺した方はもとより
「死にたいと思うくらいの苦悩に満ちている」
人が50万人もいるということは、大変な状態だと思います。
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記事を読めばわかりますが、実態としてのこの自殺未遂は、「死にたいと思う」くらいのレベルではすまないもっと程度のひどいものです。
約半数近くが、4回以上の自殺未遂を経験
という内容は、自殺への強烈なベクトルを実感させるのです。
嫌な言い方をすれば、「一度、運良く自殺を思いとどまらせることができたとしても、あと三回は彼や彼女はその後も死のうとするだろう」ということです。
これは、表面的な自殺回避ができたというだけでは、何の本質的解決にもなっていないということを断言していることになります。
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実は武庫川も、まだ解脱する前にこの世界の住人として生きている時、私の一番弟子だった若者が自殺をしたという経験があります。
(ややこしいけれど、その弟子は思想哲学についての弟子ではなく、私の現世的技術技量についての教え子でした。しかし、名実ともに、私の弟子であったことは疑いがありません。)
私は彼が大きなプロジェクトに取り組んでいることも知っていて、経済的バックアップと技術的バックアップを両面から行っていました。
自殺の3日前には、進捗状況を尋ねる電話を直接していたくらいですから、彼の死は私にとって大きな衝撃でした。
そしておそらく、彼が生きていればその分野においては、私を遥かにしのぐような結果を出す大物になっていただろうということは、疑いようがないほど、彼は才能に溢れた若者だったのです。
私は今でも、彼の作品、著作物を世に出すべきか、それともこのままひっそりとしまっておくべきかを悩んでいます。
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武庫川の個人的なお話はもとより、 人はなぜ死のうとするのでしょうか。
記事元の河合さんは、「自己有用感」をひとつのキーワードとして取り上げておられますが、
「自分の存在価値、意義」
があるからこそ、人は生きていると言えるでしょう。
しかし、河合さんも言っている通り、その「意義・有用感」は実にアンビバレントな感情を伴います。
”人間というのは、実に厄介な動物で、
「他人の評価なんか気にするな」と思う一方で、「他人に認めて欲しい」と願う。
「放っておいて欲しい」と思う一方で、「自分の存在に気付いてほしい」と願う。 他者の存在を「めんどくさい」と思う一方で、他者に頼られるとうれしくなる。”
(記事からの引用)
これは、本当にやっかいです。
先日より、ニャートさんとも少しこんな話をしましたが、仮に、誰かが手助けをしようとしても
「そこに、助ける・助けられる関係が生まれれば、それは上下の感覚や依存と支配の関係へ繋がる」
という意味においても、やっかいなシロモノなのです。
だから、解脱者としてはブログでは「誰かを救う」なんて言い方をして、カッコをつけていますが、本当の武庫川は、実際にはそんなおこがましいことは言わず、ただ
「私はあなたの味方をする」
ということばを使います。
「理解する」と言えば「誰もわたしの心の中なんてわからないくせに!」と言いたくなるし、
「助ける」と言えば、「ほら、実際には助けられないでしょ」と言われてしまいます。
「救う」なんてもってのほかで、現実の武庫川は仕事中で抜けられるわけがありません。
だから、本当にできることを、誠意を込めて口にするならば、私には
「あなたの味方をする」
ということになるのです。
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しかし、もっと現実的なことを言えば、 いくら私が解脱者であったとしても、
「50万人もの人々の味方になり、彼や彼女の心を思い、労わる」
なんてことは、物理的に不可能で、それは完全にできないことと言わざるを得ません。
だから解脱者は、ここで確信するのです。
「死にたくなるほど、人が弱ってしまう状態が生まれてしまえば、そこに寄り添うことは、きっとできない。できるとしても、それは、自分が本当に愛するたった一人か二人を救えるかどうかに過ぎない」
と。
だったら、人が弱ってしまう前にしか、50万人を救う方法はない!ということになります。
つまり、
「人が弱ってしまうような状態にならない方法を、伝えたり、組み立てたりすること。それが解脱者のセカイに対する努めである」
ということです。
幸いなことに、解脱者はそもそも「弱り」ません。
悟りを開けば、心が折れることもありません。
しかし、そこには一点の問題が横たわっていて、解脱するということは本質的には
「このセカイとの関わりをどうでもいいと思う」
ということでもあるのです。
それでは、50万人を救うことはやっぱりできないのです。
50万人の人々は、けして「悟りを開きたい」とは思っていないし、「このセカイとの関わりを捨てたい」とも思っていないからです。
そしてできれば、逆説的ではありますが、「むしろこのセカイの中にこそ、自分の存在意義を見出したい」と死ぬ直前まで渇望しているからこそ、死のうとするのです。
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キリスト教圏の人々は、「神に与えられた命、神に祝福されて生まれたわたし」という概念をベースに持っています。
ですから、基本的には「罪も有しているけれど、私の命には意義がある」ということを抱いていきてます。
今、問題となっているイスラムの教えも、「神によって生き、神によって死ぬ」ことをベースにしていますから、
「自分をはかなんで死ぬ」
のではなく
「神のために死ねる」
のです。
悲しいことに、現代の日本人だけが、「なぜ、自分はここにあるのか」という根源的な問いと「自分は果たして、ここにいていいのか」という存在価値に関する究極の問題への指針すら与えられず、何もかもを見失っていると言ってよいでしょう。
しかし、私はそれに回答できるだけのヒントを見つけている、と思っています。
まだ、このブログにも書いていませんが、
「なぜ、わたしやあなたがここにいるのか」
そして
「わたしやあなたはここにいていいのか」
という問いや
「わたしやあなたは、何を抱いて生きてゆくべきか」
という希望に対するヒントは、たしかに存在すると武庫川は確信しています。
50万人の苦悩を少しでも和らげ、彼らが弱らないように、自分自身の存在意義を再発見できるような試みを、武庫川は提供しなくてはなりません。
そして、それは「解脱する」というような荒唐無稽な話しではなく、「このセカイとの関わりをしっかり持ち、このセカイに自分の足で立てる」ようなものでなくてはなりません。
できるだけ早く、その話を書いてゆこうと思います。
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