2016年9月30日金曜日

日本人とは、何者なのか。 地政学で読み解く、日本人の幸せ。



  俺の名は。 


 武庫川散歩、稀代の解脱者にして哲学者だ。



 あらあら、流行しているからって、さっそくネタに取り入れるのは節操のかけらもないですが、拙僧悟りを開いておりますので、俗世のことには惑わされません。(←俗世にまみれとるがな)




 さて。


仕事のヒントは”日本人とは何者か”にある (プレジデントオンライン)
http://president.jp/articles/-/20226




が、いいポイントをついていたのでご紹介しましょう。


 ツイッターで先日「日本人のための救いの理論が必要」とかほざいたのをご覧になった方もおられるでしょうし、このブログでも「地政学」にからめて日本を説く話をしていたのを覚えている方もおられるでしょう。



 武庫川はただ単純に悟りを開くだけでなく、常にその悟りはこのセカイにちゃんと適合しているかどうか批判的・実証的に研究しているので、ずっと、


 セカイにとっての幸せとか


 日本人にとっての幸せとか



も、いろいろな学びを通して考えつづけています。







 その中で、やっぱり最近わかってきたのは、



「日本人や日本の歴史は、この日本列島という特異な島や、周辺諸国との地勢に大きく影響されている」


ということでした。




 まあ、当たり前といえば当たり前なのですが、この視点を見誤ると、私たち日本人は、けして幸せになれない、とまで断言できると思います。



 そういう意味で、この葛西さんという国鉄のおっさん(失礼)の話は、とても興味深いものがあります。



 島国日本の特徴は、葛西さんの言うように面白い側面があります。





【その1】 外から来たものに対する、プラスの感情とマイナスの感情


 海のむこうから「何かいいものがやってくる」という信仰は、日本の古来においてはけっこうポピュラーな思想で、沖縄のニライカナイとか、国津神に対する天津神のように、「発展は、海の向こうから来る」というイメージは現代においても続いています。

 たとえば、世界第二位の経済大国になって(いま三位だけど)すら、欧米に対するあこがれとか、おフランスからの輸入品とか、帰国子女がかっこいいとか、そういうのも全部、「海のむこう」に対する希望と関係があるわけです。


 いっぽうで、海の向こうからやってくるのは幸せだけではなく「蛭子(ひるこ)」とか、「元寇」とか、いわゆる「異形で恐ろしいモノ」もやってくるわけで、ここには日本人の海の向こうに対する


「希望と恐れ」


のアンビバレントな感情が、ずっと覗いていると言ってよいでしょう。



 この感覚、実は「海に関係なく、私たち日本人のベースに染み込んでいる」ということも忘れてはなりません。


 だから転校生にはワクワクするけれど、なんだか怖かったりするのです。(外国人のように、ズンズン相手に入り込めない日本人がいます)


  田舎に都会の人が引っ越してうまくいかないのも、「外部から来る者に関する一定以上の意識や恐れ、反抗心とドキドキ感」に由来します。


 今だに、飲食店に外人さんが入ってくると、ドギマギしてしまう日本のお店はたくさんあることでしょう。





【その2】 海は天然の城壁である、ということ。


 欧米人がフランクに異国の人と接したり、中国人が華僑として世界中へ飛んでゆくのに対して、日本人はどうして閉鎖的で保守的なのか。

 その答えは、日本が島国であることで「常に守られている。常に要塞の中にいる」という感覚に陥っていることに由来するでしょう。


 朝鮮民族が「恨(ハン)」の文化というややこしい感情を持っているのは、これまた地政学的に


「いつ、大陸から半島へ何者かがやってくるかわからない。つまり、いつ寝首をかかれるかわからないし、常に向こうを伺っていなくてはいけない」


という運命に関係します。



 それに比べると日本人は基本穏やかです。


「海という巨大な堀を渡って攻めてくる奴等は、そうそういない」


ということを知っているからです。



 だから日本人は、「内部にいるときは、とっても落ち着いている」のです。







【その3】  内なる団結と外なる脅威。


 ヨーロッパの移民や難民問題と異なり、日本人は「内と外」を明確にしやすい環境に生きてきました。


 常にだらだらと異なる民族が地続きでやってくる大陸とは異なり、外からやってくるものは


「敵か、遭難した人か」


の2つくらいしかありません。対応策は簡単だし、こっち側と向こう側の区別は明確です。


 だから、狭い国土で普段は「イス取り合戦をして、意外と勢力争いをしている」のに、外的に対しては、


「挙国体制で、頑張ろうとする」


のが日本人です。元寇の時どころか、今でもやってます。

ルネサスなんか、世界の半導体と戦うために「NECと日立と三菱がくっついた」のですから。







【その4】 内部分裂は、意外に好き。


 そして、ちょっと触れましたが、内部ではけっこう分裂好きです。


 ちょっと前の家電メーカーなんかもそうですが、テレビもラジオも洗濯機も冷蔵庫も、すべてのメーカーがフルラインナップで作ったりしていました。


 なんで同じものを全員が作らなあかんのかわかりませんが、それだけ対抗心が強いのです。


 日本国内ではこのようなポジション合戦が起きますので、実は内部は戦国時代だったりします。

(それでよく、外的には団結できるな〜と思うのですが、その辺は本当に「元寇」とか「神国日本」とかの時代から変わっていません)




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 さて、こうした日本人の特性に基づいて、私たちはとても面白い歴史を歩んできました。


 その最大のポイントは、やはり「外から来た者が、内なる者になったら、とっても仲良し」ということに他なりません。



 歴史学的には、日本人の多くは大陸からの渡来人をルーツに持つとされます。


 そもそも縄文人が古い日本人で、弥生人は皆来訪者である、という説もあるくらいなので、私たちは元々は


「中国人や韓国人」


だったりしてもおかしくないわけです。



 ところが、現代でも大半の人が、これらの国家に対して嫌悪感を抱くことからもわかるように、日本人は


「こっちサイドになった日本人については、とっても仲間意識」


なのに、


「こっちサイドに降らない者については、あまりにも不寛容」


であるのが特徴なのです。



 そのため、日本人は帰化人については何も言わないのに、「在日なんとか人」の人たちについては、もやもやするのです。


 従って、今後経済的にも道義的にも「移民受け入れや難民受け入れ」を画策する勢力が一定数は出てくるでしょうが、これは



 絶対にうまくいかない



と断言できるのです。



★だいたい、移民にフレンドリーなヨーロッパですら破綻しているのだから、絶対に無理です。






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 さて、移民のことはちょっと別の話として、こうして考えた結果から、


「日本人にとっての幸せ」


を実は読み解くことができるのですが、お気づきになったでしょうか?



 それは、「内なる者たちは仲良し」なのですから、 一つは



「孤独になるのではなく、内になれるような繋がりをできるだけ多くの分野で持つことが望ましい」


ということです。


 会社だけでなく、趣味のつながりや、地域のつながりや、親族のつながりといった、つながりの囲いはたくさんあるほうがよいということです。


 仮に、どこかの枠内で失敗したりはじかれても、他の枠組みの中で生かされることができるからです。


 マイケルサンデルの「これらの正義の話をしよう」では、最終的にコミュニタリアンとしての視点から「共同体」を持って21世紀を生きよう、という提言がありましたが、もっと平たく


「グループとか、集まりとか、クラスタとかファン」


でもいいと武庫川は思います。




 しかし、日本人は、狭い国土でポジション争いも大好きです。


 ですから、二律背反ですが、「共同体(枠内)」でよくポジション争いをしたり、いじめたり、いけずをしたりもするということを忘れてはいけません。



 もちろん、中にはそうした生き馬の目を抜く世界で「勝ち抜き、勝ち残ることに力を注ぐ」意識高い系の人たちもいることでしょう。



  しかし、一方では、そうした枠内から「はみ出したり、押し出されてしまった」人たちも必ず存在するわけです。



 その場合には、共通の敵が現れればいいので(苦笑)、某国と戦争とかが始まったら、そうした問題はだいぶ減少するのですが(苦笑)それは、あまり望ましくありませんね。



 進め一億火の玉だ(大政翼賛会)


 一億総活躍社会 (首相官邸)



まあ、似てるのは気のせいです!!!




 話を戻しましょう。枠からはみ出したり、放り出されたりした人たちが救われるには、一つは


「枠をたくさん持っておくこと」


が予防策でした。


そしてもう一つは


「枠の大きさを広く持っておくこと」


も大事だと思います。



 例えば、営業マンであれば「顧客をたくさん持っている」ということは生き残りの王道です。


 これは、社内活動をやっているように見えて、実は毎日社外活動をやっているようなものですから、会社の枠を超えたところで自分のポジションを取っていることになります。


 あるいは下請けのような「ルーティンの作業ばかり」をしているとしても、同じ仕事や業務内容をしている友人や業界との広いつながりを持っていれば、違う会社へ転職することだって、現実的になります。





 これに関していえば、私たち現代日本人が「核家族化」させられているのは、完全に間違った方向だと武庫川は思います。


 核家族というのは「個人主義によって枠を個人にできる限り近づける行為」です。


 個人主義は、欧米では「よきもの」とされていますが、あれは「神とその創造物であるあなたは直接繋がっているんだよ」というキリスト教観念に基づいて成立している思想ですから、日本人にとっては


「拠り所もなく、個人が放り出されている」


ということが多々起きます。


 シングルマザーが孤独にされたり、老人が孤独死したり、引きこもりがドアの内側にたてこもったり、全員個人レベルで放置されるのが、日本の特徴なのです。



 ですから、昔の家父長制がいいとは言わないまでも「一定の氏族集団が助け合える感覚」を持って生きられるような、日本が復活すればいいなあ、とも思います。



 戦国時代なんかは、「家を守る」ということは個人よりも重視されていました。それが100%いいかどうかはともかく、


「個人が100%絶対化され、重視されるということは、放り出される時も孤独だ」


ということは、覚悟すべき視点なのではないでしょうか。



 私は、譲り合いの精神などの「日本的良き文化」の根底には、「個人の制限」が隠れているような気がしてなりません。


 介護の問題や、保育所の問題というのは、実は「個人は制限されるが、共同体として暮らしを成立させる」という部分にキモがあるように思います。


 その意味では、「保育所に入れさせやがれ!」「老人ホームに空きはないのか!」という感覚では、このお話はいつまでたっても解決しないのではないか、と思います。





























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