2018年2月18日日曜日

なぜ弱者は弱者同士で叩きあうのか。 パート1



 解脱者武庫川散歩さんが、なぜ自分を解脱者なんて言えるのかという根幹に関わるお話を、今日はしちゃおうと思います。


 まあ、いわゆる普通のイメージで、解脱とか悟りを開くというのは



 この世は空しいのであーる


とか


 万物は空であーる


とか、


  究極超人あーる(ゆうきまさみ)


とか


 URであーる(吉岡里帆ちゃん)


とか、そういう話なんだなと思われると思いますが(どんな話やねん)、つまりは



 すべてのものはつまらぬものであったり、取るに足らないものであったり、ほぼ存在意義なんてないのだ


、ということに繋がることを「悟り」というのだな、というところまでは理解していただけると思います。




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 とまあ、ここまではなんとなく解脱者っぽいことを言ってますが、おなじことを人間という存在に当てはめると、とたんに炎上するから人の世というものは変なものです。



 人間(あんた)は、いてもいなくてもどっちでもいいものである。

 人間(おまえ)は取るに足りないつまらなものである。

 人間(きみ)は存在意義なんてない。



 いやいや、解脱者というのは、自分も小さな存在だと気付いていますが、当然相手も小さな存在だと気付いてしまうのですね。


 しかし、それをオモテに出してしまうと、マズイのでふだんは黙っているわけです。弟子にだけは、


 おぬしも小さな存在なのじゃよ


くらいは教えてあげますが、弟子でもないそこらへんの人間にそんなことを言うとヤバイわけで。





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 さて、ここから本題です。



 解脱者になる前、武庫川は世を忍ぶ仮の姿で弱者ばかりを集めたとある施設で働いていたことがあるのですが、 (けして、カイジの世界のように、貧しかったりクズばかりが集っていたわけではないが、とにかくある一定の条件のもので弱者)そこで長年仕事をして学んだことは、


人間というものは、○○できるだろうというレベルの人から、そんなことはそもそもできないんだというレベルの人まで、本当にいろんな到達度の人がいる


ということでした。


もっと平たくいえば


 ほんまにアホなやつから、しっかりしたやつまで、まじでいろいろいる


ということです。


 そして、たとえば彼らがアホである原因は、そもそもの遺伝的な形質がもとであったり、どう頑張っても才能だったり、あるいは生活習慣や環境であったり、それもまた千差万別であることも知りました。


 これも平たく言えば、


 自分のせいだったり、親のせいだったり、周囲のせいもあるだろうけれど、結果としてできないヤツはいろんな理由でできない



ということです。そういう人たちがシームレスにうようよしているのがこの世界で、


「はいここから出来る人たち、はいここから出来ない人たち」


と切り分けられるものではないことも学びました。




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 ところが、こうした弱者ばかりの施設と関わっていて気付いたことがあります。


 彼らの多くは、トラブルが生じるときはたいてい弱者同士で叩きあい、あまり上位のものに歯向かっていったりはしません。

 仮に、社会的地位の上のものに対して抗うことがあっても、そもそも「その地位がすごいことをあまり気にしていなかったり、そもそも理解していない」ということが大半だったのです。


 わかりやすく言えば、政治で気に入らないことがあったりしても


「どうせ政治家なんて悪い金で動いているだけのやつらだろ」


というレベルで話が全部まとめられてしまうような、そういう考え方をするということです。


「大学なんていっても就職できなかったら一緒ジャン」


とか



「ていうか、その前にマジあいつダサいんだけど」


とか、そういう話でこの社会がすべて説明されてしまうセカイで生きているのですね。





 そうすると、弱者がなぜ弱者であるかという部分にも関係してきますが、弱者とはつまり


「体験や経験、知識が不足している」

「そのため想像力が不足する」

「結果、行動パターンや行動範囲、あるいは視野や視点が、極端に狭くなる」



ものを指すのだということがわかってきました。


 ということは、彼らは自分が強者になるべく、


「こうしたら立場や状況が変わる」


とか


「力をあわせれば成果が生まれるかもしれない」


とか、そういう未来発展的な思想は、もともと持ち合わせていないし、そもそもそういうことができることを知らないということなのです。


 あるいは、「力をあわせれば何かできるらしい」ことぐらいは知識としては知っていても、それが


「俺の話だ、あたしの話だ、自分がやるんだ、自分がやれるんだ」


とはまったく思わないということでもあるわけです。



(つづく)

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