2018年2月22日木曜日

差別とは何か。 差別をなくすたったひとつの解決策とは





 私は差別主義者である。


 ・・・・・とこう宣言すれば、おそらくこの記事を読む大半の人は眉をひそめ、そして、あるいは声を荒げてムコガワのことを批難しようとすることでしょう。


 それだけ、現代社会においては、差別という行為についてはかなり人々はセンシティブになっているし、またナーバスになっていることは事実です。



 しかし、それでも解脱者ムコガワは「差別というものは存在する。その意味で差別をなかったことにしたり、ないとみなすことはできない」と考えています。


 差別はあるし、なくなりはしない


ということこそが真実であり、事実だからです。





 その意味では、この話は、これまでに「悟るヒント」の記事で何度かお話した


「人が人を殺すことは善悪は別にして、確かに存在する」


という話に似ています。人は人を殺す。それとまったく同じで、人は差別する、ということであり、それは


 正確に、そして真実として存在する


のです。





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 よく男女差別や、社会における男女の役割や、子育てにおける男性の役割などを議論する時に、解脱者は



「人類が魚だったら、男女まったく平等に参画できるのになあ!」



と考えます。


 サケとかマスとか、とりあえず魚類なのです。


 女子が、ここが適当だと思うところに卵をボチャボチャボチャ!っと産卵して、


 男子がそこへうりゃーと群がって、ビチャビチャビチャ!と精子をかけて


それぞれどこかへ行ってしまったり、あるいは死んだりして、勝手に子供が育つなら、



「保育園もいらないし、育メンパパも不要だし、女ばっかり仕事を辞めたりセーブしなくていいし、社会と男女にまつわる差別や問題は全部解決するのに!」



と思うのです。それぞれ勝手にボチャボチャビチャビチャしてればいいのだから。完全に同等です。



 ところが実際は、女子にだけ毎月生理があり、妊娠して10ヶ月の肉体的ハンデを追い、出産という行為があり、授乳を約1年続けなくてはならないわけで、人類が増えるために3人以上子供を生むなら、足かけ10年近くは


 男子と女子はおなじ生活システムを維持することは根本的に不可能だ


と言わざるをえません。


 多少助けを男性側がすることはもちろんできますが、男性には産めないし乳も出ないわけで、ここに性差が存在するかぎり


 差はかならず存在し、それに対する処遇はかならず同じではない


ことは明白です。


 それはすなわち、(一方をどのくらいさげすむか、あるいは一方をどのくらい保護するかは別にして)差別が存在するということです。



 これはもう、男女の平等においては人は魚以下だということに他なりません。



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 差別は存在してはいけない忌むべきものだ、という視点は、近代国際社会の共通項のように思えますが、実際には現代社会はどんどん差別しあう社会になっていて、口だけです。


  それはとても簡単な理由で、上記のように性別ですら実際には平等ではなく、それぞれのキャラクターが付与されているからで、国と国とのキャラクターの違いや、持てる者と持たざる者のキャラクターの違い、あるいは貧富の差によって、



 差別は絶対に生じるし、存在する



ことになるのです。



 このことをとてもわかりやすく教えてくれる記事があります。



 差別とは何か?アフリカ人と結婚した日本人のわたしが今考えること
 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54492


 

 文化人類学者の鈴木さんという方のお話ですが、「善悪は抜きにして、ヒトはそういう行動を取る」ということを、文化人類学らしく客観視しておられて、とても良い記事だと思います。



 


 ヒトというのは、まず「自分の生存や利益を最大化しよう」と考える生物です。


 そして、「自分の子孫や家族の生存や利益を最大化しよう」と考えます。


 また「自分の社会的仲間の生存や利益を最大化しよう」と考えます。



  これは、言い換えれば、きょうだい間で争うし、血縁のないものの間で争うし、社会関係のないものの間で(つまり他民族や他国家間で)争うということを意味します。



 差別がなぜなくならないかは、それは「自分、自分たち」とそれ以外を判別区別するというもっとも基本的な生物の働きにベースがあるからです。





 上の記事の中にも答えのヒントがありますが、差別や区別、あるいはそれぞれの間に「差異」があることを認めながら、そこから他方へのさげすみや攻撃を減らすための方策はたったひとつしかありません。





 それは、差異の中に共通項を見出すことです。




 我と彼は、差異がたくさんある。しかし、おなじほにゃららを有している。



ということに気付いた時、さげすみと攻撃は緩和されます。差別や区別や、差異はけしてなくならないし、それはもともと別個のキャラクターです。


 ところが、さげすみと攻撃はいくぶんなりとも必ず減るのです。ここが差別問題に対する、たったひとつの突破口です。




 おなじ仲間なんだ。おなじ家族なんだ。


 おなじ民族なんだ。おなじ国民なんだ。


 おなじ祖先なんだ。


 おなじ人間なんだ。


 おなじいきものなんだ。



 この共通項の認識は、それぞれの人や立場などによっても変わって来るでしょう。しかし、どこの部分でストンと落ちても実はかまわないのです。


 どのレベルであってもいいから、ストンと落ちるものがあれば、それでいいのです。


 そういう心の動きができるのも、これまた人間のもつ可能性だと言えるでしょう。

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