2015年5月9日土曜日

<日常>清く正しく美しいメンヘラのための漫画 ~「ゆがみちゃん」を読む~

 GWが終わると、なんということでしょう!もうすぐそこに梅雨がやってきているというではあーりませんか!

 今年は、本当に雨が多くて、心も体も鬱々しそうです。なーんてね。どうもどうも、あなたの心の恵みの雨になりたい武庫川散歩です。


 さて、毒親に育てられてしまって、心がわさわさしながら大きくなった少女「ゆがみちゃん」の物語が、反響を呼んでいるようです。



 『ゆがみちゃん』
 https://note.mu/yugami/m/m38335f44dc81


 ☆現在は完結。35話まであり、けっこう長いです。



 まー、なんというか。極端にややこしい親に育てられられたりしたせいで、いろいろと心がゆがんでしまったゆがみちゃんですが、いろんな行動や、いろんな人との出会いで、少しずつそうした問題を解決してゆく壮大な物語になっています。


 自称他称を問わず、メンヘラ傾向のある方は、一度ご覧になると、いろんな感想が生まれることでしょう。

 もちろん、感想はお読みになったみなさんの自由ですが、ここでは、


 解脱者武庫川散歩から、いくつかのポイントを指摘しておきたい


と思います。

 まず、この漫画は、実際の「ゆがみちゃん」の家庭がどうだったか、を問うべきものではありません。漫画はゆがみちゃんのモデルである作者自身の目線から見た「家族像・友人像・環境像」ですから、真実を問い直すのであれば


 かなりバイアスがかかっている可能性を差っぴかなくては


なりません。これが、裁判であれば、ゆがみちゃん側の主張も、親や友達側の主張も、公平に傾聴して物事の

「よしあし」

を判定しなくてはなりませんが、 そうなると、この漫画には、ゆがみちゃんの一方的解釈が多すぎるということになるでしょう。


 しかし、ここではそれを問題にしない、ということが大事だと思います。


 どういうことか?!


 大事なことは「心に闇を抱えた人間は、事実はどうあれ、このような視点で物事を捉えて、そして行動する」という、ベースの部分を理解し、そして、

 「そのメンタルを、一般社会とすり合わせたり、コミュニケートしてゆくには、どうやって認知を改めればいいか」

という方法を指し示していることを理解すればいいのです。


 これはとっても大事なことだと、解脱者☆武庫川散歩は考えます。


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 以前、

 http://satori-awake.blogspot.jp/2014/03/blog-post_29.html


の記事で、「ストーカー被害を訴える女性の話」を紹介したと思いますが、某精神科のセンセイによれば、もしかすると


「ゆがみちゃんの物語は、ゆがみちゃんの壮大な誇大妄想という病気である」


と想定することも可能です。その場合は、前述の裁判のように


「何が真実で、何が誤りかを判定しなくてはならない」

 
ことになってしまいますよね?


 ところが、ゆがみちゃんの物語がもし誇大妄想だとしても、その妄想の中で「いわゆる世間と、まっとうなコミュニケーションがとれるような気づきや変化までがセットになっていて、その通りに行動できてしまう」のだとすれば、それはそれで


 世間的には、全然問題がない


ということになるわけです。ここが面白いところ!


 「最終的に、世間ときちんとコミュニケートできる人格が完成できるのであれば、そのプロセスや定義がゆがんでいても、とりあえずはいいじゃん」


とするわけです。



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 私がこれまでにたくさん問題のある方と接してきた経験からみると、「ゆがみちゃん」は、自身で到達や解決できていない問題がいくつかまだあります。

(もちろん、まんがのゆがみちゃんに対してですよ!作者さんに対してではありません)


 それは、「愛することとはどういうことか」という点であったり、「仕事を変わりすぎており、またそこにかならず会社の環境を批判する正当化が伴う」という点であったり、「自分に都合のいい人間は善で、そうでなければ悪という認知のパターン」であったり、まあいろいろありそうです。


 この世界のすべての人間は「善悪を併せ持つ、混沌とした心」を持っています。また、表面に現れる生き様もそうなので、その状態で人は人と接していかなくてはなりません。


 しかし、ゆがみちゃんの認知にかかれば、

「そういうことを言うのは、そういうことしか言わないうわっつらだけの世間の人」

ということになり、

「そういうことを言わないのが、私をわかってくれるいい人」

ということになりますから、その時点で決定権がゆがみちゃんにもっていかれることになります。


(この考え方に陥るのは、宗教家庭に育っているからですね。ワタクシもそうだったので、よくわかります。世間の人間を「神の側にある存在」と「悪魔の側にある存在」というふうに分けてみる癖がつくのです)

 ゆがみちゃんの話には、「悪い人たち」と「出合った中でのいい人たち」がけっこうくっきり登場します。これは、特徴的な描き方だと思います。



・・・しかし、その辺を議論するのがこの記事の本来の目的ではなく、そういう


「ゆがんだ認知の人が、なんとかこの世界と折り合いをつけてゆくためのヒント」


としては、大変に有益だと思うわけです。


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 そういうわけで、メンヘラのみなさんにも、一読をお勧めするわけですが、超越後のゆがみちゃんには、ぜひ


 愛すること、愛されることとはどういうことか


について、最後の発見をしてほししなあ、と思う次第。お幸せに。






 

2015年5月7日木曜日

<日常>帰ってきた勝手に人生相談シリーズ! その6 「ブサイクすぎて働けません」

 ゴールデンウィークも無事に終わり、ゴールデンボールが蒸し暑くなってきた季節ですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか?

 稀代の解脱者、武庫川散歩です。こんにちは。



 最近、書いてなかったので、今回は久しぶりに「勝手に人生相談シリーズ」をお届けします。このシリーズは、誰にも依頼されていないのに、あくまでも独断と偏見に基づいて勝手に人生相談に答えるという完全におせっかいに等しい独白のコーナーです。



 さて、今回の悩みは


「私は、ブサイクすぎて働けません。もう4年も仕事をしていません」


というもの、元ネタは、

http://blogos.com/article/111530/


にあります。


 働けないポイントは、「笑われたり、悪口を言われたりするのが嫌で働くことができません。」

ということのようです。いったいどうすればいいのか!


 悟りを開ききった解脱者の武庫川散歩が、今日も明解に回答してみましょう。


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 まず、4年も仕事をしないで食べていけていることを、素晴らしいと思います。私なんか、仕事しないとたぶん半年も家計が持ちません。


 仏教的には、その環境にいられることが、まず感謝です。ご実家におられるのか、あるいは、親からの扶助があるのかもしれませんが、親御さんの金銭的な負担は、大変なものであろうと想像できます。


 なんと言っても、4年も働かない同居人がいるのですから!


 ということは、まず基本中の基本として


「ブサイクに生まれてしまったことを親に対して恨むべきか、それとも、今でも生活を支えてくれることを感謝すべきか」


どちらが、より重たいのか、親が究極的に悪いのか悪くないのか、をまず議論するべきだと思います!


 「いや、そこは問題ではないのです」

と遠慮なさるかもしれませんが、あなたは、「自分をブサイクだと断定なさっている」わけですから、ブサイクの原因についてまずは徹底追求するべきです!誰がなんといっても、そのブサイクの原因は、親にあるとしか考えられないのですから!!!!!



 それともなんですか?親には感謝してるし、自分がブサイクだということは、それなりに受け入れているということですか?


 では、自分の親のせいでブサイクに生まれたということを、あなたは責任追及せずに、とりあえず、受け止めるということでいいんですね?

 ブサイクであること自体には、文句はありませんね?!

 では、ここまでは定義終了です。


 ブサイクでも、かまわない。親には感謝している。と。


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 では、次の段階へ行きましょう。


 自認するくらいブサイクなあなたに、愛情を注いでくれている両親のもとで、ぬくぬくと育っておられるあなたは、「会社にいけば、顔を笑われる」という理由で仕事ができないようですね。


 いや、その前に、まず議論すべきことがあるでしょう。


「ブサイクなのに、変わらぬ愛情を注いでくれる両親のもとにいながら、それでもぬくぬくと実家から出ず仕事をしない娘」に対して、近所のみなさんが


「やあねえ、あそこの娘さん。4年もひきこもっているのよ」

とか

「まあ、恥ずかしいわ」

とか、


そっちのほうを笑ったり、悪口を言ったりしていることになぜ気付かないのですか?


 あなたが家にいることのほうが、よっぽど世間体がブサイクであることに、一刻も早く気付くべきではありませんか?



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 さあ、ここで第三段階に進みます。


「世間体がブサイクなのと、顔がブサイクなのと、どっちがよりブサイクか」


徹底的に議論してみましょう!さあ、ほれ!ほれ!



 ・・・まあ、だいたいこのへんくらいで、いいでしょう。そろそろあなたの脳みその中で、


「ブサイクブサイク言うなーーーーーーーーーーーっ!!!!!」


と叫び出す頃でしょう。そうでなければ、「まったくもって武庫川さんの言うとおりです。私が悪うございました」とひれ伏しているはずですから。



 それでいいのです。本当に恐ろしいのは、顔がブサイクになることでなく、


 心がブサイクになること


なのですから。



 仮に、あなたの言うとおり、100%ブサイク認定しながら話を進めると、上のようなことになってしまうわけです。

 ということは、100%ブサイク認定しながら話をする、なんてことそのものが成り立たないのです。



 だとすれば、働けない原因は「ブサイク」だからではなく、


「否定されたり、嘲笑されることが嫌だ」


ということに他なりません。



 そうなると、誰だって否定されたり、嘲笑されたりするのは嫌なのですから、根源的な問題は、


「他者と向き合うのを、どう乗り越えてゆくか」


という点に他ならないわけです。



 では、「他者ときちんと向き合えず、4年間働いていない人」はどうしたらいいのでしょう。


 別に働きたかったら働けばいいし、働きたくなければ、そうすればいいのです。基本的には、すべての問題は「あなた自身」の問題に過ぎません。


 誰も代わってくれるわけではありませんので、解脱者的には好きにしはったらかまわない。


 あとは、自分がどうするかだけです。自分が変わるのか、変われないのか。変わらないまま人生が終わるのか、終わらないのか。


 冤罪で人生の大半を牢獄に押し込められた人たちが、この日本においてもたくさん存在しますが、彼らは自分で何かをしようにもできなかった人たちが大半です。


 国家権力によって、彼らの権利は押し込められていたからです。


 ですが、あなたは今自由です。働かなくても、食べてゆけるくらい、自由の中で生きているのです。


 その自由という世界を牢獄だと思いたければ、思えばいい。好きにしはったらよろしい。


 すべての人は平等に死にます。かならず全員に死がやってきます。


 その間、どのように生きるのかは、その人だけが選択できることです。


 どうぞお好きになさってください。



2015年5月1日金曜日

神と宗教について知るためのヒント ~宗教と進化論~

 最初に宣言しておきますが、今日はまじめです。

 いつもクソふざけて書いているので、一部のコアなファンにはつまらないでしょうが、お許しを。

  普段、このブログで涙あり笑いありのスタイルで書いていることを、淡々とまじめに表現なさっている良い記事が二つあったので、魂の救済を求める

 宗教に対して真摯で、かつ哲学に対してまっすぐ向き合おうとしているあなたに

ご紹介しておきましょう。


<1> 宗教という「不思議なもの」

  ライフネット生命でおなじみの出口治明さんによる、世界中の神様と宗教について知るための良書案内です。

 http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20150427/280463/?P=1

(日経ビジネスさんより)


 宗教の教祖とは、いつも時代の変革者であり、また、苦しむ者たちにこそ一神教は強烈に訴えかけるものとなることなどが説明されています。

 また、アメリカ的プロテスタンティズムの概略について説明があったり、日本はなぜ多神教で平和なのか、あるいはこれからの「神」の概念についてなど、平易で丁寧に説明があります。


 日経ビジネスさんの記事は、一定期間が過ぎるとIDを持たない人は読めなくなるので、無料登録も検討してみてね。




<2>最適者はどこからくるのか?

 今度は、別次元から「神的なもの」についてアプローチした良い記事です。

 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150425-00010001-wedge-life


 「進化の謎を数学で解く」という本の紹介ですが、この発想は面白い!!!

 もし、神様がいなくて、生物はすべて進化で今の姿になっているのだとしたら、どうして私たちや動物は「最も環境に適した姿」を手に入れることができているのだろう、という疑問が沸くはずです。

 ダーウィンの発想は「最適なものが生き残った」ですが、そう都合よく生き残れるものだろうか、という謎が生まれます。


 死屍累々のハズレとアタリの確率は、どれほどのものになるのだろう


という見方もたしかに数学的ですが、この書ではもっと可能性を広げて、


「たとえば、目の能力を手に入れるには、どんな変化がおきる確率があるのだろう」とか

「たとえば、飛ぶためには、どんな組織や細胞が変化すればいいのだろう。その確率は?」とか


そういう発想で進化を捉えてゆくのです。

 そうすると、「たった一つの大当たりに出くわしたので、生き残った」わけではなく、「思っているよりも高い可能性や確率でその機能を手に入れることができた」んだということが発見されるわけです。数学的にね。



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 まあ、この両方とも、このブログでもいろんな観点からお話していますが、個人的には、記号がユニットを形成するという定義さえしてやれば、けっこう自由に「高機能な細胞組織」や「しくみ」が生み出せるのではないかな、とも思います。

 その意味で、「進化の謎を数学で解く」は面白そう!


 まあ、こんな風にたまにまじめな日もある武庫川散歩でした。ではでは。





2015年4月23日木曜日

哲学はメンヘラのためにあらず。 ~世界では哲学はエリートのための学問なのであーる~

 現代日本において「哲学」というと暗いオタクがちなオトコか、メンタルに問題がありがちな人間が学ぶものと、相場が決まっているのですが(いや、いや、決まってない決まってない)、ここではっきりと宣言しておくならば


「僕は哲学が好きだ」


なんて思っている男子と付き合ったら、かなりの高確率で不幸になるのであしからず。


 なんなんでしょうね。立身出世で高度成長で、バブルもはじけた日本においては、基本的に


「哲学は、思想的メンヘラの逃げ場となっており、

二次元は欲情的メンヘラの逃げ場となっている」


のは、 どうも否定できそうにありません。


 私、武庫川散歩なんぞはご存知の通り、小さいときから原理主義者だったり神と戦ったり、「存在とはなんぞや」なんてことをずっと考えているので、基本的に「哲学」とは親和性が高いほうなのですが、それでもすべての哲学者の思想を知っているかといえば、そんなことは全然ありません。


まだまだペーペー、林屋ペーでございます。カシャ!


 たとえば、ギリシャ哲学とデカルトカントショーペンハウエルと、ヘーゲルとルソーと、フロイトユングフーコーと西田幾多郎とそれからそれから・・・。

 もっともっと山ほどいる思想家や哲学者のうち誰が好きかと聞かれたら、真っ先に答えるのはもう決まっています。


 当たり前でしょう、武庫川散歩以外にない!(笑)


 哲学のことを知りたければ、高校の倫理の教科書を読めば一通りのことはわかります。大学なんか行ってもダメですよ。大学の哲学科は、高校の倫理の教科書から一人選んで、そいつについて4年間調べさせられるという苦行ですから、


「いっそ哲学科でブッダを選択して、大般若経を調べ倒すのと、仏教科へ行って華厳経を調べ倒すのと、どっちが哲学か」
 
という、すでに何かを三つくらい超越した話になってしまいます。 (おおむね、哲学科を標榜している学科は西洋哲学にかぶれてますので、要注意です)


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ワタクシ、若い時期にとある大学で哲学を専門に研究なさって、本までいろいろ出しているという哲学専門のセンセイと知り合いになり、彼といろいろと議論したり話ししたり飲みに連れていってもらったりしたのですが、まあ専門分野以外は普通のおっさんでした。

カラオケが好きで、よく唄ってましたね。女性も好きでした。でも仕事はよくできました。

 というわけで結論から言えば、


「哲学を学んだからといって、心が穏やかになったり、世の中を超越したり、なんか凄い存在になったりするわけではない」

ということがよくわかりました。

「仕事と遊びと女が好きな、一見難しそうなことを言っては、カッコいいところをPRしちゃったりする、世の中にごまんといる仕事がデキルおっさん」


にはなれそうです。


 ところが、実はこれって大事なことで、日本では「根暗の食べ物」みたいに思われている哲学が、ヨーロッパでは、


「イケテルおやじの必須ツール」


だったりするわけです。意味わかるかな?

 
 そもそも、博士号なんてのは欧米ではPh.Dですから、


哲学博士


なんです。間違っても、 死神博士ではないのです。


 そういう意味では、哲学、つまり「この世界とはなんであるか」ということそのものへの素養が、博士を名乗るには必要だというわけで、言い換えれば、道を究めるというのは、その道を通じて、このセカイのあり方を根源から問うということなわけです。



 というわけで、そんなことを思い出させてくれた良い記事があったので紹介しておきましょう。


世界のエリートはなぜ3歳から哲学を学ぶか

http://toyokeizai.net/articles/-/66750

(東洋経済オンラインさんから)

 

 この記事を読むと、いわゆる哲学的思考とは「教養論」に非常に近いということがわかりますね。

「教養論」とは、大学で職業教育を学ぶのではなく、教養を学ぶのだ!というアレです。

 

 

 

 

2015年4月11日土曜日

霊力アップ、能力アップ、運気アップの門外不出の秘法!? ~実践解脱トレーニング~

 人間には超能力霊力みたいなものがあるのかどうかについて、みなさんはどう思いますか?

 ワタクシは、幼少の頃とっても元気におしっこをしていて、父親に、


「ほらほら見てみて、すごいでしょ。ちょーにょーりょく」


と言ったそうです。その自分から発揮していたんですね。


超尿力!!!



・・・どうも、あなたの心のオアシス、武庫川散歩です。


~~~~~~~~~

 巷にさすらう怪しい宗教や哲学を超えたところで高笑いをしているこのブログのファンであれば、

「どうせ、武庫川さんのことだから『超能力とか霊力とかそんなもんはない』とか言うんでしょ?」


と気づかれてしまいそうなところですが、そこは裏をかいて


「超能力はありまーす!」

「すたっぷ細胞はありまーす!」(風に)


と言っておきましょう!!!





えーーーーーっ!!!!


 あの反オカルトで、世界は存在しないの 武庫川散歩が、あろうことか超能力の存在を認めるなんて、大変なことが起きている!!!


 ついにおかしくなったか!と思われそうですが、早まってはいけません。

 私はいつも、セカイは物理科学に基づいて起きており、超常現象とかそういうのはちょっとどうなの?というスタンスであることについては明確に自分の立場を示している通りです。


 だからこそ、言うのです。


「みなさんが思っているような、一般的な超能力や霊力のようなものは、たぶん存在しない」



「しかし、あなた自身が気づいていないような力や能力を研ぎ澄ませることは可能である」


と。


 それを、より低俗な言い方にもし言い換えるのであれば


「予知能力」

「未来を変える能力」

「自分の意図どおりに世界を変える能力」


と言っていいかもしれません!!ババババーン!!!



 おおっと!これまで純に科学的論理的だったこのブログも、いよいよオカルト突入みたいですね。ここからさきは、超能力をエサに信者を捕まえてお金をもうけるつもりに違いありません!


 ひゅーひゅー!


 ・・・なんてことは、全然なく。あくまでも科学的論理的に「超能力」の身につけ方をご紹介したいと思います。



~~~~~~~~~~~

 実は、私はふだんはふつうの一般的な俗世の仕事をしていますが、それらの仕事の中で、「自社に都合のいい業務をひっぱって来たり、ライバルを蹴落としたり」なんてことをつらつらとやっています。

 そうした行為は、みなさんも会社や社会で、異の大小はともかくいろんな場面でやったりやってしまったりしていると思いますが、超能力を高めると、


「ここでどうすれば、このあとどうなるのか」「この情報をどういかせば、有利になるか」


といったことが、瞬時にわかり適用できるようになるわけです。

 こうした先読み能力、未来を変える力、意図を実現する力は、論理的ではあるのですが、 その瞬間瞬間は、私にとっては


直感


という形で作用します。

 そもそも、論理的な情報の蓄積であっても、人間はそれを時間をかけて判断している暇はない動物です。 時は待ってくれないので、瞬時にデータを処理して、


「ここだ!!!!」


というポイントで実行することが、幸せに生きる秘訣なのです。


 思えば、この能力を使って、いろんな幸せを手に入れてきました。



 今住んでいる住宅は、業者が完全に底値放出の瞬間を掴んで指値を入れました。

 1000万円の年収を得ているライバル会社のトップを、たった一言で辞めさせました。

 うちのこどもはみんな、一発受精です(だからなんなんだ)

 

 ・・・まあ、悟りをひらく前から、いろんなラッキーを引き寄せてきたんですけどね。


 しかし、こうしたことは、周囲でどこから見ても「まさかそんな意図が隠されているとは」誰も気づかず実行されています。こっちがその瞬間を外さず掴んでいるなんて、相手はまったく知らないのです。

 だから私は、確実に超能力を使っているのですが、誰もそれに気づいてはいません(笑)


 もちろん「じゃあ、宝くじを買ったら当たるのか?」なんてことを尋ねられたら、それは確実に「当たりません」と宣言できます。だとすれば、その超能力とは、いったいどんなしくみなのでしょう。


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 ではここから、武庫川散歩流の、「超解脱・超能力」についてその体得方法を説明しましょう。

 もちろん、誰にでもできます。ライザップみたいなもんです。

 
 まず、超解脱・超能力は、その正体は「あなたの中に蓄積された、情報の集積と気づき」にほかなりません。

 一般論でいえば「経験」と言いたくなりそうですが、経験とはちょっと違います。人間は、五感を使っていつもデータを受信しています。セカイからいろんな情報が飛び交ってきており、それを受け止めて処理しているのです。


 ところが、一般の人間は、そうしてどんどん入ってきている情報の嵐を、特に処理せずに廃棄してしまっています。ようするに、なーんにも考えていないのです。


 しかし、こうした情報の嵐に対して、常に意識上でも無意識でも感覚を研ぎ澄ませていると、それらはあなたの中で、「その瞬間を待つ、待機モードで蓄積」されはじめます。

 そうすると、「いざその時」が来ると、


「ん?なんかよくわからんけど、こうしたほうがいいような気がする」


という直感的ひらめきを発動してくれるようになるのです!!!


 本人は、「どうしてそうしたらいい結果になるのか」について、論理的に説明することはできません。(もちろん、時間をかけて、論証してゆけばそれは証明できるのですが、なんせ決断は瞬時ですから、そんなことを考えている余裕はないのです)

 しかし、確実にあなたの中でデータは処理され、もっともあなたに利益をもたらす行動として発現するのです。




~~~~~~~~~~

 こうした力を手に入れるために、武庫川散歩はいくつか「変わった」トレーニングをしています。

いわゆる解脱のための修行のひとつですが、みなさんから見ると、まったくわけがわからないと思います。


 これらは実は門外不出の秘密なのですが、ちらっとだけパンチラしておきましょう。ちっとも、参考にならないと思いますが、超能力を手に入れたいと思う人は、ためしてみるか、こっそり武庫川散歩に弟子入りしてみてください。


 あ、念のためお断りしておきますが、うちに弟子入りしても飛んだり浮いたりできませんよ!

 

<トレーニング法 1>

 私は仕事で車を走らせていると、村や町の神社を見かけるたびに一礼します。 わけがわからない人のためにやさしく解説しておくと、まるで「ここを通りますので、よろしく!」とその土地の神様に挨拶をするような感じで会釈するのです。

 たったこれだけ。


 解脱に到達している人は、これが超能力を手に入れる秘法とどう関係しているかすぐにピンとくるのですが、そうでない人のために、さらに方便を使ってやさしく解説しておきましょう。


 まず、私は神道の神が存在しているとは思っていません。(おいおい)

 それでも、その土地の神社に挨拶をするということは、その土地・環境・今という瞬間に私を取り巻くデータを取り逃さないように知覚を集中させているのです。

 それを平たく具現化したのが「神社に挨拶」ですので、挨拶そのものに意味はありません。

 しかし、神社というのはその地区・地域の象徴であり中心であるので、それを目印にして意識を集中させるのは無駄がありません。そして日本には必ず、地区ごとに神社が存在しますから、その地区地域の空気感、その場を取り巻く雰囲気も含めて意識を高めることができるのです。



<トレーニング法 2>

  私はよくおみくじを引きます。また神道が出てきましたが、別に意味はありません。おみくじのような偶然の産物から、意味や意図のあるデータを引き出そうとすることも、よいトレーニングになります。

 しかし、実際に書いてあることを深読みせよというのではありません。

  たとえば、人生に迷ったときに、たまたま手にとった本の中から、ヒントとなる言葉を見つけ出すように、(まさにこれがデータを生かす力なのですが)、自分の中にデータを蓄積させて、またそれを瞬間的に爆発させるために、多様な言葉が載ったおみくじを利用しない手はないのです。


 タロット占いが好きな人は、「そこから何を読み取るか」という手法について熟知なさっていると思いますが、似ている部分もあります。

 しかし、本当はタロットのカードにデータがこめられているのではなく、日々毎日あなたの身の回りに、幸せに生きるヒントは溢れかえっているのです。

 それを的確に手に入れるためには、トレーニングはとても有効です。





















2015年3月28日土曜日

「怒り」はなぜ生じるのか。 怒りとは何か。

 悟りを開いてからというもの、ワタクシ武庫川散歩は全然、というか全く「怒り」というものを覚えなくなったのですが、おかげで日々穏やかに暮らしています。


 そりゃまあ、そうですな。解脱してるのに俗世のことに逐一怒りを覚えるのは矛盾しています。この世は無常、無常ったら無常なんだから、そんなん別にどうでもいい(笑)


 ・・・とまあ、そう言いたいところですが、つい先日珍しく「怒りに似た感情」のようなものを感じたので、なんにでも興味を持つ、欲の塊である武庫川散歩は、



 はて、この感情はなんだろう?



とそれを追求してみることにしました。


 すると、面白いことに気付きました。最弱解脱者を持って、さらに怒りを生じさせしむるところの原因とは一体なんなのか。これはなかなか奥深く・そしてさらなく解脱に通じるものが潜んでいるのです。


~~~~~~~~~~



 さて、怒りです。 そもそも、あの日、正常で穏やかなる心で過ごしている武庫川散歩さんに何があったのでしょうか。


 ええ、実は武庫川さんは、ツムツムしてました。ツムツムって何?という人は、ネットで調べてください。まあ、簡単に言えばゲームです。


 ツムツムが嫌いな人は、ドラクエでもモンハンでも、七並べでも脱衣マージャンでも何でもいいのですが、ようはゲームをしていたわけです。


 ・・・え?解脱者がゲームするのかって?しますよ?それが何か?

 解脱者がゲームをしようがしまいが、そんなことは無常で色即是空なのだからどうでもいいのです。別に、ゲームをしたいという欲望にまみれてしているわけでもありません。

 通勤電車の中で、時間をもてあましてちょっとスマホでゲームをしてみるとか、そんなもんです。どうしても解脱者はゲームをしてはいけないというのなら、そうしたい人はそうすればよろしい。


 ワタシはどっちでもいいです。別に(^^


 ・・・さて、話は戻ってツムツムしてたんですが、そうすると幼い武庫川散歩のこどもがちろちろやってきて、スマホの画面に指を出していろいろ操作をしよるわけです。


 まあ、簡単にいえば、本人はお手伝いのつもりかわかりませんが、私とおんなじように、指先で画面を触ってボムを消しよるのです。


 そこで、最弱解脱者武庫川散歩は、ひるみました。



 「お、おおおおっと。ちょっとまってくれ。君の指のせいで画面が良く見えない。ぶっちゃけていえば邪魔!」


という感情が、にわかに巻き起こったのです!!!


 よく考えてみると、・・・いや考えるまでもなく。所詮ゲームですから、ワタクシ武庫川散歩は、最初からゲームをすることに価値を置いていません。別に高得点を狙っていたわけでもない。

 子どもが嫌いなわけでも、彼がいやがらせでそれをしているから否定的になってるわけでもないのです。

 しかし、余計なことをされたことに、「怒りの感情」の芽が萌え出たことだけは確かです。


 平たくいえば


「いらんことするなアホ!いまお父さんがゲームしてるんやから触るな!」


という怒りの感情なのです(笑)


 そして、その瞬間。解脱者武庫川散歩ですから、


「はて?別に何の価値もおいていないゲームであり、別に真剣にとりくんでいるわけでもないのに、なぜこうした感情に襲われるのだろう。悟っちゃわないと!」


と思ったというわけです。



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 読者のみなさんの中には、



「そりゃあんたが、解脱者とか名乗っているけど本当には解脱していないから怒るんでしょ」


と論破なさる方がいるかもしれません。そうなんです。ワタクシ、真性解脱じゃなくて仮性解脱だったんですね。


 まあ、そんな下ネタはさておいて。真性だろうが仮性だろうが清潔にしていればよろしい。


 わたしも、仮に仮性だったとしても心は清浄です(^^


 一皮むけたいい男をめざして頑張ります。



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 当ブログのファンの方からみれば、そもそも武庫川散歩が「本当の解脱者かニセモノの解脱者か」を議論するブログじゃないことは百も承知の上でしょうので、ここはその問題はすっとばして次へいきましょう。



 ここから、まじめに進めます。



 怒りという感情は、上の事例の場合「ゲームに集中しているところへ、他者から、故意ではないにしろ介入を受けた」ということが原因になっています。


 これ重要!


 いいですか?怒りというのは、自分とそれ以外の存在がいて、「自分という存在に対して、他者が攻撃や介入、あるいはなんらかの反対の提示をする」ことによって起きるのです。


① 攻撃される。 ・・・これはわかりやすいですね。どつかれたら「何すんねん!」と思いますよね。怒り発生です。


② 介入される。 ・・・話してるところに割って入られたり、車で横入りされても怒りはおきます。


③ 反対の提示。 ・・・憲法9条守ろうな人が、「憲法改正しようぜ」ポスターを見るだけで怒りです。



 もっとつっこんで言えば、「他者が自我に対して、自我と逆の提示をすること」が、怒りの源泉なのです。



 ゲームの場合は、たとえどうでもいいゲームでも、ゲームをしている主体である自我に対して、他者が、「自分の進めようとしているゲームに対して介入的な」提示をしたので怒りが生じたのです。



 もっと平たく言いましょう。


「主体が、客体から主体の意図と反対の提示を受けただけで、怒りは生まれる」


のです。



 世間では「はだいろ」のクレヨンやら色鉛筆が無くなったそうですね。「はだの色は人種によって差がある」というクレームがあるから、ペールオレンジに名前が変えられました。


 はだいろは誰も攻撃しないし、はだいろはあんたの肌の色に介入しないけど、怒る人がいるのです。


 つまり、「人は自分の考えと違うものごとを見ただけで怒る」とも言えるわけです。ああ、しょーもない!人はしょーもなさすぎる!



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 さて、では真の解脱者はどうすれば、こんなに単純な「怒り」を超越できるのでしょうか?


 実はこの問題に、さらなるステージの「超解脱」のためのヒントが隠れていました。


 そうです。「この世界は無常でどうでもいい」と思っていても、怒りは覚えてしまう。なぜか。


 それは、あなたやわたしに「自我」があるからです。ワタシという主体があるから、主体と反対のものごとを提示されるだけで怒ってしまうのです。


 では、真の解脱を得るためには、「主体」を超えればいいということなのではないか!と誰でも気付きますね。



 そう!その通り。簡単に実行するには「自分。ワタシ。自我」という主体を、飛び越えればいいのです。


 こんな書き方をすると、なんだか難しそうですが、やり方はとっても簡単。


 自我や主体、自分について意識するときに、同時に客体で他者、天上からの視点を同時に持てばいいのです。


 たとえば、ゲームをしているのであれば、画面に注力するだけだと完全な「主体自我自分」ですが、その瞬間に、それをしている自分を客観視できる視点を持つことができれば、主体自我自分に溺れることはありません。


 ゲームをしていると同時に、小さな画面に拘泥しているしょーもない小さな男がそこでうつむき加減に必死で指を動かしている姿を自身の中に見出す、これが怒りを生むでしょうか。



 この客観視ができた時点で、「怒る」必要はありません。そもそも、怒りの源泉であった「主体」が「客体」と一体化しているから、怒りは生まれないのです。




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 「主体と客体の合一」は仏教でも説かれる概念ですが、一般的な仏教解釈では



「わたしとあなたの境目がなく溶け合った状態。世界はひとつ」


みたいな解釈が添付されることがあります。そっちが好きな人は、エヴェンゲリオン映画版でも見て楽しんでください。





 また、哲学者の西田幾太郎も「主体と客体の合一」を説いていますが、そちらでは、


「たとえば愛のように、わたしがあなたと合一する、対象と合一する」


などの意味合いで使っています。こちらだと、自分の愛する人が傷つくと自分も悲しいように、主体と客体が独立しているのに、痛みを感じるなどを挙げています。


 しかし、武庫川散歩はこれらの説とはあんまり関係ないですね。


 武庫川散歩のいう「主客合一」とは、自分という主体自我、わたしの視点観念イメージと同時に、それを横から見たり、神様みたいに上からみたり、あるいは対象の目線でみたりできることを指します。


 自分という枠にこだわらない。


 自分というものに固執しない。


 自分を飛び出た視点で見る。


 
 それが、武庫川散歩の超解脱です。ハンドパワーです。




 



2015年3月27日金曜日

また久しぶりに「中島義道」さんがやらかしているので面白い。 ~哲学塾からこんにちは~ 一読おすすめ

 東洋経済オンラインさんで、またあの「中島義道」さんが面白連載をやらかしてくださっているので、ご興味のある方はご一読あれ。


 中島義道さんを知らない人もいるでしょうが、


 知らんのやったら帰れ!



とは申しません。(申しとるがな)

 ええ、この世界はどうせ死んでなくなるんだもん。はあと。ということをモットーに生きておられる哲学の先生です。ああ、もしかしたら本人は先生だなんて思ってないかも。


 そう、簡潔に言えば 哲学な人 ですね。


 そんな中島センセイの新連載は


 哲学塾からこんにちは
 http://toyokeizai.net/category/tetsugakujuku


 から読めますのでどうぞ。別に私は回しもんではありませんが、どうぞ。


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 さて、当ブログのファンなみなさんにとっては、中島氏のある種の面白さについてはすでにご存知でしょうが、上の連載では哲学を求めていろんな

 変なヤツ・いかれたヤツ・コミュ症な人たち

がやってきては、消えてゆくさまなどが描かれています。

 まあ、そうした愉快な仲間たちを、どうでもいいと思いながら一喝しておられる話が多いのですが、ぶっちゃけ、中島先生は結果として至極まっとうなことを言っておられることに、読者のみなさんはお気づきでしょうか?


 真の哲学者になるにはどうしたらいいか!


 いいですね。私もどちらかというと宗教家としてはたいしたことをするつもりは毛頭ないので、(いえ、頭に毛はあります)、せめて哲学者として生きてみようかな、と思ったり思わなかったり。


  しかし、中島氏によれば、真の哲学者になるにはいくつかのルールがあるようです。


① まず、自分の中に強い哲学的問題・課題があること。

② 他者とコミュニケーションがとれ、凝り固まった自説に執着しないこと。

③ これまでの哲学者の唱えてきた話をきちんと踏まえていること。

④ 主観的世界を客観的に説明できること。


など。


 これ、面白いですね~。哲学者として、必要な「哲学的なその人なりのツボ」があるのはまあ、いいでしょう。しかし、自分のことばっかり話して他人の言うことをまったく聞かず、おまけに哲学の歴史について勉強もしておらず、自分の世界だけで逝っちゃってる、ヤツが多いから


 そいつらはダメだ


と一喝なさっているのです。

 いやいや、哲学者以前に、ふつうの社会人としても彼氏としてもダメじゃん。


 ということはですよ。中島氏ほどの倒錯的哲学者をもってしても、


「人間として基本ができてないと、哲学もクソもねえよ」


ということが結論なのだとすれば、すごいことです。


 そもそも、ふつーの人から見ると、哲学者なんてのはすっごい変わっていて、話が通じなくて、なんだかすごそうなことを言ってるけど、さっぱりわからない人種なんだとおもいがちですが、そうではないということなのです。


 目的意識がハッキリしていて、相手の意見をきちんと受け入れ、過去の資料をしっかり頭に入れながら話し、とても説明がわかりやすい人


がベストな哲学者なのですから、 まるで、


 すっげーデキる営業マンとか、すっげーいい人なビジネスマンとか、そもそもモテルよね彼


ってことですよね?結局。リア充じゃないですか。


・・・・そういうのが全然ダメだから、哲学の道へ入ろうと思っている人には、完全に


氏ね


と言っているようなもんです(苦笑)


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 さて、そんな人たちを尻目に、その上で「より一層哲学者たる者」とはどんな人たちかを説明なさっているので、ぜひこれもどうぞ。


 本物の哲学とは。


 哲学のコア(中心)部分とは。


 そんな話が出てきます。


  中島氏によれば、究極的には「存在」と「認識」の話こそが哲学のコアだと言っておられます。


 存在、つまり「あるとはどういうことか」です。

 認識、つまり「いるとはどういうことか」です。


 あるのか、ないのか。わかるのか、わからないのか。 同一なのか違うのか。


 そうした単純な問いが、哲学の本質だといいます。




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  当ブログのファンであれば、「ああ、なるほど」とちょっと腑に落ちた点があるのではないでしょうか。


「ああ、存在と認識の話は、「色即是空・空即是色」に似ているな」

とか

「この世界は存在するのかしないのか、いっつも武庫川散歩が言ってるやつだな」

とか

「いちばん小さいものは、それ以上壊れないとしたらそれは何なのか」

とか  


「武庫川散歩が、存在しないのに『いる』と感じているこの人生はなんなんだ、とかほざいてるな」


 とか。



 そう!実はこのブログで話していることは、宗教のようでいて哲学の話だったりもしたんですね~。



 武庫川散歩は、いつも考え続けています。もう、とりつかれています。


この世界は何なんだ!

この世界を知覚しているワタシは何なんだ!

この世界は存在しているのか!

このパンツは、誰のなんだ!

そして、あんたは一体誰なんだ!


 まあ、そんなことを日々夢中になって考え続けているのです。