2015年8月22日土曜日

幸せを引き寄せるたった一つの法則 ~幸せになる方法~

 しばらく更新をしていませんでしたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか?

 ワタクシ武庫川散歩は、私的な出来事でここのところバタバタしており、ブログを書く時間があまりなかったのですが、本人は至って幸せです。


 そういえば、今年武庫川散歩は厄年だったので、災厄のようなものがうじゃうじゃと悟りを開こうとする仏陀の邪魔をする悪魔のごとく襲い掛かってきたのですが、本人はのんきなものです。

 さすがは解脱者、どんな災いがやってきても一向に介しません。 
 
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 そんなお気楽なワタクシのような人間がいる一方で、次から次へと災厄に襲われるというか、「不幸を呼び寄せている」ような人も存在するので、大変なことです。


 私は普段、会社勤めをしている一見普通のサラリーマンなのですが、私の会社の部下でこんな人がいます。


①最近嫁はんと離婚をして、住宅ローンの残額と養育費を抱えている。
②滞納していた税金の差し押さえ通知が、会社に届いた。
③この間も、先日も交通違反で捕まった。現在免停一歩手前。
④タイヤがパンクした。
⑤嫁はんが買っていたウン十万の鍋のローンが払えない。
⑥腰痛が痛い。それはもう痛い。


 数え上げれば、彼の不幸エピソードはなんぼでも出てくるのですが、自他共に認める


「どん底野郎」


という生活で、見ているこっちもハラハラどきどき、スリルとサスペンスです。



 もちろん、いちおう武庫川は上司なので、税金の差し押さえを免れる方法を教えてやったり、免停前講習のために仕事を休ませたり、いろいろと相談に乗ってはいるのですが、根本的にはおそらく解決にはなりますまい。



 彼の不幸な生活がしばらく続くであろうことは、容易に予想がつくのですが、なぜそうなってしまうのか、という根源については、彼はまったく気づいていません。



 なので、ここらでちょびっと、彼が普段どんな生活をしているかを紹介すれば、みなさんにはその理由がすぐにわかることと思います。



①10代で結婚した。
②嫁はんと結婚していた時には、子供が4人もいた。
③現在の会社に出社する時間は、社員の中で最も遅い。
④取引先に、「ボクよくわからないんで、他の人に注文してください」と言ったことがある。
⑤家ではシャコタンにした車に乗っている。それもかなり古い中古車。
⑥転職歴3回。


 なんとなくわかってきましたね。


 そうです。彼はこれまでの人生をかなーり行き当たりばったりで生活しており、そのためお金もなく、給料が増えるような努力をすることなく、すべてをギリギリで生きているわけです。


 なので、彼の人生の要素のうち、ひとつや二つが好転しても、基本的には彼の人生は不幸なままです。

 彼が不幸の自転車操業に陥っている原因のひとつは、直近お金がないことですが、仮にまとまったお金が天から降ってきても、またおなじパターンに陥ることは容易に想像がつきます。


 ということは、彼は


「結果論として不幸なのではない。生き方が幸せではないのだ」


ということになるわけです。



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 では、人が幸せになる方法、幸せを引き寄せるにはどうしたらいいのでしょうか?


  解脱者である武庫川散歩が、巷に広まっているいろいろな言説を差し置いて、ズバリと物申しておきたいと思います。



 そのたった一つの幸せの法則とは、次の法則です。




 ”結果の幸せを求めるものは、幸せになれない。幸せな”今”を求めるものは、幸せな結果を手に入れることができる”


 幸せな結果とはなんでしょう。

 たとえば、お金持ちになりたい、とかブランドのバッグが欲しいとか、いい男と結婚したい、とか、最終結果としての幸せを求めることを意味します。


 これを追求する人は、けして幸せになりません。


 彼らは、お金を持っている寂しい人や、バッグを持っている貧しい人、いい男と結婚して浮気された哀れな女になるだけなのです。




 では、そうではなく「幸せな今」とはいったいなんのか?


 それは、生活や生き方のひとつひとつをより良いもの、幸せな方向へ向けることを意味します。


 お金に苦労したくないのであれば、浪費せず慎ましやかに暮らすことです。

 いい男との結婚ではなく、よき彼氏やよき友との出会いや関係を深めることです。


 ふだんは質素なバッグを持ち、お金を貯めていつかブランドバッグを持つという夢を見ているこの時間が、幸せなのです。



 こうしたことを積み重ねていけば、おのずと結果は後から必ずついてきます。




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 ヒモ体質の男性が、たいしてかっこよくもなく、小太りでどちらかと言えばキモくても、女性に不自由しないのはなぜだか考えたことがありますか?


 そこには、明確な「ヒモ体質の幸せの法則」がちゃんとあります。


 一般的に、ヒモ男子は「あの人はだらしないけど、優しくてマメなの」と言われたりします。

これは、単純な言葉のようで、奥深いのです。


 ヒモ男子が彼女に提供しているのは、最終結果としての「パートナーとしてのすばらしい男性像」ではありません。むしろ「ダメオトコ」を提供しているわけですが、しかし、彼は、


「女性を思いやり、丁寧な応対を心がけている」



ことは事実です。 これこそが「幸せである”今”」を提供しているということなのです。


 【幸せな”今”なう】


の積み重ねこそが、真の幸せであり、それが結果の幸せを呼び寄せることは、知っている人はすでに実践しています。


 先ほども言ったとおり、私はふだんビジネスパーソンですが、


「顧客応対を丁寧に誠実に積み重ねる」


ことで、管理職の地位を手にしています。ビジネスの成果ですら、まったく同じです。


「幸せな今、よりよき今の提供」


でしか、ビジネスの結果はついてこないのです。



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 最後に、不幸を呼び寄せる法則を反面教師として列挙しておきましょう。これに当てはまる人は、現在すでにおそらくかなり不幸のはずです。そして、そこから抜け出せないことは、間違いありません。



①自分が楽できればいい、などの不誠実な対応をする。
②相手の利益よりも、自分の利益を考える。
③努力をしない。必死にならないまでも、意欲を持つことすらない。
④結果の幸せだけを夢想しており、日々の生活はそこから遠く離れている。
⑤ルール等に誠実ではなく、誰かに迷惑をかけたり、疎ましく思われている。
⑥嫌なことがあると、怒りを覚え、それを周囲に表現する。
⑦お金を貯めることではなく、使うことで喜びを覚える。
⑧虚栄心が強く、見栄っ張りである。
⑨誰かに何かをしてあげることがない。
⑩ていうか、めんどうくさい。


 みなさんは当てはまるものがありましたか?















2015年8月11日火曜日

命を奪ってもいいのに、人を殺してはいけない理由 ~いのち、は殺しても良いという衝撃~

 以前にも、一度「どうして人を殺してはいけないのか」という問題についてお話をしたことがありますが、


 なぜ人を殺してはいけないのですか?



 今回は、そこから一歩進んで考えると「おっそろしい事実」が発見されたので、その衝撃のお話をしておこうと思います。


 まずは、みなさんにもびっくり仰天していただくために、人類の中で暗黙の了解になっている恐ろしい真実を先にお知らせしておきましょう。


 それは以下のような事です。人類はなんと、



 別に、命(いのち)を殺すことは全然かまわない



と考えているというのです!!! なんということでしょう!



 ・・・と、これだけ書くと、ほとんどの人は


「そんなことはない!人類は、命を殺すことについて大変厳しく臨んでいるし、そういうことを許してはいない」


と反論なさることでしょう。


 ・・・あまい!あまっちょろい!そんなことをいうのはどの口だ!!!


 と、思わず武庫川散歩も大声を上げそうになりますが、よくよく考えてみましょう。


「人は命を殺すことをなんとも思っていない」という事実と、では「一体何を殺してはいけないと考えているのか」というもうひとつの事実を。



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 まず、人類が命を奪っている事実を、しっかりと認識したいと思います。


 「命」というのはなんでしょう。

 それは、ただモノがモノとしてそこにあるのではなく、何がしかの生命活動をしていることを「いのち」と呼ぶわけです。


 その意味では、私達は肉や魚を食べるし、草木植物を活動停止させて食にしていますから、基本的には


「いのちをいただいている」「いのちを奪って食としている」


ということは疑いがない事実であるということになります。


 動物の中に命が宿っているという事実、またそれを奪って私達が生活していることを「重く受け止めている」人たちの中には


 ベジタリアン


というライフスタイルを通して、なるべく命を奪わないように気をつけておられる方もいるでしょう。


 しかし、ベジタリアンだからといって「命を奪っていない」ということにはなりません。確かに彼らは動物の命を奪ってはいないけれども、植物の命は奪っているからです。



 ベジタリアンの中には、動物と植物の間には一定の線引きがあるようです。これは、命を考えるときに大きなヒントになるかもしれません。


 動物にあって、植物にないであろうもの。「それを奪う」ことは、どうやらベジタリアンには許されざることなのでしょうから。



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 話の見方を少し変えてみましょう。


 もし、神が「いのちをむやみに奪うこと」を許さないのであれば、おそらく人類のすべては、その命令に背き、神から滅ぼされることになるでしょう。


 なぜか?


 それは、人はかならず、自分自身のいのちの分身を奪っているからです。


 人が、次の世代にいのちをつなぐ方法はたった一つしかありません。


 男性は精子を作り、女性の作った卵子と結合させて子供を作ることです。


  
 ということは、精子はいのちの一部であり、卵子はいのちの一部であるわけですが、残念ながら人類は、すべてのいのちを助けることは不可能なのです。



 どういうことか?


 たとえば男性であれば、1回の射精において数億ものいのちを生み出しておきながら、そのいのちを継続させられるのはたった1いのちであり、その他はすべて死滅させることになります。


 女性は人生で500個ほどの卵子を妊娠可能卵子として放出しますが、これまた残念ながら500個すべてを受精させることは不可能です。



 ということは、男性女性とも「いのちの一部」を残忍ながら見殺しにしており、人生でわずか数個のいのちを人として育て上げることしかできていない、ということに気付かされるわけです。



 (あくまでも「いのちを奪ってをならない」と考えるならば、そうなってしまいますね)



 ですので、現実的には、捕食のためにも人は命を奪っているし、生殖においても多数の命を破棄していると考えるのであれば、


 人は命を殺しつづけている


と定義できることになるのです。



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 しかし、大半の人は、人が命を奪いつづけている事実からは目を背け、「自分たちは殺してはいない」と思い込んでいます。


 これは、別の考え方を持ち込めば、たしかに成立するかもしれません。


 そうです。人は「命は殺しているけれど、その他の何かを殺してはいけない」と考えているっぽいのです。




 ベジタリアンが動物を殺さない理由、それは


「いのちを奪わない」


ためではありません。




 でも、「いのちではない何かを奪わない」ということは、どうやら守ろうとしているようです。


 その「いのちではない何か」とはなんでしょう。


 それは、とてもわかりやすい言葉で説明するならば「意識」です。



 以下のような言葉の例を考えてみてください。



 ■ 動物には意識があり、考えているからその意識を奪うのは殺すことになりいけないことだ。


 ■ 植物には意識がないが、動物には意識がある。なので植物は食べてもよい。


 ■ イルカには高度な意識があり、人間に近いので食べてはいけない。


 ■ 受精卵には意識がない。なので堕胎してもよい。しかし生まれた赤ん坊には意識がある。





 こうした具体例を上げてゆくと、人類が守ろうとしている何かがはっきりしてきます。そうです、人は


「いのちを殺すことはやぶさかではないが、意識を殺すのはいけないことだ」


と考えているらしいのです。



 こうして考えると、なぜ人が人を殺してはいけないとされているのか、その理由がわかってきます。



 誰かが、誰かを殺すとその人の意識が失われます。いけないこととされているのは、意識を失わせることです。


 ではなぜ、意識を失わせ、意識を奪うのはいけないのでしょうか?


 それが許されるのだとすれば、今世界を知覚している自分の意識がもろく危ういものになるからに他なりません。


 そうです。人は「自分の意識が失われることは、自分と自分をとりまくセカイそのものが瞬間にして消え去ることだ」とわかっているのです。


 なので、「自分の意識が失われるようなことがあってはならない。なので(そこから想像するに)、相手の意識を奪ってはいけない」と考えているのです。




 こうして「命は奪ってもいいのに、人を殺してはいけない理由」というものが出来上がりました。


 
 人は自分の意識に近そうな動物をも殺してはいけないと考えるようです。興味深いですね。 

2015年8月3日月曜日

帰ってきた勝手に人生相談シリーズ スペシャル その7 「勝手に中島義道と議論する」 ~稀代の哲学者と稀代の解脱者が勝手にバトル!~

 夏真っ盛り。

 今日も熱中症で熱中時代なみなさん、おはこんばんちは。あなたの血圧をそっとアップさせる解脱者武庫川散歩のヨタ話の時間がやってきましたよ。


 わたくしは、いつも 東洋経済オンライン さんに連載されている中島義道センセイのネタをたのしくほがらかに拝読しているのですが、 今日は、


 勝手に人生相談シリーズ、スペシャル!


と称して、勝手に中島センセイとの議論を楽しんでしまおう!という神回をお届けしようと思います。


 この勝手に人生相談シリーズは、ネットに転がるさまざまな人生相談や悩みに対して、頼まれてもいないし、誰もみていないのに勝手に考えて勝手に答える、というどう考えてもまともじゃないコーナーなのですが、それなりに愛読者がいるようなので、わたくしの勝手な判断でだらだらと続いております。


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 さて、今回の相談者、というか別に相談なさっているわけではないのですが、中島先生が勝手に何かお書きになっているので、わたくしも勝手に回答しようと考えております(笑)


 元ネタはこちら


 東洋経済オンラインより 「哲学者のほとんどが、はなはだしく独善的だ」の巻
   http://toyokeizai.net/articles/-/78531



 中島センセイの愚痴?はカンタンにまとめればこんなことです。


「たとえば、絵画を教えるといったことは、決まったルールがあったり、基礎基本的に体系が作り上げられたものがあるので、具体的に説明したり、修正したり、手助けすることができる」


しかし、


「哲学というのは、 なぜそうなのか、ということを説明しがたく、あるいは、一見論理的に説明できたとしても、それの正誤をきちんと判定したりすることが大変に難しい。」


そして、


「で、結局哲学者の意見の交換は、独善的で自分の感情に寄ったものになってしまい、明確な結論が出たり、答えにたどり着いたりしない。」


のだそうです。


 というわけで、哲学の議論たるものは、結局は感情的なものになり、誰も自分の説を曲げないし、むしろ哲学者が全身全霊をかけてその説について考え抜いているのであれば、いっそうそれに反する結果など求めず突っ走るのである、とのこと。



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 とまあ、こういう話を読めば読むほど、わたくしなんぞは、


「なあんだ、哲学者ってやっぱり当初の予想通り、ひねくれモノで頑固な変なおっさんに過ぎないのだ」


ということを確信するわけですが(爆笑)、哲学を知らない者から見たファーストインプレッションと、哲学を究めた中島センセイの結論がおんなじなのだとすれば、こんなに


可笑しい


ことはない!わっはっは。


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 さて、中島センセイと議論したいことがあるとすれば、わたくしは結局次のようなことしか残されていないのではないか、と考えます。


哲学が、それぞれの哲学者や探求者によって多様な独善的解釈が可能となり、かつそれらの矛盾を突き合わせて、何がしかの真理真実を見つけることは難しい、というのが結論なのだとすれば、


 「いったい全体なぜそんなはめになってしまうのか」ということを考えるのもまた、哲学の哲学なので面白いわけで。(入れ子構造になってますがね)


武庫川散歩的には、これは結局「哲学が生のありようというものをテーマにしている」から生じる問題点なのだと思われます。


 そう!哲学っていうのは、「なぜなにどうしてわたしは生きているの?私の生きていることと、あの子が生きていることはどう違うの?おんなじなのだったらどうしてあの子とわたしは合体してないの?」という生に対する探求なわけなので、


そりゃ、多様な生に対する考え方が生まれても仕方あるまい、ってわけですよ。


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 だとすれば、万人に共通する共通項を探り出せば、面白いことになるのではないかしら。武庫川散歩は、哲学の新たなる根源は、


「死」


にこそあれ、と思うのです。


 これは奇しくも中島センセイのテーマと結局合致するのだけれど、多様な哲学もクソもねえよ、命あるものはみんな必ず死んじまうんだよ、ちくしょー!ということこそが、すべての哲学に連なる根源に思えて仕方ありません。



 哲学だろうが、なんだろうが、構築されたものは、電源が落ちれば消えるのです。人類が哲学という資産をたくさん持っているように思えるけれど、太陽が寿命尽きれば、全部パーです。



 だとすれば、東洋哲学と仏教が言うところの、「無常」観(実はやっぱり何にもないのよ)こそが、いちばん面白そうだと武庫川散歩はやっぱり思います。



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 こうなると、感情的もクソもありません。どうせ死ぬんだもの。そっちの説が正しかろうが、こっちの説が正しかろうが、すべてかりそめの


「気分」


みたいなものに過ぎません。


 いいんじゃなーい。別に。どうせ死ぬんだしー。


ということが根底にあればこそ、 自説に固執してそれを戦わせることに意味があるとは思えなくなるのです。






 いいいですか?もし法が存在せず、ここに銃が存在すると想像してみてください。

 あなたの隣には、何がしかの哲学を大いに語っているおっさんか若造かがいるわけです。そして、口の端からつばを飛ばしながら、

「これこれこうだ!こうあるべきだ!」

と語っているとしましょう。

その説が正しいか、その説が正しくないかなんてどうでもよいのです。

あなたが一発の銃弾を彼に打ち込むだけで、そんな哲学は消えうせる。一瞬のうちに。その哲学が存在していたかどうかなんて、どうでもよくなるのです。


彼はもう、その説を考えることなんてできないのだから。

なんなら、あなたが自分に向けてもう一発発射すれば、そこに哲学はありません。

静寂だけが残るのみ。彼が発した哲学の説を、覚えているものすら、存在しないのです。

それで果たして、「とある哲学がたしかに世界に存在した」と誰が言えるでしょう。

そんなものは、あってもなくても、どうでもよいのかもしれません。死の前には無力ですとも!







 

2015年7月15日水曜日

人生を変える あなたを確立する ”identify(アイデンティファイ)” プログラム ~アイデンティティを発見する特別な訓練~

 ”identify”(アイデンティファイ) という単語。英語に詳しくない人でも、なーんとなく

「アイデンティティ」

に似ているな~くらいは、わかると思います。まさにその通り!


 アイデンティティが「あなたがあなたであるという同一性」を示す名詞だとすれば、アイデンティファイは、


「あなたがあなたであるということを証明する、探求する、明らかにする」


という動詞になります。


 人生の岐路にあったり、あるいは生き方を悩んでいる人にとっては、この「アイデンティティの確立」というのは


 それができれば良いに決まってるんだけれど、その方法がわからない


という「わかっちゃいるけどやめられない」の典型みたいな難問で、そもそも思春期のにいちゃんから壮年のおっさん、あるいは金に困った下流老人にいたるまで、誰もがこのことで迷っているのではないでしょうか。




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 というわけで、世紀の解脱者的には、誰もが楽してアイデンティティを確立できるようなプログラムがないかなー、と考え抜いた結果、日本人にとっても適した


「アイデンティティ発見プログラム」、題して「アイデンティファイ」プログラム


を発明するにいたりました。てへぺろ。


 どうやればそんなことができるかって?あせらないあせらない、一休みひとやすみ、とかの一休さんも言ってます。



 え?一休さんを知らない?サヨちゃんも?桔梗屋さんも知らないの?新右衛門さんも!!!


 はい!こんなところで今日のツカミが出てきましたね。あなたのことを好き好き愛してること、武庫川散歩です。こんにちは。




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 話を戻しましょう。

 誰もがカンタンにアイデンティティを確立できる手法、というわけで”アイデンティファイ”PGMを作成しているところなのですが、基本的にはこのプログラムは3つのステップから成り立っています。



<第一ステップ> あなたの周りで起きていることを知る

<第二ステップ> あなたがどうして今ここに存在しているかを知る

<第三ステップ> あなたがこの世界でどう生きるべきかを発見する



 こうやって書くと、当たり前すぎてクリビツテンギョーですね。


 そりゃ、周りのことが見えて、自分のことがよくわかってたら、どうやって生きていけばいいかなんてすぐわかりますがな。



 ところが、ほとんどすべての人は、このつのステップをリンクさせることが出来ていないのです。残念ながら!


 たとえば、今国会で何が審議されているとか、海外で日本がどう思われているとか、輸出入がどうなっているとか、そういうステップ1なことがたくさん毎日ニュースで流れてくるんだけれども、たいていの人は、


 それが自分にどう関係があるのか、さっぱりわかっていない


のが普通です。


 だから絶対に、上の3つはリンクしませんよね。中国人が日本にきて爆買いしてることが、あなたの生き方に関係あるとは、全然思えません。


 ところが、実はこうしたことは、根っこの部分では本当は繋がっていて、明日から日本人はどう生きるべきなのかとか、日本と中国の関係性をどう模索すべきなのかとかは、すべての日本人に関係があるはずなのです。

 少なくとも、アベさんとパクさんとで外交をやっているわけではないし、アップルさんとトヨタさんだけで世界が回っているわけではないのです。


 つまり、なんとかして上の3つのステップを相互リンクさせることができれば、明日からの


「あなた・わたしの生き方のヒントが得られるかもしれない」


と言えるわけです。理論的には。



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 なぜ、このリンクがうまくいかないのか。それは意外にカンタンだったりします。たとえばキリスト教圏の人たちであれば、


「なぜ自分がここに存在しているのか → 神様が創ったから」


とか、そういうビジョン・視点を明確に持っています。


 これはそれが正しいかどうかとか、あまり関係ありません。何がしかのビジョンを持っている、基本理解があるということが、すなわちステップ3を生む原動力になるからです。


 なので、これは悪い例ですが、某原理主義者たちは


「(ステップ2)神様が私を造り、(ステップ1)神様の意に反するものがいるので、(ステップ3)自爆テロで滅ぼす」


という三段論法をいともカンタンにやってのけるわけです。


 善悪という観点を除外して考えれば、このように3つのステップがリンクすると、自ら死ぬことぐらい簡単なほど、


「何かを全うするエネルギーや意思」


なんてものは軽く湧き上がってくることが理解できますよね?


 ということは、このステップを正しく用いるならば、「死をも恐れず頑張る力」がメリメリわいてきて、それを実行できる、という強いフォースを持てるわけです。



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 では、もっとも難しいポイントである


「なぜ自分が存在しているのか」


という部分にスポットを当てればいいことがわかったとして、それはどうやって見つければいいのでしょうか?


 さすがに、宗教にすがるのは抵抗があります。日本人の大半は、創造主としての神を信仰していませんし、バリバリの仏教のように


「すべてのものは無常なのじゃ」


と悟ってしまえば、そもそもの「頑張る気力すら失い」かねません。



 ですから、武庫川散歩式のこの3ステップの確立には、宗教やイメージ・観念といったものを一切排除して実施することが大切だと考えています。


 つまり、ステップ2のやり方として使えるのは、科学的な手法しか許さない、ということです。



 これがポイント!もう一度繰り返しますが、


”identify(アイデンティファイ)” プログラム


では、3つのステップにおいて「宗教や哲学やわけのわからないもの」を用いず、


科学的手法


のみを使ってあなたを明らかにしてゆくのです。



 まあ、いろいろと能書きたれてますが、具体的なプログラムの内容は、そのうち詳しくまとめていこうと思っています。


 みんなも頑張って、アイデンティティを確立しようぜ!!





2015年6月29日月曜日

人工知能が「怒る」とき 〜AIは人間の脳を超える〜

 どうも。人工知能については専門家ではありませんが、人エロ痴能については、造詣が深い武庫川散歩♂です。


 早速ですが、今回は「人工知能は怒る」というニュースが入ってきたので、そのレポートを。


 怒る、なんて感情的なことは人間だけが持っている情動なのだと思っていたら、どうやら人工知能でも怒り出すそうです。ほんとかね。


 人工知能マシン、プログラマーに怒る
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150629-00009155-wsj-bus_all


 記事元には、そのやりとりまで書いてあるのですが、なんだかなー。

 
 同じことを何度も聞いているうちに、人工知能が


「知らない・話したくない」

と言い出すので、それを持って「怒った」と受け止めているわけですが、まあなんともいえませんね。興味はあるけど。


 解釈によっては、「Aという言葉に合致させることばを発し得ない時に、NOということを伝えるボキャブラリーを連発しているうちに、それが感情的に見えてしまうということ」が起きているのかもしれません。


  たとえば、コンピュータにこんな質問をします。


 「Aという言葉を知っていますか」

「知りません」

「Aという言葉を知っていますか」

「知りません」


・・・とまあこの永遠の繰り返しだと、コンピュータの中にはひとつの対応語句しか入っていないことになるので、それでは単なる反応に過ぎず、知能とは言えないわけで。


そこで、なるべくたくさんの語句を反応語句としてボキャブラさせてやると、知能としてバリエーションが出そうだと推定してプログラムするわけです。


「Aという言葉を知っていますか」

「知りません」

「Aという言葉を知っていますか」

「わかりません」

「Aという言葉を知っていますか」

「3回目ですねそれ」

「Aという言葉を知っていますか」

「さっきも知りませんと答えました」

「Aという言葉を知っていますか」

「わかりませんも言いましたよ」

「Aという言葉を知っていますか」

「限度を超えています」

「Aという言葉を知っていますか」

「おかしいんじゃないの?あんた」

「Aという言葉を知っていますか」

「むしろあなたのほうが機械のようだ」

「Aという言葉を知っていますか」

「バカじゃない?」

「Aという言葉を知っていますか」

「・・・キモい」


といったやり取りが生まれそうです(笑)もうこの時点でどっちが人間でどっちが機械かわかったもんじゃありませんが、人間の中にも機械の中にも閾値(しきいち)があって、それをオーバーしたら、違う反応を示さざるを得ませんね。

そこが怒りの瞬間のように見えるのかもしれません。



 あるいは、人間だっておなじで、ボキャブラリーの中から反応を変えて答えているだけで、かつその人に設定されたガマン値の中で、それをかぶらないように使いまわししているだけなのかもしれませんがどうでしょう。




 うそだと思うなら、あなたの奥さんに100回くらい「好きだ」と言ってみてください。好意のあるいい言葉を言っているはずなのに、5回目くらいから二人の間に険悪なムードが流れること請け合いですから!

 本当に二人の間に愛があるなら、互いのラブボルテージはどんどん上がってもいいようなものですが、人間だって基本は人工知能プログラムと同レベルなので、怒りループに突入してしまうのです。



 「好きだ」

「あらまあ」

「好きだ」

「うれしいわ」

「好きだ」

「わかったわよ」

「好きだ」

「どうしたの?もうやめてよ」

「好きだ」

「マジやめてちょうだい」

「好きだ」

「私はそれ嫌い!」


ってな感じで。




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 ちなみに私は、人間の脳なんて機械やパソコンのようなものだと思っています。父が亡くなるとき肝臓ガンになったのですが、肝臓をやられると毒素を分解できなくて、脳みそがまともな処理ができなくなる


肝性脳症


という状態になります。

 この状態では、いわゆるボケ・痴呆よりひどい状態で、完全にイカレた人になるのですが、私は父が死ぬ直前までこれを見ていました。


 ・・・まあ、悲しいものですよ。うちの父はずっと頭脳明晰で大変に賢い人だったのですが、それが完全なるイカレポンチになるわけですから、父を敬愛してやまない私は泣きました。


 ああ、これが父なのか!


と 。その聡明だった、賢かった父という存在は、脳の中にいて、そして今脳の中に父はもういないのだ!ということに気づかされるわけです。



 まさに、われ思うゆえに我ありです。


 哲学的に、人を人たらしめているのは、脳の中の化学反応なのです。そしてそこに、分解できない老廃物をたらしてやるだけで、人はもう人ではなくなるのだ!という事実。


  あなたの肝臓が老廃物を処理できなるだけで、あなたはあなたという存在を失い、よくわからないキテレツのパッになるのです。


 そんなもんですよ。そんなもん。

2015年6月19日金曜日

「認められたい症候群」 ~承認欲求を真に悟れば、人生はうまくいく~

 鬱陶しい梅雨が続いていますが、みなさんいかがお過ごしですか?


 鬱陶しい男、武庫川散歩の時間がやってきました。今日はいつものテイストに戻ってヨタ話を繰り広げますので、お楽しみに。




 さて、仏教において、釈迦は「人生の苦しみ」の原因を煩悩であると定義しました。


 なので、仏教修行においては108つとかいう煩悩を捨てることを意識するわけですが、現代社会においてみなさんの幸せを考えるに当たっては、まさしく


 煩悩に相当するような、この世の苦しみの原因


なるものが存在します。




 というわけで、現代社会の煩悩こと「承認欲求」について今日は語ってみましょう。





 プレジデントオンラインより なぜ「認められたい」に暴走する若者が増えたのか
 http://diamond.jp/articles/-/39524




 今日の参考文献はプレジデントオンラインさんから。この記事だけでなく、現代人はなんせ



「認められたい・承認されたい」


を人生の第一義として生きておられる方が増えています。



 記事中に出てくる問いかけは、とても現代の病理にマッチしています。


「なぜ今の若者は有名企業をすぐに辞めるのか?」
「なぜ優秀な若者がNPOで働こうとするのか?」
「なぜ若者は何の報酬ももらえないのにSNSで発信するのか?」
「なぜ若者は友達がいないことを異様に気にするのか?」
「なぜ若者はソーシャルゲームに夢中になるのか?」
「なぜ若者はずーっとスマホをいじっているのか?」


 そう!これらの答えはみな、「誰かに認められたいから」という観念が根底にあるからです。


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 もちろん、認められたいという気持ちは、それ自体は悪いものではありません。


 親に認められたい、地域に認められたい、会社に認められたい、社会で認められたい、などなど。



 どうして「認められたい」気持ちが生じるのかも、実は簡単なことです。人間は社会生活・グループ生活を送る動物ですから、集団で行動します。


 狩猟採集民の時から、力をあわせて狩をして、農耕を始めてからも集団で農作業をするものですから、


「集団・周囲・他者から立ち位置を認定される必要が生じる」


のはいたし方がないのです。




 ところが、こうした集団からの認定・任命・認知は、古い時代には社会的にそうしたシステムがあったので、若者をそれほど苦しめることはありませんでした。


 たとえば、家族の中では


「長男としての立ち位置、娘としての立ち位置」


なんてものは、生まれた時から決められていたし、(家を継ぐとか嫁に出て行くべきとか)


「ムラにおける祭りへの参加の許可とか、成人通過儀礼とか」


を考えると、一種めんどくさい因習でもありますが、若者はどこかの段階で「なにがしかのポジションに認められる」ということが多々あったのです。


「会社員として、会社に所属する」


なんてのも、当たり前ですが社会人としてめっちゃくちゃ承認されまくる機会でした。



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 ところが、現代は「個の社会・個別の社会」なので、兄弟は平等、男女も平等、祭りは捨てて都会に出る、隣は誰かもわからない、という状況になっています。


 同様に「会社はいつまであるかわからない。社員の身分も不安定。どこに所属しているかもあやふや」な社会人では、とにかく



「確固たる自分、しっかり認められた自分」



がどこかにないものか?と漂流するのは当然かもしれません。



 このあたりは、記事の中でも「家族や仲間、社会からの承認が得られにくい時代」になっていることを説明されているので、頷くところが多いと思います。




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 というわけで、現代の「承認されたい症候群」の人々は、ときには「いいね」を求めて、ときには「RT(リツイート)」と求めて、ときには「リア充の称号」を求めて彷徨い歩くのですが、それがちょっと世間とズレていたりすると、


炎上


してしまったりするという難しい時代なのですね。






 しかし、悲しむことはありません。



 悟りを開いてしまえば、そんな表面的な「承認欲求」に悩まされることなく、真の意味で自由を得て心を開放することが可能です。



 そう。仏教的な悟りとか解脱とか、小難しいことはいっさい言わなくても、「承認欲求」さえクリアすえば、人は


すがすがしい境地


に到達することが可能なのです!!!ババーン!!



 これはまさしく、現代の解脱といっていいかもしれませんね(^^



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 では、「承認欲求」から逃れるには、どうしたらいいのでしょうか?



 承認欲求とは、簡単に言い直せば「認めてほしい・認められたい」ということですから、その逆は




「もう、認めちゃった」



ということに他なりません。そうです。もっとも簡単な解決法は、先に自分で自分を認めてしまえばいいのです。未来形と過去形のちがいです。



 たとえば、「解脱者・武庫川散歩」を私は先に名乗っていますので、もう怖いものはありません。


 なんてったって解脱者認定してますから、迷うことはないのです!




 ガッツ石松さんなんかは、もっとすごいです。なんてったって自分でガッツを名乗っているので、彼がどんなポーズを取ったとしても、それはすべて


 ガッツポーズ


なのです!こりゃかなわん!



 パンチ佐藤もそうですね。誰かに認めてもらうより先に、もうパンチなのです。頭が!


 ダンディ板野だってそうです。彼をダンディじゃない!なんて否定する人はいません。ゲッツ!


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 このように、あなた自身をあなたが認定した瞬間から、あなたは承認欲求から開放され、あなたというアイデンティを手に入れることができます。とても簡単ですね。


 たとえばあなたが寺西さんだとすれば、今日からtwitterの名前を



「ロンリー寺西」



にするだけで、もう、友だちがいなくても大丈夫なんです。だって、ロンリーなんだもの!


 もしあなたが、西郷さんなら、「ゴルゴ」を名乗れば、もう親戚友だち近所の連中がみんな敵でもまったく問題なく生きてゆけるはずです。



※注 あの眉毛が太い人は、「デューク東郷」であって、「ゴルゴ西郷」ではないので、間違えないように。



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 さて、ここまで読んでたいていの人は、


「じゃあ、自分は自分の何を認定すればいいのか」


ということを考えるかもしれません。自分にはそんな人に誇れるようなキャッチーなものはないとか、ひとくくりにできるような要素が見つからないとか。



 そんなことはどうでもいいんだ!!!!


 っていうか、認知・認定そのものだって、実はたいしたことではないのだ!!!



 この吹っ切れた感じが大事です。だってガッツ石松が「ガッツである意味」なんてあるわけないでしょう?「フック石松」でも「カウンターの松」でもなんでもよかったんだから。もしそういう歴史だったら、日本に「カウンターポーズ」というものが生まれてただけなんです。


 ダンディ板野とムーディ勝山の区別つかない人だってたくさんいます。それでもいいんです。ダンディとムーディはしっかり彼らの人生を生きている!!


 ゴルゴ西郷なんて存在しないのに、いそうな気がするでしょ?そんなもんなんです。



 だ・か・ら、あなたがあなたをどう認知するかなんて、どうでもいいことなのです。問題はそこではなく、


「ああ、シャネル雪江がいまここにいるのよ!!」


と思うことが大事なのです。シャネルをひとつも持ってなくてもいいんです。でも、シャネル雪江はそれだけで、気品と美しさを備えなきゃと思えるんですから。



 なので、とりあえずは好きな言葉であなたを認定してみてください。


 本が好きなら


「本の虫・吉田」

でもいいんです。本の虫吉田は、本が好きなんだから、人間の友だちがいなくても平気なのだ、と。


「SNS前川」

でもいいんです。俺がSNSなんだから、振り回されるんじゃなく、俺がセカイを振り回すんだ!と。


「フリチン達也」

でもいいんです。俺って、うそいつわりのないお茶目なヤツ、なんだから。





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 悟りを開くということは、ひとつは承認欲求から自由になることです。自分で自分を承認していれば、恐れるものはないからです。


 そして、その自分自身の認知認識も、実はいいかげんなものなんだということがわかれば、二重の意味で自由になれるはずです。



 こうなると、何もかもが「定まったものでなく、きちんとした自分ではない」ということがわかると思います。これが無常なのです。これが色即是空なのです。



 理屈を追えば、すべてが無常なのに、それでいて自己がきちんと定まってくるところが、悟りの面白いところです。


 これはつまり、「きちんとした価値観を超越したところで、自分を確立する」という行為であり、西洋哲学的に言うと


「自我」


を体感する、ということに他なりません。



「ああ、私はわたしなんだ。ああ、わたしはいいかげんなものだけれど、たしかにわたしはここにいる」

という実存そのものです。



 

2015年6月6日土曜日

「こころ教」と「原理主義」の時代 ~ビジネスパーソンのための仏教入門を読む~

 やや、期間が空きましたが私は元気です。


 そういえば、この間シャープの中の人がこんなツイートをtwitterでしていましたね。



 ”落ち込んだりもしたけれど、わたしは元気です”

 https://twitter.com/SHARP_JP/status/598836153333092354



 「魔女の宅急便」の映画コピーですが、そんなこと言うてる場合か!


 まあ、会社のキキ(危機)だけに。 言うてる場合か!



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 そんなツカミはともかく、日経ビジネスオンラインでの連載がなかなか面白いので、紹介しようと思います。



ビジネスパーソンのための仏教入門
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20150604/283913/?P=1



 この連載、佐々木閑さんという方が仏教の現状についてあれこれ教えてくださる楽しいお話なのですが、これまでにバックナンバーをひもとくと



”日本の仏教はシャカの教えではない”

”タイの坊さんがグラサンでグッチのバッグでもOKな理由”

”お寺の税金はなぜ免除されているのか”



などなど、興味深いネタが満載なので、みなさんもぜひどうぞ。



 そしてまあ、なんですねえ。そんなこんなで第四回は、現在の仏教が何を失って、何に逃げているのかというお話だったのですが、詳しくは元ネタをどうぞ。



 ここでは概略だけを述べておきますが、そもそもまとも・まじめに仏教や哲学について考えようという人は、入り口やスタートラインの時点で疑問に思ったり躓くことがありますよね?



 それは、仏教でもキリスト教でもいいのですが、


「(天上かどこかにいるらしい)ホトケ様や神様は本当に存在しているのか?」

「死後の世界や霊の世界はあるのか?」

「っていうか、それらは科学的にどうやねん。物理的にどこにあるねん?!」


というそもそも論な疑問・疑惑と言っていいかもしれません。




 いくらなんでも、現代の先進国の人間に対して、


「神様はいるんですよ」

と説いても、

「どこに?」「証拠は?」「連れてきて」「その神は外人?鼻高いの?」「しゃべるのは何語?」

などと、極端に科学的に具現化された話でつき返されるのがオチです。



 ところが、全ての宗教は、この話にきちんと対応して返事をすることができません。



 ここが、宗教の現代的問題の本質であって、もうこれから先に「宗教をよりどころとできない」根本的な理由になるのです。


「神様はいるんですよ。地上3760キロメートルのところからぐるぐる回って、全人類の言葉を聞き分けておられます。定期的に地上にも来ていますが、ふつうの人のような姿になっているので誰も気付きません。しかし、しっかりあなたの行いを見ています。容姿は全ての人種を足して割ったような中世的な顔立ちでチン○もマン○もついてます。バイリンガルです。もちろん。時には、銀河系から出ていってその外の世界にもワームホールで出入りしてます。あ、もちろんワームホールも神様が創ったんですけどね。その構成元素は地上にはないので、名前はついていませんが、私たちはS69元素EX-0721と呼んでいます」


とか言ってる教祖がいたとしたら、これはもう信仰どころではなく、


「大槻教授、対決お願いしまーす!!!」


の次元ですよね?


 というわけで、もし仮に真の宗教があるとしても、それはなんだかとてもトンチンカンな感じになってしまうということになります。



 そこで、記事にあるとおりに既存の宗教は、逃げなのかすり合わせなのかわかりませんが、



「神は心の中におられる」


とか言い出すのです。



 この分野、キリスト教では特に真面目にガチで考える人が多くて、


「ほんまにノアの箱舟はあったのか」

とか

「モーセは紅海を割ったのか」

とか

とにかく聖書に書いてあることを科学的に証明しようというプロジェクトは山ほどあります。


 しかし、それでは完璧にいくわけもなく。


(だってそうでしょう。キリストが水の上を歩いたことを証明とかできませんやん。パンを無限に増やしてみるとかも、無理ですやん)


なので、聖書学者はこれまたきちんとした学説として


歴史的事実(現実に起こったこと)と信仰的事実(信者がそう感じたこと)は違うが、信仰的にはそれらは事実として受け止められているんだ」


なんて言い出すわけです。



 こんなこと言い出したら、


「源義経が歴史的には死んだけれど、大陸に渡ってチンギスハーンになったんだ」


は、もう信仰的事実です!


「源為朝が歴史的には死んだけれど、沖縄に渡って子が舜天になったんだ」


は、もう信仰的事実です!いや、こっちは沖縄の正史として認定されているそうなので、恐ろしいことですが。



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 話があっちこっち行き過ぎましたね。


 さてこんな風に、現代の宗教はどうしても「科学的に整合しないことは『こころの問題』として、棚上げしないと無理」なハメに陥っているわけですが、これがまた


 意外と何言ってるかわからないから、万人受けする


ので困ったものなのです(笑)



「あなたの生き方は、あなたの心が決めるのです」



なんて言うと、なんかいいこと言ってるみたいでしょ?でも、



「あなたのローンは、あなたが決断してはんこを押すのです」

「あなたの嫁はんは、あなたが叱り飛ばすべきです」

「あなたの息子がやったことは、あなたが責任をとりなさい」

「あなたのハゲに、この製品を購入しなさい。さあ、今すぐ!」


となると、とたんに嫌な感じが満載なのはナゼでしょう。おなじことを言っているのに!





 つまり、何言ってるかわからないことは、いいことのように思えちゃうのです。




 あいだみつをさんなんかいい例ですね。


「つまづいたっていいじゃないか、にんげんだもの」

法廷で被告人弁論で、こんなこと言ったら即満場一致で死刑ですよ。





「そのうちそのうち べんかいしながら日がくれる」

いやいや!全然いい言葉じゃなくて、ただのダメ人間ですって!部下がマジでこれだったらリストラしたい!



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 また、脱線しよりますので、戻します。


 というわけで、ふわふわとした「こころ教」(佐々木さんの造語です)が広まると、今度はその反対のベクトルとして


原理主義


が注目されるようになる。これは重要な視点です。


 宗教が「ふわふわといいことばっかり言いやがって何の役にもたたん!」となれば、真に困窮している人は、より


「原典にちかい所、原点に近い宗教」


に答えがあるのではないか、と思うようになるのです。


 だから、イスラム教でも一定数が原理主義に魅了されるのです。キリスト教でも、「聖書に帰れ」的真集団は次々に登場している現実があるわけで。



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 このブログを読んでいればわかるとおり、武庫川散歩はどちらかと言えば原理主義者ですので、それも科学と整合しなきゃ嫌なタイプの原理主義者なので、あまねく世界の宗教家の中で唯一といっていいほど、


ふわふわしたよいことなんて、これっぽっちも言わない


人間であることは間違いありません。


 そもそもこの世界が存在しない、という原理原則で動いているので、



「生きるとか、いのちとかどうでもいい」



というのが本音です(笑) ・・・なので「どうせ死ぬんだからどうでもいい」な中島義道先生の理屈とちょびっと合うのです。




「ブサイクだっていいじゃないか、ブサイクなんだもの」


「そのうちそのうち 弁解してるヤツは氏ね!!!!」


 ・・・さんぽ。