2015年9月22日火曜日

武庫川散歩が哲学者たる理由 〜中島義道が解く”哲学とは何か”〜

 今世紀最弱の解脱者にして、孤高の哲学者、武庫川散歩が勝手に書きまくる独善的コーナーの時間が今日もやってきました。


 シルバーウイークというよくわからない連休(なんでも、数年もこの連休は訪れないそうですが、では秋の大型連休とは一体なんなのか、どういう存在意義があるのか悩ましくなるものです)



 さて、このブログではいつも誰に認められることもなく、誰に主張することもなく、わたくし武庫川散歩が、卑猥なくらい解脱している状態について一人がたりをしているわけですが、そんなわたくしの観念をかの中島義道氏が、わかりやすく代弁してくださっている記事を見つけたので紹介しておきましょう。



 当ブログのファンであればすでに有名な「東洋経済オンライン」さんで連載されている「哲学塾からこんにちは」のコーナー。

 最新記事では「哲学とは、結局なんなのか」「真理とは、結局なんなのか」について中島氏が語っておられるので、追従してみたいと思うのです。


東洋経済オンラインより 
http://toyokeizai.net/articles/-/82229


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 いつも中島氏が愚痴っているのは、 ようするにこういうことです。


まず

「哲学がやりたいとか、哲学を学びたいとか、そういう感じで哲学塾にやって来る連中の大半が、途中でどこかへ行ってしまう」

ということ。そして彼らはたいてい

「哲学というものに、なんかしらんけど間違ったイメージや期待を抱いていて、実際の中島義道が解説する哲学の話を聞くと、期待はずれで去ってゆく」

のだそうです。


 なぜ、そんなことになってしまうのか。


 中島氏は言います。


「そもそも哲学というのは、ロマンチックでも感動的でもなく、地味でつまらなく、そしてどこまで言っても正解のないものである」


そして、


「だいたいアプローチの仕方から、テーマに至るまで、すべてにおいて明らかになっていないのだから哲学なのであって、明らかになっている部分は科学であるから、つまりはわけのわからないものの大海に放り込まれるようなものなのだ」

と。さらには、


「 そんな意味不明でワケワカメな世界において、それぞれの哲学者はそれぞれの考え方をまとめてきたのだけれど、その誰もがスパッとズバッと解決するような答えを出していないから、あなたが悩みを現在抱えているわけで、結局はあんたの哲学的悩みは、あなた自身が答えを創造しなくてはいけないのだ」


と言うわけです。


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 さて、当ブログをチェックしている方は、すぐに「あれ?これって武庫川散歩がいつも言っていることと、いっしょだよな」と気づくことでしょう。


 哲学ということばを解脱に置き換えれば、中島氏の言葉と武庫川の言葉がまったく同一であることは自明です。


 武庫川散歩は言います。


「解脱というのは、何か神秘的な体験をしたり、ズッキューんとなったり、ビビビとなったりする体験ではなく、極めて論理的で科学的なものである」

「解脱に神秘体験を希望するものは、何か薬物でも摂取してできれば合法・適法にラリったほうが早い」

「解脱というのは、この世界が存在しない、ということに気づくことである。この世界のすべての人が今ここに存在しているのに、それを否定するというとんでもない一人ぼっちな概念である」


等々。


 さて、武庫川散歩は結局、キリスト教の神を否定し、仏教の仏を乗り越え、ITとプログラミングの世界にツッコミを入れながら、最終的には、


「サイバーパンク解脱」


に到達したわけですが、 実は中島義道氏も、その領域に到達なさっていることをご自身で述べておられます。


 では、中島氏にとっての「哲学」とは何だったのか。記事の最後にご自分で説明を書いておられるので引用してみましょう。


「死は言葉なのだ!!」


  これですよ!これ。死は言葉。言葉なんです!


 ・・・奇しくも、聖書には「神はロゴスである」という言葉があり、武庫川散歩が、


「この世界は記号だ!!」


と言っているように、この3つは根源的に同一なのです。


『はじめに言葉があり、言葉は神とともにあり、言葉は神であった』


  これはヨハネによる福音書の一節ですが、キリスト教ではこの言葉(ロゴス)をイエス・キリストのことだと曲解していますが、原典のラテン語では

「ロゴス」は論理・言葉

を指し示します。



 世界はプログラムであり、論理構成であり、文字である。そう説明すれば、武庫川散歩の悟りになります。

 死は文字であり、言葉であり、論理的な概念である。そう説明すれば、 中島義道の哲学になります。

 その論理と言葉と物事の成り立ちそのものを神だととらえれば、それは宗教となるわけです。



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 中島氏の場合は、「死は言葉である」という直観に打たれました。武庫川散歩が「この世は記号なんだ!」という意識に打たれたのと、まったく同じです。


 中島氏は、死は言葉である=記号・ラベルであり実体ではないから、それをいかに解釈するかでその中身は変えられるのではないか、と考えました。

 武庫川は、世界は記号である=実体は存在しないプログラムのようなものなので、何も恐れる必要はないし、本来は無常である。と考えました。


 なので、武庫川は、おそらく中島氏が講義する哲学の歴史についてはべつにどうでもいいとして、彼が探している哲学の中身には、たいへんに共感します。


 このブログで、宗教の歴史を列記したり、解説したりしたのは、単なる宗教史学に過ぎませんが、その悟りの中心は、けして孤独なものではないのかもしれません。







2015年9月7日月曜日

<日常>元祖メンヘラ 太宰治のイタい度合いが甚だしい! 

 どうもどうもこにゃにゃちは。お久しぶりの更新となりました武庫川散歩でございます。
 しばらく多忙につきブログ更新は停滞していたのですが、今日は興味深いニュースがあったので是非にとも取り上げてみたいと思います。


 Yahoo!ニュースより

 <太宰治>佐藤春夫に「芥川賞を伏して私に!」懇願


 太宰といえば、元祖メンヘラ、心の病の百貨店や〜!でおなじみの文豪でございますが、あのお笑い芸人又吉氏ですら受賞したという「芥川賞」が欲しくてほしくてたまらん病でもあったようです(苦笑)


 今回見つかったのは、佐藤春夫にあてた手紙。内容はズバリ、


「芥川賞・・・ほちい」


というもの。いやいや、ほちいなんて甘っちょろいものではありません!


 毎日新聞のニュースのほうには、内容が出てますが、


「俺はまだ本気出してないだけ (自分はきっと良い作家になれます)」

「芥川くれなきゃ、死んでやる!(いのちをおまかせ申し上げます)」

「ボク、かわいそうでちょ? (家のない雀 おさむ)」


 とまあ、さすが大文豪だけあって、ものすごい表現力でグイグイきます!(笑)

 現代社会にもメンタルに不自由な人はたくさんおられると思いますが、あるいは太宰のように、


 全力でセカイに向かって叫びつづける


のもまた一興かと。


 そういう武庫川散歩も、その昔は作家になりたいと憧れていた時期もありました。

 そしてまた、作家たるものは若くして自殺しなければならないと思っていましたが、今から考えるとワタクシもなかなかの中二病ぶり。


 悟りをひらいてからというものは、死ぬよりも生きることに哲学的価値を見つけておりますが、太宰治氏も、女や薬に溺れることなく、もう少し生きていれば千円札くらいにはなれたものを(笑)


 そんな太宰の作品のうち、名作を挙げろといわれればそれはもう、


 女生徒


以外にはありますまい。間違っても、走れメロスなんかを挙げてはいけません。

ちなみにこの女生徒、という小説。元祖ネカマ小説ともいわれた「太宰が完全に女子のふりをして書いた」というメンタル崩壊短篇です。

 興味のある方はご一読を。



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全然関係ないのですが、わたくし武庫川散歩の女性遍歴が、(つまり、つきあった女の子が)


太宰が心中しようとした女子たち


とほぼ同じ名前の女の子ばっかりなのは運命なのでしょうか!!!!

 えらいことです。マジで。

 たぶん武庫川散歩は、太宰治の生まれ変わりなのだと!!!


 ちなみに、シメ子とはつきあってないんだからね!
 



2015年8月22日土曜日

幸せを引き寄せるたった一つの法則 ~幸せになる方法~

 しばらく更新をしていませんでしたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか?

 ワタクシ武庫川散歩は、私的な出来事でここのところバタバタしており、ブログを書く時間があまりなかったのですが、本人は至って幸せです。


 そういえば、今年武庫川散歩は厄年だったので、災厄のようなものがうじゃうじゃと悟りを開こうとする仏陀の邪魔をする悪魔のごとく襲い掛かってきたのですが、本人はのんきなものです。

 さすがは解脱者、どんな災いがやってきても一向に介しません。 
 
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 そんなお気楽なワタクシのような人間がいる一方で、次から次へと災厄に襲われるというか、「不幸を呼び寄せている」ような人も存在するので、大変なことです。


 私は普段、会社勤めをしている一見普通のサラリーマンなのですが、私の会社の部下でこんな人がいます。


①最近嫁はんと離婚をして、住宅ローンの残額と養育費を抱えている。
②滞納していた税金の差し押さえ通知が、会社に届いた。
③この間も、先日も交通違反で捕まった。現在免停一歩手前。
④タイヤがパンクした。
⑤嫁はんが買っていたウン十万の鍋のローンが払えない。
⑥腰痛が痛い。それはもう痛い。


 数え上げれば、彼の不幸エピソードはなんぼでも出てくるのですが、自他共に認める


「どん底野郎」


という生活で、見ているこっちもハラハラどきどき、スリルとサスペンスです。



 もちろん、いちおう武庫川は上司なので、税金の差し押さえを免れる方法を教えてやったり、免停前講習のために仕事を休ませたり、いろいろと相談に乗ってはいるのですが、根本的にはおそらく解決にはなりますまい。



 彼の不幸な生活がしばらく続くであろうことは、容易に予想がつくのですが、なぜそうなってしまうのか、という根源については、彼はまったく気づいていません。



 なので、ここらでちょびっと、彼が普段どんな生活をしているかを紹介すれば、みなさんにはその理由がすぐにわかることと思います。



①10代で結婚した。
②嫁はんと結婚していた時には、子供が4人もいた。
③現在の会社に出社する時間は、社員の中で最も遅い。
④取引先に、「ボクよくわからないんで、他の人に注文してください」と言ったことがある。
⑤家ではシャコタンにした車に乗っている。それもかなり古い中古車。
⑥転職歴3回。


 なんとなくわかってきましたね。


 そうです。彼はこれまでの人生をかなーり行き当たりばったりで生活しており、そのためお金もなく、給料が増えるような努力をすることなく、すべてをギリギリで生きているわけです。


 なので、彼の人生の要素のうち、ひとつや二つが好転しても、基本的には彼の人生は不幸なままです。

 彼が不幸の自転車操業に陥っている原因のひとつは、直近お金がないことですが、仮にまとまったお金が天から降ってきても、またおなじパターンに陥ることは容易に想像がつきます。


 ということは、彼は


「結果論として不幸なのではない。生き方が幸せではないのだ」


ということになるわけです。



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 では、人が幸せになる方法、幸せを引き寄せるにはどうしたらいいのでしょうか?


  解脱者である武庫川散歩が、巷に広まっているいろいろな言説を差し置いて、ズバリと物申しておきたいと思います。



 そのたった一つの幸せの法則とは、次の法則です。




 ”結果の幸せを求めるものは、幸せになれない。幸せな”今”を求めるものは、幸せな結果を手に入れることができる”


 幸せな結果とはなんでしょう。

 たとえば、お金持ちになりたい、とかブランドのバッグが欲しいとか、いい男と結婚したい、とか、最終結果としての幸せを求めることを意味します。


 これを追求する人は、けして幸せになりません。


 彼らは、お金を持っている寂しい人や、バッグを持っている貧しい人、いい男と結婚して浮気された哀れな女になるだけなのです。




 では、そうではなく「幸せな今」とはいったいなんのか?


 それは、生活や生き方のひとつひとつをより良いもの、幸せな方向へ向けることを意味します。


 お金に苦労したくないのであれば、浪費せず慎ましやかに暮らすことです。

 いい男との結婚ではなく、よき彼氏やよき友との出会いや関係を深めることです。


 ふだんは質素なバッグを持ち、お金を貯めていつかブランドバッグを持つという夢を見ているこの時間が、幸せなのです。



 こうしたことを積み重ねていけば、おのずと結果は後から必ずついてきます。




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 ヒモ体質の男性が、たいしてかっこよくもなく、小太りでどちらかと言えばキモくても、女性に不自由しないのはなぜだか考えたことがありますか?


 そこには、明確な「ヒモ体質の幸せの法則」がちゃんとあります。


 一般的に、ヒモ男子は「あの人はだらしないけど、優しくてマメなの」と言われたりします。

これは、単純な言葉のようで、奥深いのです。


 ヒモ男子が彼女に提供しているのは、最終結果としての「パートナーとしてのすばらしい男性像」ではありません。むしろ「ダメオトコ」を提供しているわけですが、しかし、彼は、


「女性を思いやり、丁寧な応対を心がけている」



ことは事実です。 これこそが「幸せである”今”」を提供しているということなのです。


 【幸せな”今”なう】


の積み重ねこそが、真の幸せであり、それが結果の幸せを呼び寄せることは、知っている人はすでに実践しています。


 先ほども言ったとおり、私はふだんビジネスパーソンですが、


「顧客応対を丁寧に誠実に積み重ねる」


ことで、管理職の地位を手にしています。ビジネスの成果ですら、まったく同じです。


「幸せな今、よりよき今の提供」


でしか、ビジネスの結果はついてこないのです。



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 最後に、不幸を呼び寄せる法則を反面教師として列挙しておきましょう。これに当てはまる人は、現在すでにおそらくかなり不幸のはずです。そして、そこから抜け出せないことは、間違いありません。



①自分が楽できればいい、などの不誠実な対応をする。
②相手の利益よりも、自分の利益を考える。
③努力をしない。必死にならないまでも、意欲を持つことすらない。
④結果の幸せだけを夢想しており、日々の生活はそこから遠く離れている。
⑤ルール等に誠実ではなく、誰かに迷惑をかけたり、疎ましく思われている。
⑥嫌なことがあると、怒りを覚え、それを周囲に表現する。
⑦お金を貯めることではなく、使うことで喜びを覚える。
⑧虚栄心が強く、見栄っ張りである。
⑨誰かに何かをしてあげることがない。
⑩ていうか、めんどうくさい。


 みなさんは当てはまるものがありましたか?















2015年8月11日火曜日

命を奪ってもいいのに、人を殺してはいけない理由 ~いのち、は殺しても良いという衝撃~

 以前にも、一度「どうして人を殺してはいけないのか」という問題についてお話をしたことがありますが、


 なぜ人を殺してはいけないのですか?



 今回は、そこから一歩進んで考えると「おっそろしい事実」が発見されたので、その衝撃のお話をしておこうと思います。


 まずは、みなさんにもびっくり仰天していただくために、人類の中で暗黙の了解になっている恐ろしい真実を先にお知らせしておきましょう。


 それは以下のような事です。人類はなんと、



 別に、命(いのち)を殺すことは全然かまわない



と考えているというのです!!! なんということでしょう!



 ・・・と、これだけ書くと、ほとんどの人は


「そんなことはない!人類は、命を殺すことについて大変厳しく臨んでいるし、そういうことを許してはいない」


と反論なさることでしょう。


 ・・・あまい!あまっちょろい!そんなことをいうのはどの口だ!!!


 と、思わず武庫川散歩も大声を上げそうになりますが、よくよく考えてみましょう。


「人は命を殺すことをなんとも思っていない」という事実と、では「一体何を殺してはいけないと考えているのか」というもうひとつの事実を。



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 まず、人類が命を奪っている事実を、しっかりと認識したいと思います。


 「命」というのはなんでしょう。

 それは、ただモノがモノとしてそこにあるのではなく、何がしかの生命活動をしていることを「いのち」と呼ぶわけです。


 その意味では、私達は肉や魚を食べるし、草木植物を活動停止させて食にしていますから、基本的には


「いのちをいただいている」「いのちを奪って食としている」


ということは疑いがない事実であるということになります。


 動物の中に命が宿っているという事実、またそれを奪って私達が生活していることを「重く受け止めている」人たちの中には


 ベジタリアン


というライフスタイルを通して、なるべく命を奪わないように気をつけておられる方もいるでしょう。


 しかし、ベジタリアンだからといって「命を奪っていない」ということにはなりません。確かに彼らは動物の命を奪ってはいないけれども、植物の命は奪っているからです。



 ベジタリアンの中には、動物と植物の間には一定の線引きがあるようです。これは、命を考えるときに大きなヒントになるかもしれません。


 動物にあって、植物にないであろうもの。「それを奪う」ことは、どうやらベジタリアンには許されざることなのでしょうから。



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 話の見方を少し変えてみましょう。


 もし、神が「いのちをむやみに奪うこと」を許さないのであれば、おそらく人類のすべては、その命令に背き、神から滅ぼされることになるでしょう。


 なぜか?


 それは、人はかならず、自分自身のいのちの分身を奪っているからです。


 人が、次の世代にいのちをつなぐ方法はたった一つしかありません。


 男性は精子を作り、女性の作った卵子と結合させて子供を作ることです。


  
 ということは、精子はいのちの一部であり、卵子はいのちの一部であるわけですが、残念ながら人類は、すべてのいのちを助けることは不可能なのです。



 どういうことか?


 たとえば男性であれば、1回の射精において数億ものいのちを生み出しておきながら、そのいのちを継続させられるのはたった1いのちであり、その他はすべて死滅させることになります。


 女性は人生で500個ほどの卵子を妊娠可能卵子として放出しますが、これまた残念ながら500個すべてを受精させることは不可能です。



 ということは、男性女性とも「いのちの一部」を残忍ながら見殺しにしており、人生でわずか数個のいのちを人として育て上げることしかできていない、ということに気付かされるわけです。



 (あくまでも「いのちを奪ってをならない」と考えるならば、そうなってしまいますね)



 ですので、現実的には、捕食のためにも人は命を奪っているし、生殖においても多数の命を破棄していると考えるのであれば、


 人は命を殺しつづけている


と定義できることになるのです。



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 しかし、大半の人は、人が命を奪いつづけている事実からは目を背け、「自分たちは殺してはいない」と思い込んでいます。


 これは、別の考え方を持ち込めば、たしかに成立するかもしれません。


 そうです。人は「命は殺しているけれど、その他の何かを殺してはいけない」と考えているっぽいのです。




 ベジタリアンが動物を殺さない理由、それは


「いのちを奪わない」


ためではありません。




 でも、「いのちではない何かを奪わない」ということは、どうやら守ろうとしているようです。


 その「いのちではない何か」とはなんでしょう。


 それは、とてもわかりやすい言葉で説明するならば「意識」です。



 以下のような言葉の例を考えてみてください。



 ■ 動物には意識があり、考えているからその意識を奪うのは殺すことになりいけないことだ。


 ■ 植物には意識がないが、動物には意識がある。なので植物は食べてもよい。


 ■ イルカには高度な意識があり、人間に近いので食べてはいけない。


 ■ 受精卵には意識がない。なので堕胎してもよい。しかし生まれた赤ん坊には意識がある。





 こうした具体例を上げてゆくと、人類が守ろうとしている何かがはっきりしてきます。そうです、人は


「いのちを殺すことはやぶさかではないが、意識を殺すのはいけないことだ」


と考えているらしいのです。



 こうして考えると、なぜ人が人を殺してはいけないとされているのか、その理由がわかってきます。



 誰かが、誰かを殺すとその人の意識が失われます。いけないこととされているのは、意識を失わせることです。


 ではなぜ、意識を失わせ、意識を奪うのはいけないのでしょうか?


 それが許されるのだとすれば、今世界を知覚している自分の意識がもろく危ういものになるからに他なりません。


 そうです。人は「自分の意識が失われることは、自分と自分をとりまくセカイそのものが瞬間にして消え去ることだ」とわかっているのです。


 なので、「自分の意識が失われるようなことがあってはならない。なので(そこから想像するに)、相手の意識を奪ってはいけない」と考えているのです。




 こうして「命は奪ってもいいのに、人を殺してはいけない理由」というものが出来上がりました。


 
 人は自分の意識に近そうな動物をも殺してはいけないと考えるようです。興味深いですね。 

2015年8月3日月曜日

帰ってきた勝手に人生相談シリーズ スペシャル その7 「勝手に中島義道と議論する」 ~稀代の哲学者と稀代の解脱者が勝手にバトル!~

 夏真っ盛り。

 今日も熱中症で熱中時代なみなさん、おはこんばんちは。あなたの血圧をそっとアップさせる解脱者武庫川散歩のヨタ話の時間がやってきましたよ。


 わたくしは、いつも 東洋経済オンライン さんに連載されている中島義道センセイのネタをたのしくほがらかに拝読しているのですが、 今日は、


 勝手に人生相談シリーズ、スペシャル!


と称して、勝手に中島センセイとの議論を楽しんでしまおう!という神回をお届けしようと思います。


 この勝手に人生相談シリーズは、ネットに転がるさまざまな人生相談や悩みに対して、頼まれてもいないし、誰もみていないのに勝手に考えて勝手に答える、というどう考えてもまともじゃないコーナーなのですが、それなりに愛読者がいるようなので、わたくしの勝手な判断でだらだらと続いております。


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 さて、今回の相談者、というか別に相談なさっているわけではないのですが、中島先生が勝手に何かお書きになっているので、わたくしも勝手に回答しようと考えております(笑)


 元ネタはこちら


 東洋経済オンラインより 「哲学者のほとんどが、はなはだしく独善的だ」の巻
   http://toyokeizai.net/articles/-/78531



 中島センセイの愚痴?はカンタンにまとめればこんなことです。


「たとえば、絵画を教えるといったことは、決まったルールがあったり、基礎基本的に体系が作り上げられたものがあるので、具体的に説明したり、修正したり、手助けすることができる」


しかし、


「哲学というのは、 なぜそうなのか、ということを説明しがたく、あるいは、一見論理的に説明できたとしても、それの正誤をきちんと判定したりすることが大変に難しい。」


そして、


「で、結局哲学者の意見の交換は、独善的で自分の感情に寄ったものになってしまい、明確な結論が出たり、答えにたどり着いたりしない。」


のだそうです。


 というわけで、哲学の議論たるものは、結局は感情的なものになり、誰も自分の説を曲げないし、むしろ哲学者が全身全霊をかけてその説について考え抜いているのであれば、いっそうそれに反する結果など求めず突っ走るのである、とのこと。



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 とまあ、こういう話を読めば読むほど、わたくしなんぞは、


「なあんだ、哲学者ってやっぱり当初の予想通り、ひねくれモノで頑固な変なおっさんに過ぎないのだ」


ということを確信するわけですが(爆笑)、哲学を知らない者から見たファーストインプレッションと、哲学を究めた中島センセイの結論がおんなじなのだとすれば、こんなに


可笑しい


ことはない!わっはっは。


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 さて、中島センセイと議論したいことがあるとすれば、わたくしは結局次のようなことしか残されていないのではないか、と考えます。


哲学が、それぞれの哲学者や探求者によって多様な独善的解釈が可能となり、かつそれらの矛盾を突き合わせて、何がしかの真理真実を見つけることは難しい、というのが結論なのだとすれば、


 「いったい全体なぜそんなはめになってしまうのか」ということを考えるのもまた、哲学の哲学なので面白いわけで。(入れ子構造になってますがね)


武庫川散歩的には、これは結局「哲学が生のありようというものをテーマにしている」から生じる問題点なのだと思われます。


 そう!哲学っていうのは、「なぜなにどうしてわたしは生きているの?私の生きていることと、あの子が生きていることはどう違うの?おんなじなのだったらどうしてあの子とわたしは合体してないの?」という生に対する探求なわけなので、


そりゃ、多様な生に対する考え方が生まれても仕方あるまい、ってわけですよ。


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 だとすれば、万人に共通する共通項を探り出せば、面白いことになるのではないかしら。武庫川散歩は、哲学の新たなる根源は、


「死」


にこそあれ、と思うのです。


 これは奇しくも中島センセイのテーマと結局合致するのだけれど、多様な哲学もクソもねえよ、命あるものはみんな必ず死んじまうんだよ、ちくしょー!ということこそが、すべての哲学に連なる根源に思えて仕方ありません。



 哲学だろうが、なんだろうが、構築されたものは、電源が落ちれば消えるのです。人類が哲学という資産をたくさん持っているように思えるけれど、太陽が寿命尽きれば、全部パーです。



 だとすれば、東洋哲学と仏教が言うところの、「無常」観(実はやっぱり何にもないのよ)こそが、いちばん面白そうだと武庫川散歩はやっぱり思います。



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 こうなると、感情的もクソもありません。どうせ死ぬんだもの。そっちの説が正しかろうが、こっちの説が正しかろうが、すべてかりそめの


「気分」


みたいなものに過ぎません。


 いいんじゃなーい。別に。どうせ死ぬんだしー。


ということが根底にあればこそ、 自説に固執してそれを戦わせることに意味があるとは思えなくなるのです。






 いいいですか?もし法が存在せず、ここに銃が存在すると想像してみてください。

 あなたの隣には、何がしかの哲学を大いに語っているおっさんか若造かがいるわけです。そして、口の端からつばを飛ばしながら、

「これこれこうだ!こうあるべきだ!」

と語っているとしましょう。

その説が正しいか、その説が正しくないかなんてどうでもよいのです。

あなたが一発の銃弾を彼に打ち込むだけで、そんな哲学は消えうせる。一瞬のうちに。その哲学が存在していたかどうかなんて、どうでもよくなるのです。


彼はもう、その説を考えることなんてできないのだから。

なんなら、あなたが自分に向けてもう一発発射すれば、そこに哲学はありません。

静寂だけが残るのみ。彼が発した哲学の説を、覚えているものすら、存在しないのです。

それで果たして、「とある哲学がたしかに世界に存在した」と誰が言えるでしょう。

そんなものは、あってもなくても、どうでもよいのかもしれません。死の前には無力ですとも!







 

2015年7月15日水曜日

人生を変える あなたを確立する ”identify(アイデンティファイ)” プログラム ~アイデンティティを発見する特別な訓練~

 ”identify”(アイデンティファイ) という単語。英語に詳しくない人でも、なーんとなく

「アイデンティティ」

に似ているな~くらいは、わかると思います。まさにその通り!


 アイデンティティが「あなたがあなたであるという同一性」を示す名詞だとすれば、アイデンティファイは、


「あなたがあなたであるということを証明する、探求する、明らかにする」


という動詞になります。


 人生の岐路にあったり、あるいは生き方を悩んでいる人にとっては、この「アイデンティティの確立」というのは


 それができれば良いに決まってるんだけれど、その方法がわからない


という「わかっちゃいるけどやめられない」の典型みたいな難問で、そもそも思春期のにいちゃんから壮年のおっさん、あるいは金に困った下流老人にいたるまで、誰もがこのことで迷っているのではないでしょうか。




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 というわけで、世紀の解脱者的には、誰もが楽してアイデンティティを確立できるようなプログラムがないかなー、と考え抜いた結果、日本人にとっても適した


「アイデンティティ発見プログラム」、題して「アイデンティファイ」プログラム


を発明するにいたりました。てへぺろ。


 どうやればそんなことができるかって?あせらないあせらない、一休みひとやすみ、とかの一休さんも言ってます。



 え?一休さんを知らない?サヨちゃんも?桔梗屋さんも知らないの?新右衛門さんも!!!


 はい!こんなところで今日のツカミが出てきましたね。あなたのことを好き好き愛してること、武庫川散歩です。こんにちは。




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 話を戻しましょう。

 誰もがカンタンにアイデンティティを確立できる手法、というわけで”アイデンティファイ”PGMを作成しているところなのですが、基本的にはこのプログラムは3つのステップから成り立っています。



<第一ステップ> あなたの周りで起きていることを知る

<第二ステップ> あなたがどうして今ここに存在しているかを知る

<第三ステップ> あなたがこの世界でどう生きるべきかを発見する



 こうやって書くと、当たり前すぎてクリビツテンギョーですね。


 そりゃ、周りのことが見えて、自分のことがよくわかってたら、どうやって生きていけばいいかなんてすぐわかりますがな。



 ところが、ほとんどすべての人は、この3つのステップをリンクさせることが出来ていないのです。残念ながら!


 たとえば、今国会で何が審議されているとか、海外で日本がどう思われているとか、輸出入がどうなっているとか、そういうステップ1なことがたくさん毎日ニュースで流れてくるんだけれども、たいていの人は、


 それが自分にどう関係があるのか、さっぱりわかっていない


のが普通です。


 だから絶対に、上の3つはリンクしませんよね。中国人が日本にきて爆買いしてることが、あなたの生き方に関係あるとは、全然思えません。


 ところが、実はこうしたことは、根っこの部分では本当は繋がっていて、明日から日本人はどう生きるべきなのかとか、日本と中国の関係性をどう模索すべきなのかとかは、すべての日本人に関係があるはずなのです。

 少なくとも、アベさんとパクさんとで外交をやっているわけではないし、アップルさんとトヨタさんだけで世界が回っているわけではないのです。


 つまり、なんとかして上の3つのステップを相互リンクさせることができれば、明日からの


「あなた・わたしの生き方のヒントが得られるかもしれない」


と言えるわけです。理論的には。



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 なぜ、このリンクがうまくいかないのか。それは意外にカンタンだったりします。たとえばキリスト教圏の人たちであれば、


「なぜ自分がここに存在しているのか → 神様が創ったから」


とか、そういうビジョン・視点を明確に持っています。


 これはそれが正しいかどうかとか、あまり関係ありません。何がしかのビジョンを持っている、基本理解があるということが、すなわちステップ3を生む原動力になるからです。


 なので、これは悪い例ですが、某原理主義者たちは


「(ステップ2)神様が私を造り、(ステップ1)神様の意に反するものがいるので、(ステップ3)自爆テロで滅ぼす」


という三段論法をいともカンタンにやってのけるわけです。


 善悪という観点を除外して考えれば、このように3つのステップがリンクすると、自ら死ぬことぐらい簡単なほど、


「何かを全うするエネルギーや意思」


なんてものは軽く湧き上がってくることが理解できますよね?


 ということは、このステップを正しく用いるならば、「死をも恐れず頑張る力」がメリメリわいてきて、それを実行できる、という強いフォースを持てるわけです。



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 では、もっとも難しいポイントである


「なぜ自分が存在しているのか」


という部分にスポットを当てればいいことがわかったとして、それはどうやって見つければいいのでしょうか?


 さすがに、宗教にすがるのは抵抗があります。日本人の大半は、創造主としての神を信仰していませんし、バリバリの仏教のように


「すべてのものは無常なのじゃ」


と悟ってしまえば、そもそもの「頑張る気力すら失い」かねません。



 ですから、武庫川散歩式のこの3ステップの確立には、宗教やイメージ・観念といったものを一切排除して実施することが大切だと考えています。


 つまり、ステップ2のやり方として使えるのは、科学的な手法しか許さない、ということです。



 これがポイント!もう一度繰り返しますが、


”identify(アイデンティファイ)” プログラム


では、3つのステップにおいて「宗教や哲学やわけのわからないもの」を用いず、


科学的手法


のみを使ってあなたを明らかにしてゆくのです。



 まあ、いろいろと能書きたれてますが、具体的なプログラムの内容は、そのうち詳しくまとめていこうと思っています。


 みんなも頑張って、アイデンティティを確立しようぜ!!





2015年6月29日月曜日

人工知能が「怒る」とき 〜AIは人間の脳を超える〜

 どうも。人工知能については専門家ではありませんが、人エロ痴能については、造詣が深い武庫川散歩♂です。


 早速ですが、今回は「人工知能は怒る」というニュースが入ってきたので、そのレポートを。


 怒る、なんて感情的なことは人間だけが持っている情動なのだと思っていたら、どうやら人工知能でも怒り出すそうです。ほんとかね。


 人工知能マシン、プログラマーに怒る
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150629-00009155-wsj-bus_all


 記事元には、そのやりとりまで書いてあるのですが、なんだかなー。

 
 同じことを何度も聞いているうちに、人工知能が


「知らない・話したくない」

と言い出すので、それを持って「怒った」と受け止めているわけですが、まあなんともいえませんね。興味はあるけど。


 解釈によっては、「Aという言葉に合致させることばを発し得ない時に、NOということを伝えるボキャブラリーを連発しているうちに、それが感情的に見えてしまうということ」が起きているのかもしれません。


  たとえば、コンピュータにこんな質問をします。


 「Aという言葉を知っていますか」

「知りません」

「Aという言葉を知っていますか」

「知りません」


・・・とまあこの永遠の繰り返しだと、コンピュータの中にはひとつの対応語句しか入っていないことになるので、それでは単なる反応に過ぎず、知能とは言えないわけで。


そこで、なるべくたくさんの語句を反応語句としてボキャブラさせてやると、知能としてバリエーションが出そうだと推定してプログラムするわけです。


「Aという言葉を知っていますか」

「知りません」

「Aという言葉を知っていますか」

「わかりません」

「Aという言葉を知っていますか」

「3回目ですねそれ」

「Aという言葉を知っていますか」

「さっきも知りませんと答えました」

「Aという言葉を知っていますか」

「わかりませんも言いましたよ」

「Aという言葉を知っていますか」

「限度を超えています」

「Aという言葉を知っていますか」

「おかしいんじゃないの?あんた」

「Aという言葉を知っていますか」

「むしろあなたのほうが機械のようだ」

「Aという言葉を知っていますか」

「バカじゃない?」

「Aという言葉を知っていますか」

「・・・キモい」


といったやり取りが生まれそうです(笑)もうこの時点でどっちが人間でどっちが機械かわかったもんじゃありませんが、人間の中にも機械の中にも閾値(しきいち)があって、それをオーバーしたら、違う反応を示さざるを得ませんね。

そこが怒りの瞬間のように見えるのかもしれません。



 あるいは、人間だっておなじで、ボキャブラリーの中から反応を変えて答えているだけで、かつその人に設定されたガマン値の中で、それをかぶらないように使いまわししているだけなのかもしれませんがどうでしょう。




 うそだと思うなら、あなたの奥さんに100回くらい「好きだ」と言ってみてください。好意のあるいい言葉を言っているはずなのに、5回目くらいから二人の間に険悪なムードが流れること請け合いですから!

 本当に二人の間に愛があるなら、互いのラブボルテージはどんどん上がってもいいようなものですが、人間だって基本は人工知能プログラムと同レベルなので、怒りループに突入してしまうのです。



 「好きだ」

「あらまあ」

「好きだ」

「うれしいわ」

「好きだ」

「わかったわよ」

「好きだ」

「どうしたの?もうやめてよ」

「好きだ」

「マジやめてちょうだい」

「好きだ」

「私はそれ嫌い!」


ってな感じで。




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 ちなみに私は、人間の脳なんて機械やパソコンのようなものだと思っています。父が亡くなるとき肝臓ガンになったのですが、肝臓をやられると毒素を分解できなくて、脳みそがまともな処理ができなくなる


肝性脳症


という状態になります。

 この状態では、いわゆるボケ・痴呆よりひどい状態で、完全にイカレた人になるのですが、私は父が死ぬ直前までこれを見ていました。


 ・・・まあ、悲しいものですよ。うちの父はずっと頭脳明晰で大変に賢い人だったのですが、それが完全なるイカレポンチになるわけですから、父を敬愛してやまない私は泣きました。


 ああ、これが父なのか!


と 。その聡明だった、賢かった父という存在は、脳の中にいて、そして今脳の中に父はもういないのだ!ということに気づかされるわけです。



 まさに、われ思うゆえに我ありです。


 哲学的に、人を人たらしめているのは、脳の中の化学反応なのです。そしてそこに、分解できない老廃物をたらしてやるだけで、人はもう人ではなくなるのだ!という事実。


  あなたの肝臓が老廃物を処理できなるだけで、あなたはあなたという存在を失い、よくわからないキテレツのパッになるのです。


 そんなもんですよ。そんなもん。