2015年10月30日金曜日

 中島義道が怒鳴る”バカモノ!マヌケ!アホ!シネ!”

 いやあ、今回も中島先生は好き放題言っておられますな。


 私も言ってみたい!



 バカ!アホ!間抜け!死ね!



なーんて。



 ・・・毎度どうも。稀代の解脱者!こと武庫川散歩です。





 稀代の解脱者、なんて言うと、あれですな。


 錠前のついた箱とかに入れられて、空中に吊るされて、火を付けられてどっかーん!

 とか、そんなことになっているのに、あら不思議。あちらをご覧下さい。


と見れば、笑顔で箱から抜け出してポーズを決めているという


・・・ああ、それは解脱じゃなくて、脱出でしたね。


 稀代の大解脱!木下大解脱!こと武庫川散歩です。あれ?さっきこれやったね。




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 毎回まいかい、わけのわからんツカミに付き合わされる読者もいい加減困惑なさっていると思いますが、そういうブログですので、以後よろしく。



 さて、今回も稀代の哲学者、中島義道センセイが好き放題言っておられるので、レポートです。




 東洋経済オンライン 哲学塾よりこんにちは から
http://toyokeizai.net/articles/-/89938




 今回先生が吼えておられるのは、簡単にいえば



「哲学をみんなが学べば人類は幸せになれるのに」


といった言説はすべて幻想で、



そんなわけあるかヴォケ!


だということです。


 そもそも哲学は生きるために必要な知識ではないし、生活の役には立ちません。哲学を究めても人類は幸福になったり、人生は豊かになったりしないのです。


 まあ、よく思い返してみれば、現代でも


「資本主義哲学と共産主義哲学のどちらが人類が営むべき社会体制として正しいか」


について、まじめに哲学され議論されているのに答えが出ないのと同じで、人類がみな哲学しても「生きるべきか死ぬべきか」「あれは誰だ、オレは誰だ」なんてことには答えがまったく出ないのです。



 しかし、中島センセイによれば、「それでも哲学することで救われる人がいる」から哲学する意味が少しだけあるのであって、そうなるとこれはますます



 哲学は解脱に似たり



と思わずにはいられません。


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 考えてもみてください。もし万人が悟りを開いてしまったら、この世界では経済が一切回らず、世界中の人たちがみな


「人生に悩みなんかないもんね~。空しいよね、涅槃だ涅槃」


と呟きながら横になってしまうわけですから、世界は完全に崩壊し、停滞します。



 誰もが、物欲も性欲も何もかも捨ててしまったら、恐ろしいことにモノは生産されないわ、子供は生まれないわ、一人ずつ絶滅してゆくだけです。



 そこらへんにある雑草を食べながら半裸でヒゲも髪の毛も伸び放題の男女が、のそのそと歩いている姿を想像して御覧なさい。



 まさに地獄絵図ではありませんか!!!!!




 ということはですよ。あなた!!


 人類にみな解脱してもらっちゃあ、困るわけです。世界は。


 解脱した本人は、すべてのものから解放されて満たされているかもしれませんが。あるいは、なんならそのまま即身成仏していただいてもかまいませんが、そんな風潮が蔓延してしまうと人類は滅亡するに決まっています。


 

 ベンガル虎とか、コウノトリとか、絶滅危惧種がですよ。食欲も失ってごはんも食べないわ、子孫も増えないわ、なんだか幸せそうに眠っているだけだとしたら、


 完全に絶滅するに決まってる


わけです。もう、二度とふやせっこありません。ワシントン条約万歳!!!




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 ということは、お釈迦さまでもブッダでもなんでもいいですが、彼が広めようとしていることは



けして社会体制をそうせよとか、万人受けするものではなかった



ということがわかるのです。


 解脱とか、涅槃とか、悟りとか、そういうのは極めて個人的な主観としてのセカイの捉え方



であって、物理的な実体そのものであっては大変にマズイということです。



 それこそ哲学的にみて、


「このセカイは、諸行無常だよね」


としみじみするのはOKだけれども、



「このセカイは諸行無常ですので、法律も罪も罰もそんなの無意味です」


とマジでやられると困るわけです。




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 わたくし武庫川なんかは、



「このセカイは存在しないのだ!」



なんて嘯いていますが、



「じゃあ、ほんとに消し去ってやろうか」



とか言い出す独裁者がいたりしたら、これはマズイのです。



 地球上には、地球を何回も消滅させられるくらいの核兵器がまだあるそうですが、諸行無常を実行されてしまうと、それはもう取り返しがつかないくらいの無常なのであります。




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 ということはですよ。哲学することも、解脱することも、重要なのは



「個人が生きていく上で、悩みや苦しみ、そもそも抱いている未知なるものへの空虚さを解決する極めて個人的な手法」


として成立することなのであって、ポイントはやっぱりそこなのです。



 なあんだ。解脱って結局、個人的なレベルに過ぎないんだ~。



 そう思うと、すっごく解脱がチャラくて軽いものに思えてきませんか?それでいいんです。


 軽いんですよ。軽いの。あなたの存在が交通事故で一瞬に消えて亡くなるように、それくらい生の悩みも、解脱も哲学も



 軽くて儚くて、やっぱり無常なもの



なのです。



 ほら!またひとつ解脱したでしょ?





2015年10月20日火曜日

哲学的ゾンビは解脱者か、あるいは解脱者は哲学的ゾンビと化すのか。

 どうも、稀代の変態武庫川散歩です。


 ・・・変態変態言ってますが、某大臣のようにパンツを盗んだりはしません。


 いいですか?パンツは象徴であって、そこには例のものはないのです。女性の何がしかに興味をもつ十代の青少年男子がここにいたとして、彼が本当に望んでいるのはパンツなんかじゃないんです。


 そうだ!彼が本当に追い求めているのはパンツの中の・・・・!やめておきましょう。品がなさすぎる(苦笑)



 そんなツカミから入った今日のお話。一転して真面目に「哲学的ゾンビ」について考察します。



 小鹿のバンビでも、長靴下のピッピでもありません。そう、あの「哲学的ゾンビ」です。


 この哲学的ゾンビ、


「物理的化学的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、意識(クオリア)を全く持っていない人間」


として仮定される存在なのですが、ほんとうにそんな存在が実在するというよりは、人間とは何かを考える上で比較対照するために設定されたもの、と考えたほうがいいかもしれません。



 さて、この哲学的ゾンビは、普通の人間とまったく区別がつきません。


 あなたが話している隣の誰かが哲学的ゾンビだとしましょう。その人が人間じゃないかどうかはまったく判別できず、とにかく普通に反応し、普通に接することができます。


ところが、ここからはウィキの記述を引用しますが


【しかし普通の人間と哲学的ゾンビの唯一の違いは、哲学的ゾンビにはその際に「楽しさ」の意識も、「怒り」の意識も、議論の厄介さに対する「苛々する」という意識も持つことがなく、“意識(クオリア)”というものが全くない、という点である。哲学的ゾンビにとっては、それらは物理的化学的電気的反応の集合体でしかない。】


という存在だったりするわけです。


 さあ、こんな存在がいたとしたら、私たちはどうやってその人物との違いを定義できるのでしょうか?


というのが哲学的ゾンビの課題です。



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 しかし、ここであれ?と思いませんか??


 このブログでは再三、「解脱や悟り」について語っていますが、私たち人間が


「楽しいということも無であり、怒りもなく、いらいらもせず、ただ諸行無常にてそうろう」


という境地に達するとしたら、それはまさしく哲学的ゾンビなのではあるまいか、ということです。



 解脱者は、物理化学電気的には人間として生きているが、その意識はすでにあちゃらへぶっ飛ばしているのだとすれば!



 まあ、実際には解脱者や悟りを得たものは、「意識をすっとばして」はいません。よって哲学的ゾンビではない、ということになりますが、


 じゃあ、ヤク中の人は?


とか、


脳死の人は?


とか言い始めると、あやしくなってきますね。



 というわけで、解脱者が何をやっているのかということを再確認しておくと、まず、意識はちゃんとあります。


 しかし、その意識において沸き起こる各種情動(感情や生まれ出る神経データ・反応)のすべてに


 支配されないで、コントロールできる


というところがゾンビとの違いなのです。


 コントロールというと、これまた誤解を生む表現で、


「じゃあ、解脱者は自由自在に快楽を得られるのか」


とか


「意識を入れたり切ったりできるのか」


とか、そんなわけのわからんことを言う人がいるかもしれませんが、そういう意味ではなく、


「情動を意識の管理下に置くことができる」


という意味のほうが近いと思います。


 ほれ!原発のあれですよ。アンダーコントロールド。



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 ということはなんですか?


 人間というのは、2段階の脳によって形成されていて、動物的で生物的な機能を司どる中核部分と、論理的思考やいわゆる高等生物の意識を形成する大脳新皮質があるとして、


「大脳新皮質が、他のノーミソを管理できる」


ことを指すわけですな。


 
 ところが、普通の人間はこれができず、いわゆる動物脳・生物脳のデータに翻弄されるから苦しくて悲しくて楽しくていやっほい!なわけです。



 しかし、解脱者は、そのデータに翻弄されず「それが単なるデータであり、その他の意識と公平に扱うことができる」ということになるのでしょうか。



 ならば解脱者とは、もしかしたら人類を超えた超人類!なのかもしれません。(笑)



 いやあ、ドラゴンボールみたいになってきましたが、こういうのが好きな人は、どんどん悟っちゃってください(^^





 
 ってことはなんですか?

 もし、脳みそだけが機械に繋がっていて生かされており、そこに意識があるとしたら、動物機能・生物機能の大半は失われているわけですから、


 それって解脱してる?!


わけなのでしょうか?




「いや、どーせオレ、顔ついてないし。イケメンとかブサイクとかどうでもいいわ」

「いや、どーせオレ、味わえないし。無常だよね」

「いや、どーせオレ、何も感じないから。気にしないで」

「・・・っていうか、映像とか感覚とかはあるんだけど、でもオレなんにもついてないんだよね。実は」

「それより、オレいつまで生きてんの?電源切れたら死ぬの?痛いわけないよな。痛点ないし」

「おーい、誰かー。誰だよ、オレの脳みそ電極に繋いでんの。それって神ってこと?」

「もう、そろそろ飽きてきたし。・・・むしろ涅槃したいかも苦笑」


「・・・」


「・・・・」


「・・・・・・・むなしい。これってむなしいよね!むなしいって、こういうことなんだよね!きっと!げだつうううううう!」




 というわけで、解脱するってどういうことか、理解いただけましたでしょうか?



2015年9月22日火曜日

武庫川散歩が哲学者たる理由 〜中島義道が解く”哲学とは何か”〜

 今世紀最弱の解脱者にして、孤高の哲学者、武庫川散歩が勝手に書きまくる独善的コーナーの時間が今日もやってきました。


 シルバーウイークというよくわからない連休(なんでも、数年もこの連休は訪れないそうですが、では秋の大型連休とは一体なんなのか、どういう存在意義があるのか悩ましくなるものです)



 さて、このブログではいつも誰に認められることもなく、誰に主張することもなく、わたくし武庫川散歩が、卑猥なくらい解脱している状態について一人がたりをしているわけですが、そんなわたくしの観念をかの中島義道氏が、わかりやすく代弁してくださっている記事を見つけたので紹介しておきましょう。



 当ブログのファンであればすでに有名な「東洋経済オンライン」さんで連載されている「哲学塾からこんにちは」のコーナー。

 最新記事では「哲学とは、結局なんなのか」「真理とは、結局なんなのか」について中島氏が語っておられるので、追従してみたいと思うのです。


東洋経済オンラインより 
http://toyokeizai.net/articles/-/82229


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 いつも中島氏が愚痴っているのは、 ようするにこういうことです。


まず

「哲学がやりたいとか、哲学を学びたいとか、そういう感じで哲学塾にやって来る連中の大半が、途中でどこかへ行ってしまう」

ということ。そして彼らはたいてい

「哲学というものに、なんかしらんけど間違ったイメージや期待を抱いていて、実際の中島義道が解説する哲学の話を聞くと、期待はずれで去ってゆく」

のだそうです。


 なぜ、そんなことになってしまうのか。


 中島氏は言います。


「そもそも哲学というのは、ロマンチックでも感動的でもなく、地味でつまらなく、そしてどこまで言っても正解のないものである」


そして、


「だいたいアプローチの仕方から、テーマに至るまで、すべてにおいて明らかになっていないのだから哲学なのであって、明らかになっている部分は科学であるから、つまりはわけのわからないものの大海に放り込まれるようなものなのだ」

と。さらには、


「 そんな意味不明でワケワカメな世界において、それぞれの哲学者はそれぞれの考え方をまとめてきたのだけれど、その誰もがスパッとズバッと解決するような答えを出していないから、あなたが悩みを現在抱えているわけで、結局はあんたの哲学的悩みは、あなた自身が答えを創造しなくてはいけないのだ」


と言うわけです。


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 さて、当ブログをチェックしている方は、すぐに「あれ?これって武庫川散歩がいつも言っていることと、いっしょだよな」と気づくことでしょう。


 哲学ということばを解脱に置き換えれば、中島氏の言葉と武庫川の言葉がまったく同一であることは自明です。


 武庫川散歩は言います。


「解脱というのは、何か神秘的な体験をしたり、ズッキューんとなったり、ビビビとなったりする体験ではなく、極めて論理的で科学的なものである」

「解脱に神秘体験を希望するものは、何か薬物でも摂取してできれば合法・適法にラリったほうが早い」

「解脱というのは、この世界が存在しない、ということに気づくことである。この世界のすべての人が今ここに存在しているのに、それを否定するというとんでもない一人ぼっちな概念である」


等々。


 さて、武庫川散歩は結局、キリスト教の神を否定し、仏教の仏を乗り越え、ITとプログラミングの世界にツッコミを入れながら、最終的には、


「サイバーパンク解脱」


に到達したわけですが、 実は中島義道氏も、その領域に到達なさっていることをご自身で述べておられます。


 では、中島氏にとっての「哲学」とは何だったのか。記事の最後にご自分で説明を書いておられるので引用してみましょう。


「死は言葉なのだ!!」


  これですよ!これ。死は言葉。言葉なんです!


 ・・・奇しくも、聖書には「神はロゴスである」という言葉があり、武庫川散歩が、


「この世界は記号だ!!」


と言っているように、この3つは根源的に同一なのです。


『はじめに言葉があり、言葉は神とともにあり、言葉は神であった』


  これはヨハネによる福音書の一節ですが、キリスト教ではこの言葉(ロゴス)をイエス・キリストのことだと曲解していますが、原典のラテン語では

「ロゴス」は論理・言葉

を指し示します。



 世界はプログラムであり、論理構成であり、文字である。そう説明すれば、武庫川散歩の悟りになります。

 死は文字であり、言葉であり、論理的な概念である。そう説明すれば、 中島義道の哲学になります。

 その論理と言葉と物事の成り立ちそのものを神だととらえれば、それは宗教となるわけです。



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 中島氏の場合は、「死は言葉である」という直観に打たれました。武庫川散歩が「この世は記号なんだ!」という意識に打たれたのと、まったく同じです。


 中島氏は、死は言葉である=記号・ラベルであり実体ではないから、それをいかに解釈するかでその中身は変えられるのではないか、と考えました。

 武庫川は、世界は記号である=実体は存在しないプログラムのようなものなので、何も恐れる必要はないし、本来は無常である。と考えました。


 なので、武庫川は、おそらく中島氏が講義する哲学の歴史についてはべつにどうでもいいとして、彼が探している哲学の中身には、たいへんに共感します。


 このブログで、宗教の歴史を列記したり、解説したりしたのは、単なる宗教史学に過ぎませんが、その悟りの中心は、けして孤独なものではないのかもしれません。







2015年9月7日月曜日

<日常>元祖メンヘラ 太宰治のイタい度合いが甚だしい! 

 どうもどうもこにゃにゃちは。お久しぶりの更新となりました武庫川散歩でございます。
 しばらく多忙につきブログ更新は停滞していたのですが、今日は興味深いニュースがあったので是非にとも取り上げてみたいと思います。


 Yahoo!ニュースより

 <太宰治>佐藤春夫に「芥川賞を伏して私に!」懇願


 太宰といえば、元祖メンヘラ、心の病の百貨店や〜!でおなじみの文豪でございますが、あのお笑い芸人又吉氏ですら受賞したという「芥川賞」が欲しくてほしくてたまらん病でもあったようです(苦笑)


 今回見つかったのは、佐藤春夫にあてた手紙。内容はズバリ、


「芥川賞・・・ほちい」


というもの。いやいや、ほちいなんて甘っちょろいものではありません!


 毎日新聞のニュースのほうには、内容が出てますが、


「俺はまだ本気出してないだけ (自分はきっと良い作家になれます)」

「芥川くれなきゃ、死んでやる!(いのちをおまかせ申し上げます)」

「ボク、かわいそうでちょ? (家のない雀 おさむ)」


 とまあ、さすが大文豪だけあって、ものすごい表現力でグイグイきます!(笑)

 現代社会にもメンタルに不自由な人はたくさんおられると思いますが、あるいは太宰のように、


 全力でセカイに向かって叫びつづける


のもまた一興かと。


 そういう武庫川散歩も、その昔は作家になりたいと憧れていた時期もありました。

 そしてまた、作家たるものは若くして自殺しなければならないと思っていましたが、今から考えるとワタクシもなかなかの中二病ぶり


 悟りをひらいてからというものは、死ぬよりも生きることに哲学的価値を見つけておりますが、太宰治氏も、女や薬に溺れることなく、もう少し生きていれば千円札くらいにはなれたものを(笑)


 そんな太宰の作品のうち、名作を挙げろといわれればそれはもう、


 女生徒


以外にはありますまい。間違っても、走れメロスなんかを挙げてはいけません。

ちなみにこの女生徒、という小説。元祖ネカマ小説ともいわれた「太宰が完全に女子のふりをして書いた」というメンタル崩壊短篇です。

 興味のある方はご一読を。



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全然関係ないのですが、わたくし武庫川散歩の女性遍歴が、(つまり、つきあった女の子が)


太宰が心中しようとした女子たち


とほぼ同じ名前の女の子ばっかりなのは運命なのでしょうか!!!!

 えらいことです。マジで。

 たぶん武庫川散歩は、太宰治の生まれ変わりなのだと!!!


 ちなみに、シメ子とはつきあってないんだからね!
 



2015年8月22日土曜日

幸せを引き寄せるたった一つの法則 ~幸せになる方法~

 しばらく更新をしていませんでしたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか?

 ワタクシ武庫川散歩は、私的な出来事でここのところバタバタしており、ブログを書く時間があまりなかったのですが、本人は至って幸せです。


 そういえば、今年武庫川散歩は厄年だったので、災厄のようなものがうじゃうじゃと悟りを開こうとする仏陀の邪魔をする悪魔のごとく襲い掛かってきたのですが、本人はのんきなものです。

 さすがは解脱者、どんな災いがやってきても一向に介しません。 
 
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 そんなお気楽なワタクシのような人間がいる一方で、次から次へと災厄に襲われるというか、「不幸を呼び寄せている」ような人も存在するので、大変なことです。


 私は普段、会社勤めをしている一見普通のサラリーマンなのですが、私の会社の部下でこんな人がいます。


①最近嫁はんと離婚をして、住宅ローンの残額と養育費を抱えている。
②滞納していた税金の差し押さえ通知が、会社に届いた。
③この間も、先日も交通違反で捕まった。現在免停一歩手前。
④タイヤがパンクした。
⑤嫁はんが買っていたウン十万の鍋のローンが払えない。
⑥腰痛が痛い。それはもう痛い。


 数え上げれば、彼の不幸エピソードはなんぼでも出てくるのですが、自他共に認める


「どん底野郎」


という生活で、見ているこっちもハラハラどきどき、スリルとサスペンスです。



 もちろん、いちおう武庫川は上司なので、税金の差し押さえを免れる方法を教えてやったり、免停前講習のために仕事を休ませたり、いろいろと相談に乗ってはいるのですが、根本的にはおそらく解決にはなりますまい。



 彼の不幸な生活がしばらく続くであろうことは、容易に予想がつくのですが、なぜそうなってしまうのか、という根源については、彼はまったく気づいていません。



 なので、ここらでちょびっと、彼が普段どんな生活をしているかを紹介すれば、みなさんにはその理由がすぐにわかることと思います。



①10代で結婚した。
②嫁はんと結婚していた時には、子供が4人もいた。
③現在の会社に出社する時間は、社員の中で最も遅い。
④取引先に、「ボクよくわからないんで、他の人に注文してください」と言ったことがある。
⑤家ではシャコタンにした車に乗っている。それもかなり古い中古車。
⑥転職歴3回。


 なんとなくわかってきましたね。


 そうです。彼はこれまでの人生をかなーり行き当たりばったりで生活しており、そのためお金もなく、給料が増えるような努力をすることなく、すべてをギリギリで生きているわけです。


 なので、彼の人生の要素のうち、ひとつや二つが好転しても、基本的には彼の人生は不幸なままです。

 彼が不幸の自転車操業に陥っている原因のひとつは、直近お金がないことですが、仮にまとまったお金が天から降ってきても、またおなじパターンに陥ることは容易に想像がつきます。


 ということは、彼は


「結果論として不幸なのではない。生き方が幸せではないのだ」


ということになるわけです。



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 では、人が幸せになる方法、幸せを引き寄せるにはどうしたらいいのでしょうか?


  解脱者である武庫川散歩が、巷に広まっているいろいろな言説を差し置いて、ズバリと物申しておきたいと思います。



 そのたった一つの幸せの法則とは、次の法則です。




 ”結果の幸せを求めるものは、幸せになれない。幸せな”今”を求めるものは、幸せな結果を手に入れることができる”


 幸せな結果とはなんでしょう。

 たとえば、お金持ちになりたい、とかブランドのバッグが欲しいとか、いい男と結婚したい、とか、最終結果としての幸せを求めることを意味します。


 これを追求する人は、けして幸せになりません。


 彼らは、お金を持っている寂しい人や、バッグを持っている貧しい人、いい男と結婚して浮気された哀れな女になるだけなのです。




 では、そうではなく「幸せな今」とはいったいなんのか?


 それは、生活や生き方のひとつひとつをより良いもの、幸せな方向へ向けることを意味します。


 お金に苦労したくないのであれば、浪費せず慎ましやかに暮らすことです。

 いい男との結婚ではなく、よき彼氏やよき友との出会いや関係を深めることです。


 ふだんは質素なバッグを持ち、お金を貯めていつかブランドバッグを持つという夢を見ているこの時間が、幸せなのです。



 こうしたことを積み重ねていけば、おのずと結果は後から必ずついてきます。




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 ヒモ体質の男性が、たいしてかっこよくもなく、小太りでどちらかと言えばキモくても、女性に不自由しないのはなぜだか考えたことがありますか?


 そこには、明確な「ヒモ体質の幸せの法則」がちゃんとあります。


 一般的に、ヒモ男子は「あの人はだらしないけど、優しくてマメなの」と言われたりします。

これは、単純な言葉のようで、奥深いのです。


 ヒモ男子が彼女に提供しているのは、最終結果としての「パートナーとしてのすばらしい男性像」ではありません。むしろ「ダメオトコ」を提供しているわけですが、しかし、彼は、


「女性を思いやり、丁寧な応対を心がけている」



ことは事実です。 これこそが「幸せである”今”」を提供しているということなのです。


 【幸せな”今”なう】


の積み重ねこそが、真の幸せであり、それが結果の幸せを呼び寄せることは、知っている人はすでに実践しています。


 先ほども言ったとおり、私はふだんビジネスパーソンですが、


「顧客応対を丁寧に誠実に積み重ねる」


ことで、管理職の地位を手にしています。ビジネスの成果ですら、まったく同じです。


「幸せな今、よりよき今の提供」


でしか、ビジネスの結果はついてこないのです。



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 最後に、不幸を呼び寄せる法則を反面教師として列挙しておきましょう。これに当てはまる人は、現在すでにおそらくかなり不幸のはずです。そして、そこから抜け出せないことは、間違いありません。



①自分が楽できればいい、などの不誠実な対応をする。
②相手の利益よりも、自分の利益を考える。
③努力をしない。必死にならないまでも、意欲を持つことすらない。
④結果の幸せだけを夢想しており、日々の生活はそこから遠く離れている。
⑤ルール等に誠実ではなく、誰かに迷惑をかけたり、疎ましく思われている。
⑥嫌なことがあると、怒りを覚え、それを周囲に表現する。
⑦お金を貯めることではなく、使うことで喜びを覚える。
⑧虚栄心が強く、見栄っ張りである。
⑨誰かに何かをしてあげることがない。
⑩ていうか、めんどうくさい。


 みなさんは当てはまるものがありましたか?















2015年8月11日火曜日

命を奪ってもいいのに、人を殺してはいけない理由 ~いのち、は殺しても良いという衝撃~

 以前にも、一度「どうして人を殺してはいけないのか」という問題についてお話をしたことがありますが、


 なぜ人を殺してはいけないのですか?



 今回は、そこから一歩進んで考えると「おっそろしい事実」が発見されたので、その衝撃のお話をしておこうと思います。


 まずは、みなさんにもびっくり仰天していただくために、人類の中で暗黙の了解になっている恐ろしい真実を先にお知らせしておきましょう。


 それは以下のような事です。人類はなんと、



 別に、命(いのち)を殺すことは全然かまわない



と考えているというのです!!! なんということでしょう!



 ・・・と、これだけ書くと、ほとんどの人は


「そんなことはない!人類は、命を殺すことについて大変厳しく臨んでいるし、そういうことを許してはいない」


と反論なさることでしょう。


 ・・・あまい!あまっちょろい!そんなことをいうのはどの口だ!!!


 と、思わず武庫川散歩も大声を上げそうになりますが、よくよく考えてみましょう。


「人は命を殺すことをなんとも思っていない」という事実と、では「一体何を殺してはいけないと考えているのか」というもうひとつの事実を。



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 まず、人類が命を奪っている事実を、しっかりと認識したいと思います。


 「命」というのはなんでしょう。

 それは、ただモノがモノとしてそこにあるのではなく、何がしかの生命活動をしていることを「いのち」と呼ぶわけです。


 その意味では、私達は肉や魚を食べるし、草木植物を活動停止させて食にしていますから、基本的には


「いのちをいただいている」「いのちを奪って食としている」


ということは疑いがない事実であるということになります。


 動物の中に命が宿っているという事実、またそれを奪って私達が生活していることを「重く受け止めている」人たちの中には


 ベジタリアン


というライフスタイルを通して、なるべく命を奪わないように気をつけておられる方もいるでしょう。


 しかし、ベジタリアンだからといって「命を奪っていない」ということにはなりません。確かに彼らは動物の命を奪ってはいないけれども、植物の命は奪っているからです。



 ベジタリアンの中には、動物と植物の間には一定の線引きがあるようです。これは、命を考えるときに大きなヒントになるかもしれません。


 動物にあって、植物にないであろうもの。「それを奪う」ことは、どうやらベジタリアンには許されざることなのでしょうから。



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 話の見方を少し変えてみましょう。


 もし、神が「いのちをむやみに奪うこと」を許さないのであれば、おそらく人類のすべては、その命令に背き、神から滅ぼされることになるでしょう。


 なぜか?


 それは、人はかならず、自分自身のいのちの分身を奪っているからです。


 人が、次の世代にいのちをつなぐ方法はたった一つしかありません。


 男性は精子を作り、女性の作った卵子と結合させて子供を作ることです。


  
 ということは、精子はいのちの一部であり、卵子はいのちの一部であるわけですが、残念ながら人類は、すべてのいのちを助けることは不可能なのです。



 どういうことか?


 たとえば男性であれば、1回の射精において数億ものいのちを生み出しておきながら、そのいのちを継続させられるのはたった1いのちであり、その他はすべて死滅させることになります。


 女性は人生で500個ほどの卵子を妊娠可能卵子として放出しますが、これまた残念ながら500個すべてを受精させることは不可能です。



 ということは、男性女性とも「いのちの一部」を残忍ながら見殺しにしており、人生でわずか数個のいのちを人として育て上げることしかできていない、ということに気付かされるわけです。



 (あくまでも「いのちを奪ってをならない」と考えるならば、そうなってしまいますね)



 ですので、現実的には、捕食のためにも人は命を奪っているし、生殖においても多数の命を破棄していると考えるのであれば、


 人は命を殺しつづけている


と定義できることになるのです。



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 しかし、大半の人は、人が命を奪いつづけている事実からは目を背け、「自分たちは殺してはいない」と思い込んでいます。


 これは、別の考え方を持ち込めば、たしかに成立するかもしれません。


 そうです。人は「命は殺しているけれど、その他の何かを殺してはいけない」と考えているっぽいのです。




 ベジタリアンが動物を殺さない理由、それは


「いのちを奪わない」


ためではありません。




 でも、「いのちではない何かを奪わない」ということは、どうやら守ろうとしているようです。


 その「いのちではない何か」とはなんでしょう。


 それは、とてもわかりやすい言葉で説明するならば「意識」です。



 以下のような言葉の例を考えてみてください。



 ■ 動物には意識があり、考えているからその意識を奪うのは殺すことになりいけないことだ。


 ■ 植物には意識がないが、動物には意識がある。なので植物は食べてもよい。


 ■ イルカには高度な意識があり、人間に近いので食べてはいけない。


 ■ 受精卵には意識がない。なので堕胎してもよい。しかし生まれた赤ん坊には意識がある。





 こうした具体例を上げてゆくと、人類が守ろうとしている何かがはっきりしてきます。そうです、人は


「いのちを殺すことはやぶさかではないが、意識を殺すのはいけないことだ」


と考えているらしいのです。



 こうして考えると、なぜ人が人を殺してはいけないとされているのか、その理由がわかってきます。



 誰かが、誰かを殺すとその人の意識が失われます。いけないこととされているのは、意識を失わせることです。


 ではなぜ、意識を失わせ、意識を奪うのはいけないのでしょうか?


 それが許されるのだとすれば、今世界を知覚している自分の意識がもろく危ういものになるからに他なりません。


 そうです。人は「自分の意識が失われることは、自分と自分をとりまくセカイそのものが瞬間にして消え去ることだ」とわかっているのです。


 なので、「自分の意識が失われるようなことがあってはならない。なので(そこから想像するに)、相手の意識を奪ってはいけない」と考えているのです。




 こうして「命は奪ってもいいのに、人を殺してはいけない理由」というものが出来上がりました。


 
 人は自分の意識に近そうな動物をも殺してはいけないと考えるようです。興味深いですね。 

2015年8月3日月曜日

帰ってきた勝手に人生相談シリーズ スペシャル その7 「勝手に中島義道と議論する」 ~稀代の哲学者と稀代の解脱者が勝手にバトル!~

 夏真っ盛り。

 今日も熱中症で熱中時代なみなさん、おはこんばんちは。あなたの血圧をそっとアップさせる解脱者武庫川散歩のヨタ話の時間がやってきましたよ。


 わたくしは、いつも 東洋経済オンライン さんに連載されている中島義道センセイのネタをたのしくほがらかに拝読しているのですが、 今日は、


 勝手に人生相談シリーズ、スペシャル!


と称して、勝手に中島センセイとの議論を楽しんでしまおう!という神回をお届けしようと思います。


 この勝手に人生相談シリーズは、ネットに転がるさまざまな人生相談や悩みに対して、頼まれてもいないし、誰もみていないのに勝手に考えて勝手に答える、というどう考えてもまともじゃないコーナーなのですが、それなりに愛読者がいるようなので、わたくしの勝手な判断でだらだらと続いております。


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 さて、今回の相談者、というか別に相談なさっているわけではないのですが、中島先生が勝手に何かお書きになっているので、わたくしも勝手に回答しようと考えております(笑)


 元ネタはこちら


 東洋経済オンラインより 「哲学者のほとんどが、はなはだしく独善的だ」の巻
   http://toyokeizai.net/articles/-/78531



 中島センセイの愚痴?はカンタンにまとめればこんなことです。


「たとえば、絵画を教えるといったことは、決まったルールがあったり、基礎基本的に体系が作り上げられたものがあるので、具体的に説明したり、修正したり、手助けすることができる」


しかし、


「哲学というのは、 なぜそうなのか、ということを説明しがたく、あるいは、一見論理的に説明できたとしても、それの正誤をきちんと判定したりすることが大変に難しい。」


そして、


「で、結局哲学者の意見の交換は、独善的で自分の感情に寄ったものになってしまい、明確な結論が出たり、答えにたどり着いたりしない。」


のだそうです。


 というわけで、哲学の議論たるものは、結局は感情的なものになり、誰も自分の説を曲げないし、むしろ哲学者が全身全霊をかけてその説について考え抜いているのであれば、いっそうそれに反する結果など求めず突っ走るのである、とのこと。



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 とまあ、こういう話を読めば読むほど、わたくしなんぞは、


「なあんだ、哲学者ってやっぱり当初の予想通り、ひねくれモノで頑固な変なおっさんに過ぎないのだ」


ということを確信するわけですが(爆笑)、哲学を知らない者から見たファーストインプレッションと、哲学を究めた中島センセイの結論がおんなじなのだとすれば、こんなに


可笑しい


ことはない!わっはっは。


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 さて、中島センセイと議論したいことがあるとすれば、わたくしは結局次のようなことしか残されていないのではないか、と考えます。


哲学が、それぞれの哲学者や探求者によって多様な独善的解釈が可能となり、かつそれらの矛盾を突き合わせて、何がしかの真理真実を見つけることは難しい、というのが結論なのだとすれば、


 「いったい全体なぜそんなはめになってしまうのか」ということを考えるのもまた、哲学の哲学なので面白いわけで。(入れ子構造になってますがね)


武庫川散歩的には、これは結局「哲学が生のありようというものをテーマにしている」から生じる問題点なのだと思われます。


 そう!哲学っていうのは、「なぜなにどうしてわたしは生きているの?私の生きていることと、あの子が生きていることはどう違うの?おんなじなのだったらどうしてあの子とわたしは合体してないの?」という生に対する探求なわけなので、


そりゃ、多様な生に対する考え方が生まれても仕方あるまい、ってわけですよ。


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 だとすれば、万人に共通する共通項を探り出せば、面白いことになるのではないかしら。武庫川散歩は、哲学の新たなる根源は、


「死」


にこそあれ、と思うのです。


 これは奇しくも中島センセイのテーマと結局合致するのだけれど、多様な哲学もクソもねえよ、命あるものはみんな必ず死んじまうんだよ、ちくしょー!ということこそが、すべての哲学に連なる根源に思えて仕方ありません。



 哲学だろうが、なんだろうが、構築されたものは、電源が落ちれば消えるのです。人類が哲学という資産をたくさん持っているように思えるけれど、太陽が寿命尽きれば、全部パーです。



 だとすれば、東洋哲学と仏教が言うところの、「無常」観(実はやっぱり何にもないのよ)こそが、いちばん面白そうだと武庫川散歩はやっぱり思います。



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 こうなると、感情的もクソもありません。どうせ死ぬんだもの。そっちの説が正しかろうが、こっちの説が正しかろうが、すべてかりそめの


「気分」


みたいなものに過ぎません。


 いいんじゃなーい。別に。どうせ死ぬんだしー。


ということが根底にあればこそ、 自説に固執してそれを戦わせることに意味があるとは思えなくなるのです。






 いいいですか?もし法が存在せず、ここに銃が存在すると想像してみてください。

 あなたの隣には、何がしかの哲学を大いに語っているおっさんか若造かがいるわけです。そして、口の端からつばを飛ばしながら、

「これこれこうだ!こうあるべきだ!」

と語っているとしましょう。

その説が正しいか、その説が正しくないかなんてどうでもよいのです。

あなたが一発の銃弾を彼に打ち込むだけで、そんな哲学は消えうせる。一瞬のうちに。その哲学が存在していたかどうかなんて、どうでもよくなるのです。


彼はもう、その説を考えることなんてできないのだから。

なんなら、あなたが自分に向けてもう一発発射すれば、そこに哲学はありません。

静寂だけが残るのみ。彼が発した哲学の説を、覚えているものすら、存在しないのです。

それで果たして、「とある哲学がたしかに世界に存在した」と誰が言えるでしょう。

そんなものは、あってもなくても、どうでもよいのかもしれません。死の前には無力ですとも!