2018年4月28日土曜日

なぜ19歳警察官は上司を射殺し、塀のない服役囚は逃げ出すのか。 ~正義が主観になってしまった時代~



 世紀の解脱者、ムコガワ散歩が沈黙を守っている間、俗世では大変な事件が立て続けに起きているようです。


 たとえば、19歳の警察官が、上司に叱られたので背後から頭を拳銃で撃って射殺したり、あるいは、塀に無い刑務所にいた模範囚が、立場が上の人に叱られたので脱走したり。




 一般的には、これが「ゆとり世代」なのか?と、「最近の若者は」論のテイストで論じられることが多いようですが、これから日本社会はどうなってしまうのか戦々恐々としている人も多いことでしょう。




 武庫川は解脱者なので、その理由がはっきり見えています。



 「まるっとごりっとお見通しだ!」



と、山田奈緒子風に、今回のお話をお読みください。



 さて、その前に、参考程度に2つの記事をざっと読んでいただきましょう。





 若手社員が「自分がやりたいことと違う!」と思ってしまう理由
http://diamond.jp/articles/-/167078

(ダイヤモンドオンライン)



 子を褒めて伸ばすと、こどもがつぶれる
http://president.jp/articles/-/24944


(プレジデントオンライン)




 これらの話はみな実は共通しているのですが、識者と解脱者は現在の風潮の問題点について


「早くも気付きはじめている」


ということでもあります。では一体全体、何が問題だというのでしょうか。




~~~~~~~~~~



 怒られただけで上司を射殺してしまう警察官の問題と、おとなしく我慢していれば刑期満了で自由になれるはずの受刑者が逃げ出してしまうという事実が起きた時、今の世界は世代によって2つの大きな受け止め方の違いが生じています。



<Aの受け止め方>


「いや、仮にものすごい罵倒されたとしても、撃ったらあかんやろ、それは当たり前のことだ」

「仮に刑務の仕事で怒られても、もうちょっと耐えればすぐそこに自由の身があったのに」




<Bの受け止め方>


「相手を撃ちたくなるくらい、罵倒されたってことやな」

「ブラックな仕打ちがあったので、逃げ出したくなってもある意味仕方ないな」





 現在、これらの事件の受け止め方には、この2種類がはっきり分かれるのですが、あなたはどちらの立場でしょうか?




~~~~~~~~~




 この2つの視点・受け止め方はわかりやすく言い換えると、次のようなことです。



Aの方は、


■ 罵倒するような行為、あるいは怒鳴るような指導法は悪である。

■ しかし、その悪よりもたとえば拳銃で撃つことのほうがもっと悪である。

■ あるいは、その悪よりも我慢して手に入れられる自由のほうが、自分にとって善である。



という善悪、利益と不利益の客観視が出来ていて、仮に相手が押し付けてくるものに悪が含まれていても、全体としての善悪、利益不利益で判断することができる、ということです。



Bの方は、


■ 罵倒するような行為、あるいは怒鳴るような指導法は悪である。

■ 悪は倒してもよい。あるいは逃げても良い。相手は悪であるから、相手は確実に悪い存在なのだ。

■ 自分にとって悪である他者は問題である。その悪はなんらかの方法で解決もしくは排除されるべきである。



という考え方です。一方から見ればたしかに相手は悪で、こちらは善です。善が悪に征圧されている状況は望ましくないので、なんらかの方法で、悪を排除せねばなりません。


 その方法が結果として良い方法だったか、悪い方法だったかは「周囲が勝手に判断していること」であり、当人にとってはその対応策は「悪に対する善」である、ということです。





~~~~~~~



 Bの考え方では、「善悪・正義の判定」があくまでも主観的になっていることがわかります。しかし、この世の中では、主観的な正義ではなく、


「時に常識と呼ばれるような」客観的な正義


によって判定がなされます。


 それはもう、悪い上司に対して射殺することは、客観的判定においては、悪い上司よりもさらなる巨悪ということになります。




 Bのタイプの人は、こうした場合ついつい「おまえは悪い上司の方を持つのか!」と感情的になる場合がありますが、そうではなく、


「自分の視点、立場」

「悪い上司の視点、立場」

「神様や観客の視点、立場」


の3つの視座がそこにはあるんだ、ということが大切なのです。 彼と我の話だけで考えるから単なる感情対立になるのであって、


第三者の神様の視点


が最終的な正義や善悪を定めるのだ、ということが、Bの視点からは欠落しているということなのです。




==========



 社会というのは、本来、「主観的な正義」がぶつかり合う中で、「擦りあわせ」や「落としどころ」を探りながら発展してきたものです。


「俺はこれを食べねば飢えてしまう。食うことは正義だ」

「俺だってこれを食べねば飢えてしまう。食うことは正義だ」

「では、なんらかの方法で分け合うことにしよう。俺の正義の一部を曲げて」

「俺だって正義の一部を我慢して分け合うことにしよう。そして生きるのだ」


というのが社会が出来てゆくということです。


 つまり、「主観的な正義」を「客観的な正義」へと変化させてゆくことが、文化文明であり、人類の進歩と調和だったわけですね。




 解脱者武庫川的には、このことは



「セカイは正義の執行のためにあるのではなく、そもそも正義なんてないのだ。だから正義を追求することはある意味悪だ」


と定義しますが、(だってこのセカイは空虚なんだもの) 大切なことは



「正義を執行することが大事なのではない!悪を減じてゆくことだけが大事なのだ」


ということなのですが、このことは衆生にはなかなかわかりにくいようです。



 そうです。人々は「正義は執行されるべきだ」と信じて疑わないからです。




  そうして、「主観的な正義の肥大」が起きてしまうと、人々は戦国時代へと逆戻りすることへなるでしょう。



 互いが、互いの「主観的な正義を最大にすることこそ、真の正義である」ということが、これからの時代ではどんどん起きてくるということなのです!



 こうして人類は、滅びに向かうことになるのです!



 さあ、悔い改めなさい!



 なーんちゃって。

 


 ☆ ちなみに撃たれて殺されたくないための回避方法については、


「叱られたことのない人を叱ると殺される」
http://president.jp/articles/-/24964


という記事が参考になります。



 なので、ワタクシ武庫川は「仏の武庫川」なんですが、自分の息子については「怒られても耐えられる不屈の精神」を身につけさせるべく、毎日怒鳴りつけております。

なーんてね。 きゃぴっ!




0 件のコメント:

コメントを投稿